えとりんご

観劇の記録。ネタバレご注意を。この橋の向こうにジャコブ通り。

イザボー ③

(今回は作品の考察ではありません。私自身の雑感です。)


 イザボーについては2回にわたって感想を綴ったが、観劇から時間が経ってじわじわ感じているのは、イザボーの決意とその後の展開が他人事でないように思えること。

 長く生きていれば人は誰しも、時に絶望すること、運命に見放されたと感じる瞬間があると思う。運命を嘆き呪い、将来を悲観することもできる。むしろ放っておけばそうなる。でもそうならないよう、歯を食いしばって運命を受容し、それでいて運命に屈しない強い精神力を人は目指しているのではなかったか。

 私は絶対に負けない!泣いたりなんかしない!最後まで笑ってやる!悲劇のヒロインになるつもりはない!同情なんていらない!人の助けになんか頼らない!失ったものは振り返らず、自分は自分にできることを自力でやってみせる!運命なんて乗り越えてみせる!

 自分もそうやって、運命に屈せずに前を向いて歩み続けることが最善だと信じてきた。神様は乗り越えられる試練しか与えないはずだと。
 誰かの庇護の下、助けを借りて人形のように生きる道もあったかもしれない。這いつくばって感謝を捧げて、偽善者の自尊心を満たすこともできたかもしれない。その方が物質的な幸福は得られたかもしれない。
 閉ざされた道やあり得たかもしれない別の道のことは思考から排除して、多少の犠牲を強いてでも、自分が自分らしく自分の力で生きたと思える道を選んできた。そこに一片の悔いも曇りもないが、でもその多少の犠牲は自分だけではなく、家族にも強いていることをうっすらと感じる時もある。どこかでチクっと感じるその痛みも、敢えて思考から排除している。トータルで見れば、これが最善なのだと。これでいいんだ、これしか道はなかったんだ。その時々に選べる選択肢から選ぶしかない。ベストではないかもしれなくてもベターではあるはず。

 最善でないかもしれなくても、尊厳を失って生きるよりは幸せだと思うイザボーの気持ちが、何だか痛いほど分かる気がした。
 イザボーが強靭な精神力でそうやって強く立ち向かって生きたのに、結果的に周囲を不幸に巻き込み、最終的に国を破滅に追い込んだと考えると運命は何て非情なのだろう。
 イザボーが自分を殺して、運命に屈して生きた方が良かったというのか。そんなことは、そんなことはないはずだ。

 あなたは今幸せ? 私は私の中のイザベルにどう答えよう。少しずつ犠牲を強いながらも、私が優先した幸せは何の幸せなのだろう。誰かの幸せなのか。自分だけのエゴの幸せなのか。せめてベストでなくてもベターなものであってほしい。

 イザボーが序盤に歌う歌が今になって突き刺さる。

 「幸せな思い出はいつも過去のもので…」

 過去を超える幸せな思い出。それが訪れる日は来るだろうか。ふっ…と自嘲してしまう自分がいる。来るとすれば、それは自分の幸せではなく、家族の幸せであり、家族の幸せを通して自分の幸せを感じる時だろう。それでもいい。そのために前を向いて生きてきたのだから。祈りは今もこの手の中にある。

 

イザボー考察

第一弾→ イザボー ① - えとりんご 

第二弾→ イザボー ② - えとりんご 

イザボー ②

 イザボー考察第二弾。ネタバレご注意ください。

(第一弾はこちらから→ イザボー ① - えとりんご

 第一弾では人物別に感想を書いたので、今回はストーリーなど全般的な内容について書いてみたい。まずは、印象に残った歌詞から。


これは生存戦略なのよ


 劇中ではそれほどメジャーな楽曲ではないが、イザボーがルイに対して「これは生存戦略なのよ~」と歌う歌が印象的だった。あぁ、これは全て生存戦略の話だよな~と腑に落ちた。イザボーだけではなく、ルイもジャンもフィリップもヨランドも、劇中には出てこないイングランドの王たちも。

 生きるか死ぬか、食うか食われるかの時代を生きているわけで、生き残るためにはあらゆる手段を使う必要があった。それが彼らの生存戦略だったのだろう。滑稽にも非情にも見える部分があるが、気を抜くと敵に出し抜かれ、死と隣り合わせなのだから仕方がない。

 この生存戦略の中で勝ち負けがあり、生死があるわけだが、結果的に勝ち残っていったのは実はヨランド妃なのではないか。他の登場人物のような王族の血筋ではないが、実は非常に強かにパワーバランスを見極めている。ブルゴーニュ公ジャンの子に我が子を政略結婚させたり、その後婚姻を解消していたり、また、次にはシャルル6世とイザボーの子を娘婿に迎えようというのだから実に抜かりない。その婿シャルル7世が王太子になったことや、救世主ジャンヌ・ダルクの登場などは、運命の巡りあわせによるところもあるが、全てがヨランド妃にとって良い方向に進むことに驚きを隠せない。「女は血で戦う」と言ったヨランドの台詞が急に重みを増してくる。イザボーにシャルル7世との婚姻を申し出る場面では、普段は隠している爪を急に尖らせるかのような凄みがあった。これがヨランドの生存戦略なのだなと。


夢は消えて


 1幕前半で、夫が発狂したうえ、政略結婚の道具だと言われて打ちひしがれるイザボーが歌う「夢は消えて」。望海さんの歌声が美しく響くナンバーだった。これが、1幕後半にリプライズの形で出てくる。イザボーがルイと結託して、政権を事実上掌握する場面だ。歌詞を比較してみたい。


(1幕前半)

 夢は消えて 心 何が残るのか

 夢は消えて 心 冷たく氷のようで


 鳥かごの中 一生過ごす 小鳥みたいに

 何も知らず ただ生きるだけ 人形のよう


(1幕後半)

