えとりんご

観劇の記録。ネタバレご注意を。この橋の向こうにジャコブ通り。

バイオーム

※ネタバレ厳禁のストーリーですが、一部ネタバレを含んでいます。未見の方は十分にご注意ください。

2022年6月 配信(東京建物ブリリアホール
ルイ・ケイ 中村勘九郎
フキ・クロマツ 麻実れい
怜子・クロマツの芽 花總まり
学・セコイア 成河(ソンハ)
野口(庭師)・薔薇 古川雄大
克人・盆栽 野添義弘
トモエ・りんどう 安藤聖
脚本 上田久美子

 一言で言うと衝撃作だった。5日間のみの朗読劇。朗読劇と言えば、俳優が椅子に座って台本を読むイメージだが、宣伝動画では台本を持たずに歩き回ったりしていて、どうも通常とは違いそうだ。今年3月に惜しまれつつ宝塚歌劇団を去った上田久美子氏が退団後初の脚本を務めると注目されていたこともあり、配信で観劇した。
 爽やかな読後感ではなさそうな予感はあったが、予想を遥かに超える地獄展開で、重苦しさに耐えられなくなりつつも、途中で抜け出すこともできないほど囚われてしまった。重い。苦しい。えげつない。人間の暗部をこれでもかと抉り出し、人間の業がドロドロと渦巻く世界の話だった。 ※この先、ネタバレ注意です!

 7人の俳優は実力揃いで、あっという間に世界観に引き込まれた。麻実れいさんの語り口や中村勘九郎さんの8歳を演じる演技力も素晴らしかったが、何と言っても花總まりさんの狂気ぶりが凄まじかった。花總まりさんは、ミュージカル好きであれば、誰もが知っている宝塚出身の女優だ。王妃や王女の役柄のイメージが強く、華やかで気高く、かつ繊細な内面を持つ女性を魅力的に演じてきている。
 その花總さんが気が触れるほどの狂気に陥っていく様が凄絶だった。大物政治家の娘であり妻であり、跡継ぎを生み育てる母であるのだが、その息が詰まりそうな環境の中で自分の人生の意味を見失い、精神を保てなくなってしまっている。美しいまま歪んで壊れていく姿はぞっとするほど怖く悲しく、そしてとてつもなく美しかった。
 登場人物は皆愛に飢えているか、愛をはき違えているか、愛を知らないか、愛を殺しているか、とにかく一般的な愛というものが完全に欠落した家族だった。しかしタチの悪いことに、愛は欠落しているのに、子孫を残すことに対して恐ろしいまでの執着を持っている。政治家の家庭だから、跡取り、血筋、遺伝子が持つ重さが通常の家庭より大きいのかもしれない。通常なら、仮に愛する人に巡り会えなくても、子供に恵まれなくても、それ以外に生きる意味を見出すことはできるはずで、職業も政治家以外にも沢山の選択肢の中から選び取っていけばよい。政治家が見ている世界が、日本であり世界であり未来であるのに対して、その家庭は何と狭苦しい世界に閉じ込められていることだろう。
 また、本来ならば愛があって、その結実として子供が生まれ、その子供を通して未来を見るわけだが、この家にとっては全く逆の構図となっていて、未来を存続させるために子供が必要不可欠という考えなので、子供が道具であり、更にその手段として嫁や婿が存在してしまっている。そこに愛の入る余地などなく、必要とされてもいない。それだけなら時代錯誤とはいえ、古今東西繰り返されてきたことのようにも思えるが、さらにおぞましいのは子供が復讐の道具として使われてしまっていることだ。一度生み出せば、将来を保証する原石ともなるが、そこにいびつなものが混ざると取り除くことのできない刻印ともなる。
 この究極のエゴが渦巻くドロドロした愛憎劇を黙って見ている者がいる。何十年も何百年もこの営みを黙って見ている植物たち。そして、純粋無垢な8歳のルイ。なんという地獄絵図だろう。父親の愛情は偽物で、母親にはそもそも愛などなく、自分はいらない子供で、そして唯一のよりどころと信じてきた友達のケイの真実を知らされる。知りたくもない現実を一晩の間に次々と突き付けられてしまうルイ。辛すぎて直視できない。ルイに聞かせないで…、ケイの存在を否定しないであげて…と祈らずにはいられなかった。

