えとりんご

観劇の記録。ネタバレご注意を。この橋の向こうにジャコブ通り。

ジャック・ザ・リッパー ③ジャック

ジャック・ザ・リッパーの考察レポシリーズ、とりあえず最終回(予定)です。完全ネタバレ注意です。

また、今回はかなり個人的な解釈を書いていますので、実際に観た方との印象とも異なる部分があるのではないかと思います。でも、必ずしも答え合わせをしなくていい、解釈が一つではないのが面白いところ、と昔どこかで誰かが言っていたので、一つの解釈としてお読みいただければと思います。

ジャック

-というより『ジャック・ザ・リッパー』全体のこと-

ジャックの正体

結局、史実の切り裂きジャック事件の真犯人はどんな奴だったんだろう…というのが見た直後の感想。
1幕のジャックは快楽殺人的で、彼の正義が何なのか、そもそも正義などあったのかも分からない。2幕は人外だから当然と言えば当然なんだけど、とことん狂気(とセクシー)を純粋培養して作られている。ジャックが不必要なまでのかっこよさとセクシーさを備えていたのは、(中の人の特性も勿論あるけど)ダニエルの憧れを具現化しているんだろうね。有無を言わさない威圧感に加えて、猟奇的な行為を躊躇なく鮮やかにやってのける背徳的な美学… グロリアを救うために共犯を強いるなら単にグロテスクな悪魔でもよかったのに、美しすぎるラスボス刺客を生み出してしまっているところが、ダニエルが元々隠し持っていた狂気の発露なんでしょう。

この作品を見て、切り裂きジャックの真犯人への興味を掻き立てられたのは確かで、もし本当に犯人が愛する女性のために臓器移植を切望した純粋な外科医だったらちょっと救われるなという気持ちにはなった。それは、どこかで人間を信じていたい気持ちの表れなのかもしれない。単なる快楽のために、自分よりも弱く地位の低い娼婦ばかりを狙って猟奇的に殺害したというのではあまりに残酷すぎて、そこまでさせた何か真の理由があると言ってくれた方が救いがある。でもそれはまさにアンダーソンが言ったように、ポリー達娼婦がメロドラマの小道具になってしまうということ。ダニエルの利己的な欲求に使われた、しかも誰でもよかったのにたまたま被害にあってしまったという救われない結果になってしまう。

 

自分の正義や愛を貫くため、他人を犠牲にすることも厭わない狂気的なエゴがジャックの正体と言える。であれば、人々の知る権利を振りかざして真実を少し捻じ曲げて面白おかしく作り出すモンローもしかり、ポリーの死をメロドラマの醜聞に晒すのを避けて真相を封印したアンダーソンもしかり。見方を変えれば、誰もが心の中にジャック(=エゴ)を飼っていて、自分の大きな正義のために他に犠牲を強いてしまう気持ちがあり、それが時に狂気に変わる危険性があるということ。

レ・ミゼラブル罪と罰などに通ずるものを感じた。大きな正義の前に小さな罪は許されるのか。何が正義で何が罪か。法には反していても認めたい正義もあれば、断じて許されない利己的な正義もある。けれども、それが許されてよい正義だと誰が決めるのか。その正義で犠牲になった他者はどう救うのか。ダニエルの正義は誰しもが認めないと判断するだろうが、モンローの正義やアンダーソンの正義は認めるのか。

ダニエルの狂気

正気から狂気に変わることを押しとどめるのは何か。当然、倫理観ということになるが、それともう一つ赦す勇気。赦す、つまり受け入れる勇気。人をゆるす、罪をゆるす、心をゆるす、体をゆるす、愛をゆるす、色々あるけども、神が与えた定めや今自分が生きる現実を受け入れるということも。

ダニエルは無敵万能エリートだっただけに、グロリアと自分に降りかかった災厄を何としても排除したかったし、排除できると信じていたわけで、病や死や別離を受け入れることができなかった。その結果、精神を病んで狂気を発現させたとも言える。賢章ダニエルに至っては、その狂気すら自らの万能感をさらに増幅させて、命を救うことも奪うこともできる生殺与奪権を持つところまで自分を神格化したのではないかと思わせた。

けれども人間は神ではない。自然の摂理や宿命に完全に抗うことはできない。どこかで全能感は捨て去り、運命を受け入れないといけない。それがダニエルには最後までできなかった。純粋すぎて、実際万能な人生を歩んできたがゆえに。

モンローの狂気

モンローは最初から金への執着が強く、最後のカオスの場面では明らかに狂気に転じている。「気でも狂ったのか!」と言うアンダーソンに対して「そう、狂ったんだ~!」と自分でも言っているし、その後に新たに持ちかける契約は、ダニエル以上に常軌を逸していて到底理解しがたい。よく聴くと、ここでモンローが歌っている歌はジャックの狩りのメロディー。モンローの中のジャック(=狂気)が表出したということなんだろう。

この時のモンローに共感できるところはないように思えるが、このシーンが示すところは何なのか。モンローを狂わせているのが金であることは間違いないが、金は需要と供給のバランスの上に成り立っているもの。モンローが歪んだ記事を書いても、売れなければ金にはならない。でも現実は、モンローが面白おかしい記事を書けば書くほど、民衆が興奮し、モンローに大金が入る。モンローの狂気は、すなわち民衆の狂気。最も理解不能だと思っていたモンローの狂気を生み出しているのは、(もしかすると我々観客も含めた)民衆だということ。「踊る殺人鬼」のショーや、市民が歌う「もっと見せて残酷な事件」「面白がる野次馬も罪は同じだ みんな人殺し」…が一斉に耳によみがえる。