 夢は消えて 心 熱く燃えるようで


 もう迷わない 私は生きる

 誰に何と罵られようと

 それが人の道でないというのなら

 私は人であることをやめよう

 私は美しい獣となろう


 氷のように冷たかった心が、燃えるように熱くなる。人形のように小鳥のように「ただ生きるだけ」だった自分が、人であることをやめて獣として「生きる」と決意するイザボー。目に強い光が宿り、覚醒する様子は圧倒的なパワーを感じる。しかし両方に共通するのは「夢は消えて」。獣として生きると決めたイザボーでも、夢は消えたままなのか。ここで言う夢とは何なのか。前半の歌詞を思い返してみると、「誰よりも幸せになると 花や鳥たちによく聞かせていたわ そんなささやかな夢を」。夢とは幸せになることで、消えてしまったところを見ると、シャルル6世との愛、そして自分らしさなのだろうと。愛を失っても、生きる。獣と言われようと生き抜く。その決意が強く神々しい。でもどこか少し哀しい。しかし、そんなこちらの感傷に挑みかかるように、「私は絶対に負けない」「悲劇のヒロインになるつもりはないわ」と言い放つイザボー。愛とせん妄が引き裂く運命であったとしても、それに潰されることなく、別の幸せを掴んでほしい、いや貴女なら絶対に掴める、そう思わせる1幕ラストの幕切れに鳥肌が止まらなかった。

復讐だ

 1幕最後のソロでイザボーは歌う。

 ここから先は

 私を不幸たらしめるものへの 復讐だ

 イザボーの復讐とは何だったのだろう。そしてその復讐は成功したのだろうか。復讐という言葉の響きは、自分を不幸にした相手を不幸に陥れて恨みを晴らすことを連想させる。事実だけを見ると、フィリップもルイもジャンも死に、フランスという国をも絶望に陥れているので、復讐が達成されたかのように見える。しかしイザボーがこれを復讐と捉えて実行したとは思えなかった。イザボーの復讐は、周囲の人間に仕返しをすることではなく、自分が幸せになることによって、これまでの不幸を見返してやるということだったのだろう。これが、「稀代の悪女」と評される人物が、単なる「悪女」だったわけではなく、どこか人間味や哀しみを背負う女性だったという印象につながる理由なのだと感じた。
 ではイザボーが幸せになれたのかどうか。愛の観点で見ると、終盤で王と王弟が話す通り、幸せにはなれなかった。だが、人生という観点で見ると、運命に屈することなく、自分の思うように生きることはできていて、運命への復讐は果たせたのではないかと思う。


私は生きた


 物語の最後の場面でイザボーとシャルル7世が歌う曲も非常に示唆に富んでいる。


 全ての栄華は私のもの

 (全てが滅んだ)

 全ての富は私のもの

 (全て失った)

 全ての希望は私のもの

 (希望は朽ち果て)

 そして 全ての絶望も

 (あなたは歴史から)

 私のものだった

 (消えた)


 私は生きた 私は生きた


 冒頭の登場シーンでイザボーが爆発的なロック調で歌う曲と同じ歌詞だが、メロディーが全く違う。こう書き出してみると、イザボーの歌をシャルル7世が全て否定していて、非常に辛辣ではある。しかし、これが人生の真理でもあるとも思う。人は形あるものを追いかけ、富や栄華を夢見て生きるが、最後に死ぬ時には全て消えてなくなってしまう。しかし、全てなくなったとしても、名前が残らなかったとしても、一人の人間が生きたことは間違いない。生きたんだ。みんな生きたんだ。必死に。もがきながら。多くの困難があり、迷いがあり、いくつもの分かれ道があり、その中で正しいと信じる道を選び取って、みんな生きている。それが結果的に何につながるかは分からない。後の人は簡単に、あれが成功だ失敗だ分岐点だと裁くが、その時代に生きる人は結果など知らずに、その時その時に必死に最善を尽くして生きているのだ。


あなたも思うように生きなさい


 同じく最後の場面で、イザボーがシャルル7世に向かって諭すように歌うこの言葉は、突然見ている観客にも向けられているかのように沁み渡ってくる。そう感じたのは私だけではないはずだ。選んだ道が成功か失敗か、正解か間違いか、そんなことは誰にも分からない。それでも、自分を信じて生きなさいという強いメッセージを感じた。
 全く別の作品だが、「神は運命を知っているが、人間は知らない。それが人間の愚かさであり、尊さでもある。結果を知らずに選択したことを誰が裁けるのか。」といったような台詞があったことを思い出した。逆に、もし常に人間が結果を知っていて、その結果に向かって動くだけのコマだとしたら…、そのような人生を誰も望まないだろう。未来に光があることを信じてもがくからこそ美しい。その結果、失敗することもあれば、何かの観点では悪と呼ばれる結果にたどり着くこともあるかもしれないが、その人生を赤の他人に評価されるいわれはない。その達観した境地に辿り着いたからこそ、イザボーは自分の人生を悔いても恥じてもおらず、隠居後の年老いた姿であっても堂々たるオーラを放っているのだなと感じた。


イザボー×ヨランド


 ここからは少しストーリーで感じたことなどを書いてみたい。本作にはイザボーと幼少イザベル、イザボーとジャンヌ・ダルク、ジャンとルイなど、いくつかの対比があったが、最も強い対比を感じたのは実はイザボーとヨランドだった。見返してみると、冒頭からヨランドはシャルル7世にこう言っている。「(イザボーのことは)全く分からない。私達はまるで正反対だもの。彼女は時代に飲まれ、私は時代の波に乗った。」と。また、終盤のヨランドのソロの歌詞にも注目したい。


 我が子らには気高き血が流れる

 いかなる血も威力を持つことはない


 私は子供達に惜しみない教えを施してきた

 時代を生き抜くための

 未来を見通せる目が必要だった


 これがヨランドにあってイザボーになかったものなのかなと。「女は血で戦う」と言ったのはヨランドだし、子供がゲームのカードであることはイザボーと変わりないかもしれない。しかし、血だけで勝てるわけではなく、乱世を生き抜いていける人間に育てるため、子供に人生の真理を説いている。ヨランド自身が物事の本質を見極めている女性でもある。シャルル7世に対しても、「それだけが全てなのか」「賢き王は過去の過ちから多くを学ぶもの」と諭すところを見ると賢い母だったのだろう。

