えとりんご

観劇の記録。ネタバレご注意を。この橋の向こうにジャコブ通り。

エリザベート ①エリザベート×フランツ

エリザベート
2022.10-11 帝国劇場
エリザベート(愛称シシィ) 花總まり、愛希れいか
トート 山崎育三郎、古川雄大、(井上芳雄
フランツ 田代万里生、佐藤隆紀
ルキーニ 黒羽麻璃央上山竜治
ルドルフ 甲斐翔真、立石俊樹
ゾフィー 涼風真世香寿たつき剣幸
少年ルドルフ 井伊巧、三木治人、(西田理人)
※( )内は観劇できていないキャスト


 初めて「エリザベート」を見たのはもう20年以上も昔のことだ。山口祐一郎トートと井上芳雄ルドルフという、今から思えば伝説のキャストだった。家族の影響でミュージカルを見始めた程度の初心者だったが、とにかく祐様の天から粒子が降るような美しすぎる歌声と、後半で突然出てきて驚きの美声を響かせるまだ無名の井上芳雄の鮮烈なデビューが圧巻だった。ストーリーは難解すぎてほぼ理解できなかった気もするが、とにかく強烈な印象を受けて帰ったことだけは覚えている。

 あれから20年。宝塚版も含めて大好きな作品だが、年々チケットが入手しづらくなり、劇場で見る機会が少なくなっていた。今期は久しぶりに気合を入れてチケット争奪戦に乗り出したが、80公演近く申し込んだ抽選が全て落選するなど、「エリザベート」人気の洗礼を浴びた。めげずに公式リセールなどで少しずつチケットを集め、最終的にはありがたいことに5公演ほど観劇できた。
未だに完全にストーリーを理解するには至っていない。というか、永遠に新しい発見がある作品だと思っているが、今期は自分の中でかなり「エリザベート」の理解が深まったので、今の感想を記録に残しておきたい。完全なる独断と偏見となるのでご了承いただきたい。サブテーマは、「難易度別 エリザベートの世界!」。自分の中での解釈の難易度(独断度とも言う)を★で表している。
(この先ネタバレを含みますのでご注意ください。)


エリザベート(シシィ)

 エリザベートの美しさと強さと弱さがこの物語が永遠に愛される理由だろう。令和の時代ではそれほど違和感なく受け入れられるが、初演当時の1990年代はまだまだエリザベートのような妻像は一般的ではなかったと思う。ましてや、彼女達が実際に生きた19世紀においては少数派というかエキセントリックな皇后であったに違いない。しかし、皇后である前に、妻や母である前に、自立した一人の人間として生きたいという根源的な欲求を貫き通す姿に、多くの人が心を寄せるのだと思う。彼女の強さに共感する人もいれば、実現できない自身の希望をシシィに託す人もいるだろう。
 また、皇后という華やかな立場につきまとう逃れられない重荷に同情も感じる。ひとたび皇后の地位が与えられてしまった以上は、鳥かごの中に生きても不幸となり、鳥かごから逃げ出して飛び立とうとしても不幸になってしまうという、運命の哀しさを感じてしまう。私が子供のころはプリンセス(王妃)は憧れであり、幸せの象徴のように思えたが、大人になって某国の元妃や某国で世継ぎの重圧に苦しむ皇太子妃などを見るにつけ、囚われの人生であるようにも思う。彼女達にもそれぞれのトートが訪れていたのかもしれない。むしろトート閣下でもいいから訪れて寄り添っていてほしいとさえ思う。

精神病院 (難易度:★★)

 精神病院での下りは、全体のストーリーから見ると異質というか、サイドストーリーのような印象を受けるが、これは宝塚版においてもカットされていないところを見ると、重要なシーンであることが窺える。このシーンでは、シシィがいかに孤独で、自由を求めていたかが痛いほど伝わってくる。
 特に、花總まりさんシシィの回を舞台間近で見る機会に恵まれたのだが、精神病院の患者を抱きとめながら、「体は束縛されていてもあなたの魂は自由」、「私があなたならよかった」と涙を溜めて歌うシーンは胸にぐっと迫るものがあった。あれほどの美貌と財と地位に恵まれ、夫や子供に囲まれていても、自由のない闇の世界で一人苦しみもがき続けていたのだなと。
 花總さんは、誰もが羨む幸福な立場にあるにもかかわらず、誰にも理解されない孤独を抱えた薄幸な女性を演じさせたら天下一品だと思っている。ともすると、それは非常に我が儘で贅沢な悩みであるが、花總さんが演じると、その嫌味がなくてむしろ境遇に同情したくなってしまうのだ。あれは花總さん自身が持つ美しさ、気品、儚さ、健気さ…そういった天性のものからくる特性なのだろう。
 愛希れいかさんシシィは全体的に強い印象を受ける。トートもフランツも圧倒されているのではないかと思うほどの強さだ。しかし、この精神病院で涙をこぼしながら「私が手に入れたものは孤独だけ」「強い皇后を演じるだけ」と歌う場面があり、愛希シシィの強さは脆さの裏返しでもあったのかという説得力があった。
 いずれのシシィも、この場面で見せる姿がありのままの心を映しているように思えて涙を誘う。(※歌詞はニュアンスです。)