ルイ×怜子×コプト
 ルイはいわゆる障害があるのだろうか。確かに政治家には向いてなさそうだが、ケイとの会話を聞くと、複雑な計算問題をサラッと解いているし(多分正解なんだろう)、理解度に問題があるのかどうか分からなかった。学校がつまらないと言うが、分からなくてつまらないというよりも、自分が面白いと思えるような未知の世界のことを教えてくれる場所ではない、と感じているように思えた。ケイの知識もルイの知識なわけだから、ルイは博学とも言える。それは悲しい性でもあるが、小さい頃から耳年増であるためだろう。恐らくは、小さい頃は純粋に跡取りとして期待され、帝王学として大人の話も聞かされてきたのだろう。期待が失望に変わった後も、あの一家では表向きの難しい政治の話も裏の話も交わされていたはずで、それを始終耳に入れながら、一生懸命に繋ぎ合わせて理解する作業をしてきたに違いない。他の子供が絵本のおとぎ話だけを聞いている時分から、いきなり太宰治ヴィクトル・ユゴーの世界を解説もなく見せられてきたようなものだ。この表と裏、美しいものと汚いものが同時に存在する世界の真実を。さらに学校に通い始めると、外は単純で無邪気な世界であることを知り、自分の家と外の世界とのギャップを受け止めきれなくなっているようにも思えた。小さい心で受け止め、消化するためにはケイの存在が必要だったに違いない。
 ただ私の印象としては、ルイは繊細だけれども意外にも壊れやすいわけではなく、より原始的な力を備えているように思えた。母の怜子や花療法士のトモエが感じようとしているコプト層、つまり人間の煩悩が渦巻くレーテル層を超越したところにある自然界の波長とでも言うのだろうか、そのレイヤーを感じる力をルイはあっさりと身に着けているではないか。気違いだ精神病だと見限られているルイが、実は俗世の煩悩にとらわれずに生きる術を身に着け、母の怜子が望むような心の安寧の境地に辿り着いているとは何たる皮肉か。となると、怜子がコプト層の境地に辿り着いた暁には、ルイのような自由人として生きるということになるのか。それは傍から見ると、気が触れた狂人のように見えるかもしれないが、確かに怜子本人にとってはその方が幸せかもしれないと思えてしまう。あぁ一体何が幸福で何が不幸なのか、頭が混乱して抜け出せなくなってしまう。

フキ×怜子×遺伝子
 2幕は怒涛のような地獄の展開だった。唯一依存していたトモエにも非難され、自分の悩みは誰にも理解されないことを思い知る怜子。自分の人生を縛る父を恨み、夫を憎み、フキを憎み、家を憎み、定めを恨み、家の象徴であるクロマツを切り倒す。怜子の狂気はピークに達していき、この後のフキと怜子の格闘は圧巻だった。聞いていても苦しい台詞が続くが、花總まりさんの狂気の演技が振り切れていて、怜子が内に抱える闇に胸が引き裂かれる思いだった。怜子は真実を知っていたのだろうか。知っていたとすればいつから。
 フキの愛は、というよりフキの行動の原動力は復讐だったのだろうか。女主人であるヒロコから受ける傷をともに舐めあうことで運命に抗ったという、とある過去の告白。愛か逃避かはけ口か定かではないが、その結果として命は生まれた。しかし、愛は封印するしかなく、その代わりに、その命の中に確かに存在する自分由来の生に対する愛着や執着がいびつに増幅し続けていた。