 イザボーはより刹那的に見える。なんとしてもシャルル6世を守る、自分を守るという自分目線の思いが強いので、フランスにとってどうかというより、自分自身のその時々の状況に合わせてころころ行動を変えているように感じた。

 ただそれはイザボーだけではない。百年戦争が百年も続いたのは、未来を見通せる目を持たず、日和見しながら派閥争いを繰り広げ、挙げ句の果てには敵国イングランドと同盟を組むなどしながら、目の前のことだけを考えていたからなのだろう。歴史をもっと俯瞰して見ると、この戦争で諸侯は疲弊して没落し、国王の権力が強まり、絶対王政への時代へと繋がっていくのだから。と偉そうなことを言ってみるものの、時代を生き抜くための未来を見通せる目が必要… ヨランドの教えは現代の我々にも通じるものだろう。


イザボーの絶叫とトロワ条約


 傍目には享楽に興じ、節操なく派閥を渡り歩くイザボーだったが、終盤にシャルル7世と対峙した後、後悔の念に押しつぶされ、絶叫する場面がある。望海さんの演技には鬼気迫るものがあった。ただ、正直なところ、初回の観劇時は、この時のイザボーの絶叫にあまり共感ができなかった。そこに至るまでのイザボーが自由奔放に見えていて、ルイや子供たちの不幸にも頓着していない様子だったので、今更何を後悔するのだろうと思った。ここをもっと理解したくて、繰り返し配信を見たと言っても過言ではない。
 この場面は、イザボーが「祈りはこの手の中にあったのに、どうして手放してしまったのか。」と嘆く場面。イザボーは獣の仮面をかぶって強い王妃として生きてきた。でもそれは自分の幸せ、夫の幸せ、子供の幸せ、国の幸せを願っていたからこそ。そのためには派閥争いもくぐり抜けなければいけなかった。いつの間にか手段と目的が入れ替わり、目の前の派閥争いでの勝利にこだわってしまい、シャルル7世に取り返しのつかない言葉を放ち、決定的な亀裂を作ってしまう。獣になってでも守ろうとしたはずの自分の幸せも子供の幸せも自ら手放してしまった。そんな誰も幸せにならない結果になるくらいなら、派閥なんて、国なんてどうでもいい!イザボーはあそこでそうリセットされてしまったのだなと。
 初回でこの嘆きに完全に共感しきれなかったことを少し残念に思っている。自分なりに分析してみた結果、これは多分に自分の読解力と個人的な嗜好によるものだなと思い至った。私はハッピーミュージカルより重厚な作品が好みなので、純粋だったイザボーが闇落ちして悪をも辞さない生き方を選ぶのはとても好きなタイプのストーリーなのだが、最後の嘆きに共感しきれなかったのはイザボーの願いの根源が、国の幸せというより自分の幸せだったことによるからかなと感じている。国のためという正義を目指した結果、どんどん国の不幸と周囲の不幸を招いたのであれば、信念と現実とのはざまに堕ちる部分が見えただろう。ただ、イザボーは自分の幸せを求めていて、自分自身はそれなりの幸せ(享楽的な幸せではあるが)は手にしていて、その結果周囲を不幸に巻き込んでいるので、目指したものが最初から破滅的だったような気がして、あの嘆きがある種自業自得のように感じてしまった。
 なので、もしかしたら作品の意図とは異なるかもしれないが、私はこの嘆きの場面よりも、トロワ条約の場面で「そんなに欲しいならくれてやる!」と叫び、シャルル6世の手を取って調印する場面の方がより強烈に心を揺さぶられた。本当にそれが最善の策と考えたのか、戦況を考えるとやむを得ないことだったのか、娘の政略結婚に望みを託したのか、真相は分からない部分もあるが、迫力が尋常ではなかった。この場面でダンサーの真ん中に立つイザボーの表情が、毎回少しずつ違っていて印象的だった。ゾワっとするほど満面の笑みを浮かべている時もあれば、何かを決意したかのように唇を結んでいる時もあれば、うっすらと浮かぶ微笑が哀しさを感じさせる時もあった。
 皆さんはどうお感じになっただろうか。色々な人と感想を分かち合いたい場面が多い作品で、観劇や配信が終了した今もなお、ずっと反芻を繰り返している。


*****


 一度では咀嚼しきれない見ごたえのある舞台だった。これ以外にも、もちろん大森未来衣さん演じるジャンヌ・ダルクの登場シーンには鳥肌が止まらなかったし、甲斐翔真さんが黒い羽を背負って黒死病ソングを歌う場面はとてもテンションが上がった。また、人力なのに高速で回る三重構造の舞台美術は圧巻だったし、音楽や照明も素晴らしかった。私が密かに好きだったのは、2幕でイザボーが歴代の男性達とタンゴを踊る場面で、タンゴの曲調の中に、イザボーのテーマソングが重なってくるところだ。冒頭の「全ての栄華は私のもーのー!」のメロディーが、タンゴ調に「タタタタ タタタタ タタタタ ターター!」と入ってくる。舞台上では確かにイザボーが様々な男性を手玉に取るような官能的なダンスが繰り広げられていて、まさに全ての愛が私のもののようだった。


 これほど完成度の高い日本オリジナルミュージカル作品の初演を観劇できたことに幸せを感じた。史実が複雑に込み入っているので、歴史を説明する歌詞が多すぎるとか、歌詞が詰め込みすぎだという声も聞こえた。確かにそういうところもあったが、普段翻訳された歌詞を聞いている身としては、原作の歌詞から日本語に訳される時に相当削られていることを知っている。音節の仕組みが違うので仕方ないと思っていたが、日本語の歌詞でもここまでの分量を一音に入れられるのかと驚いた。またその分量の歌詞を、しっかり聞き取れる滑舌で歌い切っているキャストの皆さんの歌唱力には脱帽した。史実の説明を削ってブラッシュアップできる余地はあるだろうが、歌詞の当てはめ方はある種の革命だと感じたので、今後も期待したい。訳詞ではなく日本語オリジナルなので、気持ちよく聞ける部分が多分にあった。例えば、「王国に未来はないやいやいやいや」「イーングランドに」「オールレアンの街を」「待ち遠しいでしょ、叔父うえぇぇ~」などなど。