キッチュ? (難易度:★)

 この作品が難解だと感じるのには様々な理由があるが、ひとつは物語全体も一人一人の登場人物も多面的に描かれているからだと思う。実社会では他人の心を完全に理解しきるなんてことは鼻から諦めている。しかし物語となると、何らかのメッセージ性の下で人物の行動や精神状態の理由が明らかになるだろうと予想しながら見ているので、つい理解できる気がしてしまう。だが、多面的な1人の人間なので内面まで分かろうとすることがおこがましいのだと最後に突き付けられるような感覚が「エリザベート」にはある。
 冒頭の天真爛漫な少女姿、神々しいほどの美貌、トートに翻弄されて黄泉の世界に連れ去られてしまいそうな緊張感、ゾフィーとの嫁姑バトル、優柔不断な皇帝フランツへの失望、ハンガリーでの熱狂的な人気ぶりなどなど、冒頭からエリザベートに共感する展開が続くため、観客は基本的にエリザベートの味方となって物語に入り込んで見ている。
 だが、ルキーニが「キッチュ!」(=まがいもの)と叫ぶ場面では、エリザベートの美貌に騙されてはいけないと歌っており、スイス口座に隠し財産を持っていたとか、皇帝夫妻の愛は偽物だとか、ルドルフを亡くした悲しみさえも同情を買うためだとか、エリザベートをおとしめる台詞が続く。観客にとってはあまり耳障りがよくないが、これ以外にもふとエリザベートの我が儘な側面を感じる場面も出てくるわけだ。
 特に、あれだけ皇太后ゾフィーや夫フランツと戦った結果、子供を引き取ることに成功したというのに、子育てを結局人に任せることにする辺りは首をひねる。終盤で、ルドルフが母に縋りついて協力を求める場面では、僕はママの鏡だから僕のことわかるよね、というルドルフに対して、分からないわ久しぶりなのよと冷たい表情で言い放つ。あれは…なぜ? 無力感に打ちのめされているルドルフを絶望に落とすようで、ルドルフが不憫でならなかった。後半、フランツが懸命にシシィとの仲を回復させようと努める場面でも、全くとりつく島もない様子なので、さすがにフランツが哀れに思えたりもする。
 最近流行りの推し活ではないが、エリザベートに憧れや敬意を感じつつも、全肯定派になり切れるかというとそうでもなく、少し理不尽さを感じて共感しきれない場面もある。この辺りが観客にとっては善悪の分類がしづらく、どのような心持ちで見ればいいのか分からなくなるポイントのように思う。結局これは一からの創作物語ではなく、ファンタジー色が強いとは言え、一人の人間の一生を描いた大河ドラマのようなストーリーであるわけだから、人間の多面的な部分を立体的に舞台で見せているのだと思えた。エリザベートの複雑な心のうちを垣間見ることによって、彼女がただ単におとぎ話のヒロインのように生きたのではなく、人間として泥臭くもがきながら生き続けたことが感じられて、一層のリアリティをもたらしているのだと受け止められるようになった。


フランツ

 とにかく今期の「エリザベート」で、これまでのイメージを完全に覆させられたのがフランツ・ヨーゼフだった。以前見た時は、フランツは優柔不断で母の言いなりの印象しかなく、同情する気も起きなかった。今も全体的にはそういった印象が強いのだが、フランツが最後に歌う「一度私の目で見てくれたなら 君の誤解も解けるだろう」、今期はまさにこれを突き付けられた思いだった。
 あれほどシシィに一目ぼれして結婚に漕ぎ着けたのに、のっけからシシィの気持ちよりも母の助言や古いしきたりを優先する点は理解しがたいが、しかしフランツは皇帝に自由がなく、任務を全うする責務があることを幼い頃から受け入れてきた立場だったので、少々の理不尽さはシシィも受け入れてくれると思い込んでいたのだろう。心優しいフランツだからこそ、母の期待も感じ、自分が目指すべき国づくりにも腐心し、シシィへの愛は溢れるほど抱き続け、息子ルドルフへの期待も示し、そのどの関係においても軋轢は避けたいタイプだったのだろう。「エリザベート」の作品においては少々頼りない皇帝に見えるが、実際には激動の19-20世紀において60年以上も統治した皇帝なのだから、政治への責任感は相当大きかったに違いない。それでも時には信念を曲げてでもシシィへの愛は貫きとおす場面もあったわけで、フランツなりに誠意を見せていたのだろうなぁと感じる。初期のボタンの掛け違いが最後まで解消されなかったのが実に切ない。