アンダーソンの狂気

アンダーソンには「俺はようやく正気に戻った」という台詞があり、ならばその前まで狂気だったということになる。実は初回に観劇した時から、私のスマホには「アンダーソン 何が正気で何が狂気?」と書かれた暗号のようなメモが保存されている。ずっと考えているが、いまだに私は消化しきれていない。

彼もまた生きづらい現状に耐えかねて酒や麻薬に溺れて現実逃避しようとしている。ロンドンの犯罪や貧困や格差をなくそうと崇高な理想を持って警官になったであろう若かりし頃は間違いなく正気だっただろう。しかし、世の中は理想とは程遠く暗く、大切なポリーが娼婦暮らしから抜け出せるような社会を作ることもできず、そればかりか民衆は事件をゴシップにして高みの見物を続ける…。

いつしか理想は諦め(まだ正気)、酒や麻薬に溺れ(やや狂気)、モンローとの取引に応じるほど堕落していくが(狂気)、ポリーをおとりにしてまでも(狂気)事件の真犯人を捕まえようとする気持ち(正気)は持ち続けている。事件の全貌を知って「ようやく正気に戻った」後に遂行したのは、ダニエルを殺し(狂気?凶悪犯からの正当防衛という意味では正気か)、モンローに銃口を向け(劇中一番の狂気)、モンローとの契約を解消し(正気)、ダニエルに同情が集まるのを避けるため(正気か狂気か)、もしくはポリーを守り抜くため(正気か狂気か)、研究室を破壊し(狂気)、モンローを置き去りにし(狂気)、麻薬を吸引して(狂気)、事件は迷宮入りとの報告を行う(正気か狂気か)。アンダーソンは正気と狂気を行き来していると言えるが、最後に本当に「正気に戻った」のか「究極の狂気に陥った」のか、これは結局誰の目線で何を正義と捉えるのかによる。


この物語が麻薬に溺れたアンダーソンが見た幻覚だったのではという解釈もあるようで、それも面白いが、個人的には夢オチはあまり好きではないので、そうは解釈していない。連続娼婦殺害事件の犯人はダニエルで、そのダニエルを突き動かした狂気的なエゴそのものの正体がジャックであり、アンダーソンが墓場まで持っていくつもりで隠した秘密の告白を我々観客が聞かされたという、恐らくは最も素直な解釈をした。その上で、ダニエルの正義は許されるのか、さらにはこのアンダーソンの正義は許されるのか、アンダーソンが下した判断は正気なのか狂気なのか、それはまた観客の判断に委ねられたのではないか。

もしこれが、ダニエルの視点で語られ、ダニエルの射殺で終われば、完全なる狂気ではあっても多少の同情は得られるだろう。モンローがドラマチックに記事を書きあげれば、切り裂きジャック事件は「愛を貫いた哀しい殺人鬼」や「警官と娼婦の悲劇のラブロマンス」として後世に伝わったかもしれない。

つまり、我々が感じる正義と悪、正気と狂気というのは、実は我々が思うほど明確には分かれていなくて、背景や語られる目線、新しく知る情報で常に移り変わる紙一重の違いなのではないかと感じた。今自分が正義と信じているもの、自分自身が正気と信じて疑わないこと、それが本当に正しいのだろうか。ひとりよがりの正義になってはいないだろうか。


私自身は、推しキャラであるアンダーソンに共感もするし、弁護したい気持ちはあるものの、彼の最後の決断は狂気だと感じた。アンダーソンの狂気とは、ダニエルへの強い憎しみ(決して愛で正当化させたりはしないという執念)、ポリーの尊厳を守り抜く決意、自分のせいで命を落としたポリーへの愛と罪滅ぼし。それ自体が間違っているわけではなく、まさに正義と言える。ただ、(くだらなくはない)のろけ話を2時間も聞かされ、ついうっかりもらい泣きしたが、実際にダニエルと(間接的に)モンローを死に追いやり、全ての真実を闇に葬り去ったのはアンダーソンなわけで。死の意味を見つめることで、生の意味を見つめるとすれば、アンダーソンは、ダニエルとグロリアとモンローと2人の警官とポリーと他の娼婦の死の真相を封印したことで、あらゆるものを葬り去ったとも言える。ポリー達の尊厳を守るためという正義の下、犠牲となった者の尊厳は守られるのだろうか。

ジャックの影

結末に、何とも意味ありげに浮かぶ人影とタイプライター。
窓に映る影がジャックの像を結び、揺れ動きながら消えていく。部屋の中では、アンダーソンが真実をしたためた報告書を炎で燃やした後、無人のタイプライターが報告書を打っている。タイプライターの意味がずっと分からずにいたが、あれはアンダーソンの中にある狂気、すなわち我々には見えないアンダーソンのジャックが部屋に入ってきて、迷宮入りだという嘘の報告書を書いているのではないか。

そんなことを思いながら窓に映るジャックの影を思い返すと、ダニエルの中のジャック、アンダーソンの中のジャック、民衆の中のジャック、そして、観客の中に芽生えた、ダニエルやアンダーソンの正義を認めようとする感情もまたジャックとして表現しているようにも思える。さらには、JTRの作品を超えた日常生活においても、我々一人一人の心の中にジャックが棲んではいないかと突きつけられている気がした。

史実の切り裂きジャックは5人目の被害者を最後にぱったりと犯行を終わらせたようだ。アンダーソンがジャックもろとも闇に葬り去ったのか、ジャック自身がそこまでしても求めるものが得られないと絶望して改心したのか、もしかしたら実は求めるものを手に入れて満足して幕を降ろしたのか…考えを巡らすとさらに背筋が寒くなる。史実のジャックは誰なのか…と考えている時点で私も『ジャック・ザ・リッパー』に切り裂かれている。