 歌詞の量が多いこともあってストレートプレイのような情報量だったため、観劇中は頭がパンクしそうだった。演出の効果もあるが、途中は観客が拍手を忘れるほど舞台への没入感が強く、観劇後には心地よい疲れさえ感じた。ジェットコースターのようだったと前回も書いたが、観劇後しばらく経っても興奮が消えず、きっと体温も血流も上がったし、脳内で何らかの物質が分泌されたに違いない。観劇というより、何かスポーツでもしたかのような強烈で刺激的な体験だった。見終わってからもずっと、この考察を書くために作品を振り返っていたが、これを書き終えてしまうことで、私のイザボー体験が完結してしまうことを名残惜しく思っているほどだ。是非、イザボーが今後も再演、再再演と繰り返される演目になってほしいと願っているし、MOJO企画の続編の作品にも大いに期待したい。

 

(イザボー考察第一弾はこちらから
イザボー ① - えとりんご )

イザボー ①

(ネタバレご注意ください。)

2024.1東京建物ブリリアホール
イザボー・ド・バヴィエール:望海風斗
シャルル7世:甲斐翔真
シャルル6世:上原理生
オルレアン公ルイ:上川一哉
ブルゴーニュ公フィリップ:石井一孝
ブルゴーニュ公ジャン:中河内雅貴
ヨランド・ダラゴン:那須
幼少イザベルほか:大森未来衣      

 

 2024年の初観劇はイザボー! MOJO(Musical of Japanese Origin)プロジェクトなる企画の第一弾の作品である。開幕前日、ゲネプロの動画が公開されたのだが、そこには望海風斗さん演じるイザボーのド派手な登場シーンやパンチのあるロック調の歌唱が披露されており、それを見てすぐにチケットの追加を決めた。見る前に追いチケしたのは初めてだ笑
 観劇初日、果たしてその直感を裏切らないパワフルな舞台だった。出る人出る人圧巻の歌唱力で、また舞台機構や照明も非常に凝っている。日本語オリジナル作品のせいか、歌詞の分量がとてつもなく多く、脳内もフル回転状態でついていくのに必死だった。ジェットコースターのように興奮状態のまま観劇し、気づいたら劇場外にポイっと放り出されて放心状態となった。歴史も複雑で、登場人物の関係性も複雑で、イザボーの心理や行動もかなり変化の幅が大きく、理解しきれないこともそれなりにあったと思う。それでも見た後は圧倒され、ただただすごいものを見た!という感覚に陥った。
 本作はさすが日本オリジナル作品と言うべきか、上演期間中に3回も配信があり、また、購入したプログラムに全ての曲の歌詞が掲載されていたので、配信と歌詞を繰り返し見ながら、劇場では消化しきれていなかった部分までじっくりと鑑賞することができた。(以下、ネタバレを含みますので十分ご注意ください。)

 

イザボー×望海風斗

 元宝塚雪組トップスター、望海風斗さん。私が初めて望海さんを知ったのは、宝塚退団後に配信された「ひかりふる路」を見た時だった。宝塚の夢々しいイメージを覆す重厚な演目で、望海さんの厚みのある安定した歌唱力と、理想と現実の狭間でもがく主人公を演じる姿が圧巻だった。望海さんは、宝塚といわゆる外部グランドミュージカルの橋渡しになれる人だと思った。どちらか一方しか見たことがない人に、望海さんが出ているならもう一方の作品も見てみようと思わせる、そんな魅力を持った役者さんだと思う。実際、私もグランドミュージカルを専門に見ていたのだが、この作品を見て、宝塚劇場にも足を運んだし、宝塚時代の望海さんの過去作品を映像で見たり、退団後の出演作である「ガイズ&ドールズ」や「ムーラン・ルージュ」を劇場で観劇したりした。そのような中で迎えた、初のタイトルロール作品が「イザボー」だった。
 見終わった感想を一言で言うと、「見たかった望海さんをとうとうナマで見た!」に尽きる。何より圧倒的な歌唱力、劇場の空間支配力、強い信念の元に突き進む人物像、運命に抗い自らのアイデンティティに覚醒する決意、現実に打ちのめされる咆哮…宿命に翻弄されながら必死に生き抜いた女性の生き様を見た。

強さ

 イザボーという人物は今回初めて知った。イザボーだけではない。百年戦争ジャンヌ・ダルクという名前は非常に有名だが、詳しい史実はというと正直おぼつかない。歴史のロマン溢れる中世、領地や覇権をめぐる争いが絶えず、生きるか死ぬかの権謀術数渦巻く時代である。イザボーは、夫である国王シャルル6世が発狂するという悲劇に見舞われなければ、歴史の裏に数多くいる政略結婚で嫁いだ王妃の一人に過ぎなかったかもしれない。しかし、彼女は数奇な運命を辿る。その人生の出来事を少し書き出すだけでも、百年戦争の時代の真っただ中に生まれ、フランス国王に嫁ぎ、生涯12人の子を出産し、夫である国王が発狂し、自ら政治に加わり、派閥闘争に翻弄され、イングランドとフランスの間で交わされた重要な条約の調印に関わり、ジャンヌ・ダルクの登場によって自分の運命も大きく変わる…あまりに劇的すぎる人生だ。嫁いだ頃は純粋な幼い少女だったわけだが、この運命を与えられては当然強くなくては生きていけない。不幸な運命に翻弄されながらも、徐々に覚醒し、強く苛烈に自ら道を切り開いて生き抜く姿はただただ圧巻だった。