夜のボート

 今期は5回の観劇機会に恵まれたが、そのうち4回は田代万里生さんフランツだった。舞台間近で見た回もあったのだが、「夜のボート」の後半では万里生フランツは涙を一筋流しながら歌っていて、シシィへの渾身の愛の叫びが感じられて切なさ全開だった。しかし、花總まりさんシシィも愛希れいかさんシシィも、どちらかというと無の表情と感じられるぐらいに全身から拒絶感が滲み出ていた。ろう人形のように冷たい表情がぞっとするほど美しく、何とも悲しい二人の光景だった。皇帝と皇后という関係でなければ、寄り添える未来があったのだろうか…。本当に切ない。


悪夢 (難易度:★★)

 夜のボートでの涙も乾かないうちに、フランツは悪夢にうなされることとなる。シシィの命を奪うと宣言するトートに対して、エリザベートは私の妻だ!と叫ぶフランツ。これまでの冷静で感情を抑えることに努めてきたフランツからすると、最も感情をあらわにする場面と言ってもよい。夢の中では感情を爆発させられるのだろうか。その情熱をもっと早くもっとストレートにシシィにもゾフィーにも出していれば…と思わずにいられない。
 フランツは皇帝の立場を全うし、皇帝としてなすべき責務に人生を捧げてきたのだろうが、シシィへの愛もずっと変わらず持ち続けていたわけで。シシィの抱える闇から救えるものなら救い出したかっただろう。フランツは、シシィが旅をしても孤独を抱えていても心を閉ざしていても、ある意味シシィの全てを究極的に愛していたのだろう。シシィと愛し合えるのが一番の理想だっただろうが、それが叶わずとも、シシィが生きていること、たとえ形だけでも自分の妻として生きていることに満足していただろう。外野が何と言おうと、ありのままのシシィを受け入れる覚悟を持っていて、シシィが自由に旅をすることでさえ、自分が愛を持って認めているからできることなんだと、それが自分の愛の形だと考えていたのではないだろうか。シシィの心に近寄ることはできないが、そっと遠巻きに見守ることで愛を貫いていると自負していたのだと思うし、その距離でも十分に一番シシィに近い存在と思っていたのではないだろうか。その命が暴漢によって奪われるなど、許せたはずもない。トートがナイフを取り出して、ルキーニ!取りに来い!と促す場面では、フランツは半狂乱になっていて、何をする!と叫び、手を伸ばして抗うが、トートダンサーに捕らわれてしまう。ルキーニの凶行の瞬間、うなだれるフランツの姿が哀れだった。
 長年フランツ役を演じておられた石川禅さんが「エリザベートはフランツの成長物語なんだよ」と以前おっしゃっていた。当時はよく分からずにいたが、確かにフランツは最後までエリザベートの愛を求めて彷徨っていたのだろう。フランツはずっと出会った頃のままの気持ちでシシィを思い、二人でまた寄り添える日々が来ることを夢見る哀れなロマンチストだったのだろう。改めて、夜のボートの歌詞を思い出す。

愛はどんな傷をも癒すことができる…

愛にも癒せないことがあるわ 奇跡を待ったけれど起きなかった

愛している
分かって 無理よ 私には

 フランツはシシィが傷を抱えていることを分かってはいた。シシィは愛が多くを癒せることを知っていたけれど、自分の傷や二人の溝は癒せないと諦めている。でもどこかで奇跡は待っていたということだろうか。シシィの望む奇跡とは何だったのか。鳥のように自由に羽ばたき、何のしがらみもない世界で、フランツと愛し合って生きることがシシィにとっての奇跡だったのだろうか。だとすると、フランツへの愛を完全に失ってしまったわけではなかったのだろうか。もし、フランツとシシィが和解する世界線があれば、フランツがどれほどの喜びでもってシシィを抱きしめたかと想像すると、涙を禁じ得ない。

 長くなってきたので、続きは次回に…。次回はトートについて掘り下げてみたい。