 この物語は自分の血筋、自分の遺伝子を残すことに対する恐ろしいまでの執着を皆が抱えている。現代の日本においては、家制度の在り方が徐々に変化しているが、それでも遺伝子に対する執着というのは残っているのだろうか。子供を生むとは何なのか、さらに大げさに言うと生きるとは何なのか、という哲学を突き付けられる気がした。今は結婚や出産をしない選択も珍しくなくなった。だから、どちらがいいとかいう議論をするつもりはないが、なぜ子供を生むのか、なぜ生みたいのか、なぜ生みたくないのかという話は各自でそれなりに向き合えばいいと思っているし、違う選択をした人に対して別の選択を押し付ける必要もないと思っている。と前置きしたうえで、自分のことを話すと、私には子供がいるが、子供を生んでよかったと思っているし、子供を生まないと気づかなかったことも沢山あると思っている。子供を生み育てることについて今感じることが100あるとすれば、当時は20ほどしか知らずに生んだわけだが、ただ本能的に遺伝子を残したいことは感じていたと思う。自分の遺伝子を残したいというよりも、夫の遺伝子を受け継いでいる子供を見てみたいという気持ちがあった。生まれてみると、もちろん独立した一人の人格なので、自分とも夫とも違う人間だが、身体的にも精神的にも自分や夫の性質を受け継いだ特徴を持っているわけで、事あるごとに血は争えないと思ってしまうし、やっぱり他人とは違う強い結びつきを感じる。たとえ自分たちの命に限りがあっても、この子たちが生きる未来に思いを馳せることはできて、その未来と自分が繋がっている実感を持って、今の時代をより良く生きることに意味を見出せていると思う。センシティブな事項なのでしつこく補足すると、これは子供がいなければ実感できないと言っているわけではない。子供がいない人も何かを通して同じように感じている場面があると思うが、自分は子供の存在を通して未来を感じる時がある、ということだ。
 なので、遺伝子への強い思いがあることは理解できないわけではない。しかし、バイオームでは血に対する執着がとても大きい意味を持っている。ただ単に政治家を継がせる子供が欲しいのではなくて、自分の血を分けた、自分の遺伝子を持った子供にとらわれている。怜子はその遺伝子を毛嫌いしているようだが、それはそれで遺伝子の呪縛にとらわれているのだと感じる。それほどまでに遺伝子を残して家を存続させることにこだわっているので、愛がなくても行為に及べるわけだ。これは劇中で学が言っているが、実におぞましいことだ。怜子にとって苦痛であることは間違いないが、恐らく学にとってもこの上ない苦行なのだろう。愛がなく、自分を求めてもいない相手と、家の存続のために行為を持つことのおぞましさ。学には没頭できる仕事があるが、怜子には何もない。これが人生だとすれば、人生に絶望するのも分かる気がする。生きる意味とは何なのか、子孫を残すだけなのかと。

 あまりにベタすぎるが、国語の授業で習うあの有名な詩を思い出してしまった。
―やっぱり I was born なんだね―
― I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね―  (吉野弘 I was bornより)
英文法の無邪気な発見をする息子に対して父親が静かに話したのはカゲロウの話と産後間もなくこの世を去った息子の母親の話。カゲロウの口は退化しており、生まれてから何も食べることはできず、ただ次の卵を産んで数日の命を終える。卵を産むためだけに生きる。産んで死ぬだけの命を何のために生き、何のために次の世代に繋ぐのか。カゲロウの一生の意味については、きちんとした答えを私も用意できない。人間は違う、と思いたいのだが、怜子にとってはまさにI was bornだったんだろう。生まれさせられた人生。生まされる人生。怜子にとっては、もはや人間の人生も無意味なサイクルに思えたのだろう。何の価値もない人生をただやり過ごすだけのためになぜ生まれてきたのか、そしてそんな人生を与えるために子供を宿すことに何の意味があるのか、その答えが見つからずに彷徨っているのだろう。
 生物学的に見れば、人間は生存競争において成功している。生命も維持できていて、生殖能力もあり、次世代に命をつないでいる。それだけではダメなのか。…そう、ダメなのだ。大抵の人間はそんな製造マシンのような人生では満足できない。じゃあ、生きるって何なんだ。何があれば生きる意味を実感できるのか。何があれば幸せと思えるのか。無防備にこの作品を見てしまったせいで、この命題が真正面から突き刺さって身動きできなくなってしまった。
 そして私は自分の人生を振り返った。もちろん理想を言えばキリがないが、両親に愛され、我が子も愛おしく、愛すべき夫に出会い、夫に心から愛され、家族仲も兄弟仲も良く、これ以上幸せなことなどないではないか。これ以上、何を望むというのか…!と涙ぐんでしまうほど、この作品に情緒が揺さぶられてしまった。


野口×怜子
 野口と怜子の関係は切なかった。野口が封印してきた感情は、完全にだだ洩れてしまっていたようだ。野口は出生の秘密は知らなかったのだろうというのが私の解釈だが、幼い頃から淡い恋心は抱いていて、しかし抑えなくてはいけないことは知っていて、怜子が幸せであればひっそりと見守るつもりでいたのだろうが、実際には怜子の人生が幸せではないので、自分のような立場であっても怜子をこの地獄の世界から救い出してやりたい、と思ってしまったのだろう。
 観客は、というより少なくとも私は、怜子も野口に対して好意を感じていて、救いを求めていると思えたので、野口が怜子を抱えて去っていく場面や翌日に野口が高揚を隠せずに登場する場面は共感と応援の気持ちしかなかったのだが、果たして怜子はどのような感情を持って受け入れたのだろうか。フキに一部始終を伝える場面では野口への好意はまるで感じられない。全てを知った上で怜子が復讐の道具として野口を利用したとまでは思えない自分がいるのだが、学に対する抵抗や家に対する反発や運命に対する当てつけのような気持ちがあったのだろうか。だとすると、野口が不憫でならない…。真実の愛が存在しないストーリーの中で、唯一本物の愛情だったから。しかし、その愛だけは成就できない結末を用意しているところにウエクミさんのウエクミさんたる所以を見た思いだ。