 揺るぎない強い意志に圧倒される一方で、違う側面も垣間見えた。2幕を途中まで見て感じるのは、1幕であれだけの決意で立ち上がり、祖国フランスを守ると誓ったイザボーが、実現したかったことはそれなのかということだ。享楽に興じ、我が子を次の王位につけるために策略を謀り、時には敵側に取り入って抱き込み、娘達を政略結婚の道具として各国に送り込む。もっとダイナミックにフランスのために力を注ぐのかと予想していたので、他の諸侯たちと同じようにはかりごとに暗躍する姿に少しがっかり部分するもあった。しかし、これが現実なのだなとも思った。一王妃として、自分を守り、国王である夫を守り、自分の子供たちを守り、派閥を家系をフランスを守るためには、姑息に見えようと、敵を欺いたり腹を探り合ったりしながら生き抜いていくしかないんだなと。何度か見るごとに、イザボーが王妃という頂点に立ちながらも、結局は鳥かごから完全には抜け出せず、沼地に足を取られるような世界で生きているように思えて、煌びやかな舞台上の強い姿とは裏腹に、ふと哀しさも感じてしまった。

 史実だけを見ると、私欲のみを優先し、国が傾くことに頓着しない無能な王妃のようにも見えるが、本作で明らかになるのは、根底に国王への愛、祖国フランスへの愛、そして自分自身への愛があることだ。1幕でシャルル6世の発狂に接した後、「美しい獣になろう」「それが人の道でないというなら人であることをやめよう」という、こちらも狂気的な決意を見せる。ある意味では、この時点でイザボーは一度死んでいる。夫の病気を嘆き悲しんでいるだけでは、自分は食われてしまう。自分と夫と祖国を守るためには、鉄の鎧をかぶって自分が食う側に回らないと生きていけない。食われるというのは、殺されるとか立場を追われるというものとは限らない。王と同じように傀儡となり、いいように利用される可能性もある。そんな冒涜は許さない、という強い意志を感じる。そのためには、道徳に反することであろうが、人から嫌われようが、罵られようが、意に介さない。そのようなことをウジウジと気にするイザボーは自分の中で殺したのだ。ジャンに「血も涙もないのか」と責められる場面があるが、そう、血も涙も捨てたのだ。自分が自分であるために。
 トロワ条約調印後に夢の中でシャルル6世と会話する場面がある。「陛下…」という柔らかい声が切ない。鉄の仮面、獣の仮面の下に眠る、ただ夫を愛するだけのイザベル。あのイザベルを殺して、戦い続けたんだなと。

幸せ

 幼少期のイザベルが度々突き付ける「今あなたは幸せ?」という台詞が胸に刺さる。生物学的に見れば、繁殖能力があって、種の保存ができる生物が生き残る。それは総体の数の勝負でもある。沢山生き残っていれば成功なのだ。たとえ生き残っても個々一人一人の個体が幸福とは限らないが、しかし生き続け、次の世代に繋げていくことで、全体として見れば何かいい方向に繋がるはずという人間の儚い希望が見える。現代に生きる我々は、(多くは)命の保証があるうえで質的な幸福度を求めているが、それは社会が成熟したおかげであり、基本的な生命の安全が保証されていない時代においては、生きることがまず最初の幸福になるだろう。その意味では、12人の子を為し、65歳の人生を全うしているイザボーには強い生命力を感じるし、人生の勝負には勝っているように思う。
 そのうえでイザボーの人生が幸福だったかどうか。それを現代の感覚で語ることがどこまで適切か分からない。その生涯は悪や血にまみれており、国家間の争い、派閥の争い、夫婦関係や親子関係の破綻などを見ると、目指した理想に辿り着いたとは言えないかもしれない。しかし、それは単なる結果論であり、歴史のある一つの側面から見たものでしかない。結果の成否ではなく、より良き未来を信じて自分の思うように生き抜いたことは幸福なのだと感じた。

 イザボーが史上最悪の王妃と呼ばれ、遂にはフランス王位を手放すに至る歴史に加担したのは史実なのだろうが、一方で、その時代を必死に生き、特に女性が抑圧された時代に限界まで挑みながら生きたのもまた事実なのだろうと思った。悪をも辞さないその強い信念がいっそ清々しく、歴史は味方しなかったが、その強さはシャルル7世を含め、以降の王にも受け継がれていったのだろうとも思える。最後に滝のような薔薇の花びらを浴びる姿が残像のようにいつまでも瞼の裏に残り、イザボーの激しく鮮烈な生き様に圧倒された。


シャルル6世×上原理生

 イザボーの夫である国王シャルル6世を上原理生さんが演じている。登場するなり狂っている。解説には脳神経系の疾患があったと書かれていたが、日本でも海外でも病弱の王は定期的に現れる。近親での婚姻を繰り返すことによる遺伝的なものか、当時の医療では救えない病気が多かったのか、国の統治を担う重圧によるものか、理由は不明だが、シャルル6世が精神錯乱状態に陥っていることがこの物語の全ての始まりでもある。役者さんの対談で知ったのだが、劇中で描かれているとおり、シャルル6世は実際に「ガラス妄想」と呼ばれる錯乱に陥り、自分の体がガラスでできていて壊れてしまうかもしれないという強迫観念に苛まれていたそうだ。
 病状以上に見ていて苦しくなるのは、周囲がシャルル6世を生かしも殺しもせず、傀儡としていいように利用することだ。その邪な策略に立ち向かうためイザボーが政治の表舞台に登場する。いっそ王位を別の者に譲れば、各人の運命も大きく変わったのではないかと思えるが、そうしなかったこと自体が、この時代の闇の深さを物語っている。
 もう一つ苦しくなるのは、シャルル6世が時々正気を取り戻すことだ。正気になっては、狂気の自分が起こした事態を把握し、懺悔する。イザボーに「自分がまだ自分でいられるうちに殺してくれ」と頼む場面は本当に胸が締め付けられる。「故郷の空に帰そう」という歌詞と合わせて、シャルル6世の渾身の愛の告白のようにも聞こえた。シャルル6世はイザボーを愛していて、イザボーも最後までシャルル6世を愛している。政略結婚の時代にあって、愛し合う夫婦がいることが奇跡的なような気もするが、そういう奇跡の出会いであったにもかかわらず、なぜ神様は非情な運命を与えたのか、と涙を禁じ得ない。
 その後の展開を客観的に見ると、イザボーが放蕩三昧の生活を送り、王妃でありながらルイを始め多くの男たちと浮名を流していたようだ。これもまたイザボーの悪女ぶりを象徴するものだが、シャルル6世の錯乱状態を考えれば、それもあり得ることかもしれない。この点でイザボーを擁護する気はそれほどないのだが、果たしてイザボーだけが悪いのか、とは思う。今より女性の人権が低かった時代、周囲の男性もシャルル6世が正気でないのをいいことにイザボーに欲を向けてくることもあるだろうし、政治的な思惑で関係を持とうとすることもあるだろうと思えた。国と国王を守り、獣のような男たちと張り合っていくためには、自分も獣になる必要があったのかもしれない。自分の尊厳を守るためには、弱き獣として餌食になるのではなく、美しき強き獣として逆に手玉に取っていると見せるしかなかったのかなと…。 あぁ、せめてシャルル6世が正気に戻る時間が少しでも多くあってほしい。もしそれが叶わなかったのなら、せめてルイだけは本当の癒しの存在であってほしい、と切に思った。
 トロワ条約調印後の場面で、正気のシャルル6世が夢に登場するようなシーンが好きだった。穏やかで優しい愛妻家のシャルル6世。あれが夢だとしたら、シャルル6世の夢でもあり、イザボーの夢でもあるのだろう。何とも切ない。と同時に、最後の台詞の意味をずっと考えている。イザボーが抱きしめられながら、幸せそうな表情を浮かべているのだが、「叶うならば、ずっとこうして抱きしめたかった」というシャルル6世の言葉を聞いて、急速に瞳の色を失くしながら、「それはかないませんでした…」と呟く。いつから叶わなくなったのだろう…。それはシャルル7世を含むイザボーの子供の出生の事実に関わる言葉なのだろうか。実に意味深な台詞がさらっとチャレンジングにぶっ込まれているな…と思ってしまった。この事実は永遠に分からないと思うが、それはそうと、叶いませんでした…という言葉に、夫に対するイザボーの不変の愛も感じられ、またしても病気が引き裂いた運命に胸が痛んだ。


オルレアン公ルイ×上川一哉

 全てのキャストが歌ウマ揃いだったが、オルレアン公ルイを演じた上川一哉さんもその一人だ。ムーラン・ルージュでもお目にかかったが、今回のルイはまた非常に魅力的なキャラで、これ以上観劇したら引き込まれて危険だと感じるほどだった笑 国王の弟でありながら、王族ぶらない飄々とした軽やかさ(チャラさとも言う)を見せ、女性と見るや手当たり次第に口説き落とし、最後は王妃イザボーとも不貞の関係となるルイ。初回見たときは全く食えねえヤツだと思っていたのだが、上川さんの鼻に抜けるような高音の甘さも相まって、ルイのチャラさゆえの人懐っこさというか、憎めなさが愛おしく、だんだん気になる存在になるので実に困ったものだ。飄々としているので、国王の敵か味方かも分からないところもあり、1幕で王妃に協力を誓約した時には、隙あらば裏切りそうな腹黒さも感じた。それが、はっきりとではないのだが、微妙に心情が変化していく様子がとても良かった。1幕はイザボーが覚醒する様子をニヤニヤ見ながら、自分のコマとして使えるかどうか見極めているような印象だったが、2幕でイザボーがだんだん羽目を外していく様子を見るにつけ、彼女の虚勢をどこか憐れんでいるような、でもどうすることもできないやるせなさを感じた。2幕冒頭で、イザボーがブルゴーニュ公親子を前に悪態をつく後ろで、突っ立って見ているルイの表情が何とも言えなかった。なびかない1幕イザボーには軽口でチャラチャラ口説き文句を吐けたのに、2幕になると本気の気持ちが伝えられないとは、なんて罪なヤツなんだ!惚れてまうやろー!
 そして、(ジャンの裁判風に→)極めつけはあの公演プログラム事件~~!本作が日本オリジナル作品であることの恩恵か、購入したプログラムには全曲の歌詞が掲載されていた。細かく見ていると、掲載されている歌詞からところどころ変更されている箇所があった。直前までブラッシュアップしているのだろうと思っていたが、なんと本編にはないルイのソロの歌詞が掲載されているではないか!本編ではその歌詞の一部が台詞として使われているのみだった。この歌詞がまた非常に切ない。最初は遊びのつもりだったイザボーへの想いがだんだん本気になってしまったような、ルイの切ない心情が吐露されている。なぜこの曲はなくなってしまったのだろう!!聞きたかった!!あんなに哀愁漂う歌詞だけ載せておいて本編で歌わないとは、これは新たな焦らしプレイか!?イザボーに届けられなかったルイの思いをメタ的に表現しているのか? まぁ、もしルイへの感情移入が深まると、その後の展開で観客が情緒不安定になってしまうので、あのくらいの軽やかさがちょうどいいのかもしれないが。いやぁ、でも何かの機会に幻のルイのソロを聴かせてほしいと願っている。
 あと、2幕冒頭にシャルル6世とルイが賭けで馬を飛ばすシーンがある。正直、本編にほぼ関係ないようにも思うのだが、何度か見ると涙が出そうになる。全編を通して重苦しいストーリーが続く中、あの早駆けのシーンだけは明るく平和で幸せそうで、なぜあの時間が長く続かなかったのか…と切ない気持ちになる。また、これは個人的な話になるが、ルイのことが気になる自分を自制しようとしていた頃に、ちょうど1階通路寄りの席で観劇する機会に恵まれた。(偶然だろうか〜。それとも主の導きか〜!)この場面は客席から登場する演出になっていたのだが、自分の席の目の前でルイが立ち止まり、しかも観客に軽く声をかけながら台詞を発するものだから、すっかり見入ってしまい、その後しばらく舞台の台詞が頭に入ってこなかった。あっさりオルレアン派に陥落した笑