ケイ
 イマジナリーフレンドを持つ人物を現実に見たことはないが、作品内で登場するものは何作か見たことがある。それはいずれも登場人物の精神の安定のためにその存在が必要とされているものだった。自分の理想を具現化した人物であったり、自分の行動を正当化するための人物だったり。ルイにとってのケイは、自分の理解者でもあり、庭師の子供と対比させることで政治家一家の跡取りである自分の立場を捉え直す存在だったのだろう。
 では、最後に登場するケイは何者なのか。お坊ちゃまのお友達?と聞くフキに対して、ううん、ばあちゃんのケイだよ、と答えるケイ。ばあちゃんのケイとはどのような存在なのか。まず、フキはイマジナリーフレンドを必要としているのか。抑圧された生涯を過ごし、異性への愛も我が子への愛も封印し、それ故に自分と関わりあるこの一家の繁栄に執着し、誰よりも尽力してきたフキ。今、人生を捧げてきた一家も子も孫も失い、息子との縁も切れたフキが願うのは何か。フキが成しえなかったことは二つある。自分が血を分けた人間が未来永劫名を残す偉業に貢献するという夢と、我が子に歪みのない愛情を注いで育てること。私は間違っていた~~~と絶叫するフキの声、最初からやり直そうと怜子の肩を抱きしめる姿を見ると、愛を持って慈しんで子供を育て直したいという深い悔恨の思いが見える。ずっと昔に封印したフキの母性が、ケイという存在を生み出したのか。客観的に見ればボケたお婆ちゃんになるかもしれないが、フキにはどうかどうかケイに愛情を注ぐ時間を持ってほしいし、愛を与えることでフキ自身も愛を受け止め、穏やかな余生を過ごしてほしいと願わずにいられなかった。

殺虫剤
 冒頭に何気なく出てくる、野口が庭木に殺虫剤を散布するシーン。最後の最後にもう一度殺虫剤が登場する。どのように繋がっているのだろうか。あの家の庭の「調和の要」であるクロマツには虫が巣食っていた。それを駆除するために人間が殺虫剤を撒く。これで安心だよ~と野口は声をかけるが、木々は毒を撒かれて苦しい思いをしている。
 ラストの場面で殺虫剤を使用したのが誰かはっきりと分からないのだが(と敢えて言っておく)、怜子の体の中にある虫を駆除したいという気持ちの表れだとしたら、その虫とは何なのか。虫とは遺伝子なのか。学の虫か。野口の虫か。克人の虫か。フキの虫か。代々脈々と受け継がれてきた全ての虫か。犯人は殺虫剤で全ての虫を駆除できたのだろうか。殺虫剤によって本体も毒で苦しみ、息絶えてしまうことを知っていながら、それでもなお体内に巣食う全ての虫を駆除したかったのだろうか。これで安心だよ、という野口の声がよみがえって震える。

植物×人間
 狭い狭い庭で繰り広げられる人間の憎悪。それをただじっと見ている植物たち。事前にあらすじを見ても稽古動画を見ても、植物の役回りが全く予想できなかったが、実際に見ると植物たちがじっと人間の営みを見ていることによる不思議な安堵感があった。盆栽以外は感情を持たず、ただ人間の行為を肯定も否定も応援も邪魔もせずにじっと見続けている。人間が繰り広げる大きなことも小さなことも、自然の前ではちっぽけなことなんだと思える。財を成して繁栄したところで、2代3代経てば凋落することもあり、幸福と不幸は常に背中合わせなのだ。大きい波のうねりの中で高みに上ったりどん底に落ちたり、そのたびに人間は一喜一憂しているが、長い目で見ればプラスもマイナスも相殺されることを植物たちは知っていて、達観して見続けている。時折、この植物たちの目線で物語が語られることで、人間の行為が愚かで狂ったものであることを静かに際立たせている。
 切られてしまったクロマツが形を変えただけだという台詞も、私たちは私たちに還るだけという言葉も、ルイをおかえりと迎え入れる様子も、クロマツの若い芽がルイと一緒に歩みだすところも、朝日を浴びて静かに踊る姿も、人間の営みが自然の懐に抱かれているという普遍的な包容力を感じられて、苦しいストーリーの最後にじんわりと光を感じることができた。


 まだまだ咀嚼しきれていないことだらけだが、この作品をリアルタイムで拝見できたことに喜びを感じている。衝撃作をありがとうございました。