 そう、全く予想だにしていなかったのだが、思いの外、ルイが刺さってしまって身悶えている。他にもそういう人は多かったのではないだろうか。しかしあんなチャラいやつのどこに惹かれたのか(失礼!) 女性に節操がなく、派閥闘争では腹黒さも感じるやつだというのに!
 オルレアン派の総意、ではないかもしれないが、一員としてルイの魅力を挙げるとすると、軽さの中に見える重さというところだろうか。イザボーへの愛、そして兄への愛が良い。バレンチーナには申し訳ないが、ルイは最後はイザボーに本気になってしまっている。そしてまた、兄シャルル6世のことも、コンプレックスもありながら、心底好きなんだろうなと思った。切ないのはイザボーはルイに身は捧げているが、心は全く捧げていないこと。イザボーは快楽を貪っているように見えて、本物の愛はとっくに捨て去っている。シャルル6世が完全に狂気に落ちた時に、自分も死んでいるし、シャルル6世も死んでいる。死んだ人は永遠なのだ。死んだ人を超えることはできない。イザボーの中では愛の対象は昔のシャルル6世のみであり、それが戻ることはないのだから、もはや愛など存在しない世界に生きている。きっと男もゲームのカード、自分の体も切り札くらいのものだ。
 ルイはイザボーの愛を得ているように見えても、抱いても抱いても自分のもののような感覚はなかったのではないか。タチが悪いことに、奪いたくても戦う相手が死んでいるのだから、勝負すらできない。永遠に手に入らないイザボーの心、永遠に超えられない兄、抱くたびにそれを突きつけられる苦悩を感じた。ルイの軽さの奥に秘めた、どうしようもできない思いがとても重く、ぎゅーっと胸を締め付けられた。

 そんなわけで、見れば見るほど引き込まれてしまう危険なキャラだった。欲を言えば、ルイの本心がもっと知りたかったし、飄々とした軽やかさをかなぐり捨てて思いをぶつけるところなんかも見たかった。(それはまた別の物語よ!)

 

シャルル7世×甲斐翔真

 甲斐翔真さん演じるシャルル7世が、実はストーリーテラーだというのがまず驚きだった。イザボーの子でありながら敵となり、後に国王として即位するシャルル7世。かの有名なジャンヌ・ダルクに窮地を救われるという、世界史の中でも他に類を見ない強運の持ち主とも言える。そのシャルル7世を敢えてストーリーテラーとし、母であるイザボーとフランスの歴史を振り返る。もう一人のテラーであるヨランド妃は様々な経緯を知っているが、シャルル7世はまだ全貌を知らないので、我々観客と同じ目線にいるとも言える。観客はシャルル7世が理解を深めていくのに合わせて歴史を追いかける。複雑な歴史背景でありながら、没入していける巧妙な仕掛けだと思った。私もそうだが、多くの日本人はイザボーという人物を知らない。だが、この物語を見るうえでは、まずイザボーが史上最悪と忌み嫌われた王妃であるというところをスタート地点にしたうえで、彼女には彼女の正義があって必死に生き抜いた人物だということを知ることが必要だ。そのためにも、物語の冒頭で、(全く知らないはずの)イザボーが悪女である認識を共有する必要があるのだが、シャルル7世がそれを自然に誘導してくれている。一人だけ当時の価値観ではなく、現代に近い価値観を有しているように見えるのもそのためだろう。
 だが、そんなストーリーテラーを担っていたシャルル7世が、最後には物語の中の時間軸に溶け込んでいく。救世主ジャンヌ・ダルクとの出会いを経て戴冠する場面、そして母イザボーと邂逅する場面。史実では、イザボーとシャルル7世は敵として対立し合う親子であり、本作の最後の場面でも和解するわけではないのだが、穏やかな浄化の時間が訪れる。シャルル7世が最後に「王太后陛下、どうぞお元気で」と告げる場面は、精一杯の愛と、混乱の世を生き抜いた人間に対する敬意を感じた。イザボーのようには生きないだろうが、国王として人間としてひたすら一生懸命に生き抜こうという思いは受け継がれるだろう。
 
 また、ストーリー以外の部分で感じたことを書いてみたい。私が観劇を好きな理由は、もちろん演じている役を見て非日常の世界に没入できることだが、もう一つ、その一方で、現実世界の役者さん自身が役柄に投影されるように見える一体感だと思っている。しかもそれは時に一期一会で、今この瞬間にしか見られない時限的な一体感の時もある。
 シャルル7世は5番目の男子であり、王位継承順位は低かった。それが兄達が次々と亡くなったことで、自分の元に王位が転がり込んでくる。それだけ強運の持ち主と言えるが、その器たりうるのかと自問自答している。若さゆえの根拠のない自信が漲る瞬間もあれば、自分がこの重責を果たせるだろうかというプレッシャーに苦悩するような瞬間もある。それでも真摯に過去や現実と向き合い、自分にしかできない道を切り開こうと決意する姿を見せる。これが今現在の等身大の甲斐翔真さんにピッタリ合っていたと思う。素晴らしい実力を備えた役者さんでありながら、驕ることなく常に自分の力と向き合い、錚々たる豪華キャストの中で大きな役を担い、さらに高みを目指そうとする姿。ご本人の飽くなき挑戦が、混乱の世に立ち向かおうとする若き新国王と重なる。これまで何度も共演している望海風斗さん演じるイザボーから、「あなたの思うように生きなさい」と諭される姿は、甲斐翔真さん自身へのエールにも思えて胸が熱くなった。

 

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 久しぶりに長編となってしまったので、ひとまずここで第一弾は終わりとする。続編ではイザボーのストーリーや歌詞について考えてみたい。

 

(イザボー第二弾はこちら→ イザボー ② - えとりんご

ベートーヴェン

(ネタバレご注意下さい。)


2023.12 日生劇場
ルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン井上芳雄
トニ:花總まり
フランツ:佐藤隆紀、坂元健児
ベッツィーナ:木下晴香
ヨハンナ:実咲凛音

 

 ミヒャエル・クンツェ、シルヴェスター・リーヴァイの黄金コンビによる新作ミュージカル「ベートーヴェン」の日本初公演。クンツェ・リーヴァイと言えば、ウィーンミュージカルの巨匠で、何と言っても「エリザベート」「モーツァルト!」の超大作が有名であるが、他にも「マリー・アントワネット」「レディ・ベス」など、数々の人気作品を生み出している。その待望の新作「ベートーヴェン」が日本でも上演されることとなり、しかも主要キャストが井上芳雄さんと花總まりさんとあって、否が応にも期待が高まった。チケットは大激戦だったが、何とか3回の観劇に恵まれ、また、アーカイブ付きの配信も購入し、ベートーヴェンの曲で1週間を過ごすという格調高い年末を過ごした。
 なお、本作については、ベートーヴェンクラシック音楽に対する基礎知識の水準によって見る人の受け止め方が異なるように思うので、観劇前の私自身の知識レベルを紹介しておきたい。ベートーヴェンの生涯で知っていることは偉大な作曲家で、聴覚を失ったという程度。楽曲について、メロディーを聴くだけで題名まで分かるものは、「運命」「第九」「月光」「エリーゼのために」。「田園」や「悲愴」は聴けば知っているなという程度だった。(以下はネタバレを含みます。)

 

井上芳雄×ベートーヴェン
 今やミュージカル界を代表する俳優、井上芳雄さん。これは私の自慢なのだが、私が初めて芳雄さんを舞台で見たのは、なんと「エリザベート」のルドルフ皇太子!そう、あの鮮烈なデビュー作を帝国劇場で目撃していたのだ!家族に連れられて初めて東宝エリザベートを見に行き、黄金期にあった山口祐一郎さんトートの美声に圧倒されていたところ、フラっと出てきた若者風の俳優さんが(失礼!そのように見えたんです)、突然とんでもない歌声で歌い出した。私は全くの観劇初心者だったが、帝劇の客席が一気に、え!祐様と張り合って歌うこの若者は誰?!という空気となったあの衝撃は忘れられない。当時はスマホはおろか、インターネットすらそれほど普及していなかったので、舞台の映像や感想が事前に拡散されるわけでもなく、多くの人が自分の目で見て初めて舞台の内容を知る時代だった(少なくとも私の周囲はそうだった)。ある意味純粋な観劇体験ができる幸せな時代だったとも言える。そんな中で目撃したスーパースター誕生の瞬間だった。あの鮮烈デビューから早くも20年が経ち、今や押しも押されもせぬスーパースターとなってクンツェ・リーヴァイ氏の新作の主演を新たに務めるのだから非常に感慨深い。
 一方で、ベートーヴェンという音楽家のイメージ。音楽室の肖像画で見たベートーヴェンは、髪がやや逆立ち、表情も険しい。「運命」のジャジャジャジャーン!が印象的なせいで、イメージするものは怒りや雷などの負のエネルギー。そして聴力を失うという悲運に見舞われながらも、才能に溢れた楽曲を数々残した大音楽家。小学生でピアノを習う人なら誰もがまず弾けるようになりたいと憧れる「エリーゼのために」。他の音楽家に比べると知っていることが多いような気がするが(例えばハイドンショパンの人生は殆ど語れない)、ただ実際にどのような人生を歩んだのかというところは殆ど知らない。
 今回の舞台を通して、ベートーヴェンは才能に恵まれながらも、厳しい父親に育てられ、そのエキセントリックな気質から周囲にも理解されない部分を持ち、音楽家にとって生命線とも言える聴力を失うという厳しい運命に見舞われ、血を分けた弟とも確執を抱え、常に孤独や絶望を抱えて生きている人物像が思い浮かぶ。しかし、その一方で、熱い情熱も持ち合わせていたことに驚いた。どこか闇を抱えていて、自分で壁を作っていそうな印象があり、他人と分かり合うことを求めてすらいない孤独な人物のようにも思っていたが、トニに対する想いは、初期はとんでもなく不器用でピュアで微笑ましく、その後危なっかしいほどに情熱的で盲目的で、そして終盤にかけて恋から愛に昇華させる、つまり自分の幸せではなく相手の幸せを優先する域に達していく様子が印象的だった。王道ど真ん中のピュアラブストーリーすぎて逆に新鮮だった。しかもそれがベートーヴェン自ら作曲した音楽とともに流れ、美しい舞台美術とやや抽象的なダンスとともに紡がれるので、とても芸術性の高い作品だった。
 もし、作品を見る前に予習すべき曲があるかと聞かれたら、「悲愴」「月光」「運命」と答えよう。特に「悲愴」の旋律に乗せて歌われる、愛を知ることで初めて知る喜び、そして苦悩、悲しみが切なかった。ベタな展開だな~と思うところはあっても、一周回って結局愛とは人生とは人間とは全てこういうことの繰り返しだよな…と素直に感じ入るところがあった。ベートーヴェンやトニにとって、この愛が最後の愛だったのか、いつまでも続く永遠の愛だったのか、描かれていない部分の真相は分からない。でもきっと、ベートーヴェンにとっては大切に守り続けた愛で、その時々に湧き上がった情熱は名曲の数々に吹き込まれているのだろうと思った。
 そういった限りあるものや永遠に続くものをひっくるめたものが人間の営みだと思うし、それぞれ一人の人生に定められた宿命でもあると思う。そんな感慨の中、終盤で流れる「運命」はとても印象深かった。一幕の「運命」は、ベートーヴェン自身に与えられた厳しい試練に対する怒りや絶望を感じ、それに立ち向かおうとしながらも次々と困難が襲ってくるやるせなさを感じたが、二幕の「運命」は人生の終わりに振り返るような達観した境地を感じ、ベートーヴェン自身に留まらず、各人それぞれが背負う宿命を誰もが乗り越え、人生を全うする、そんな人生の積み重ねが人間の歴史を作っているといったような壮大なスケールのエネルギーを感じた。
 この「運命」の他にも他にも芳雄さんはもの凄い量の曲を歌う。しかもかなり歌い上げるビッグナンバーだらけで、これがシングルキャストとは信じられない。中でも好きな曲は、前述した「運命」2曲、「愛は残酷」、よろしく絶望/さよなら絶望。特に「愛は残酷」は悲愴からの一曲だが、トニに手紙を書くベートーヴェンがその狂おしい想いを吐露する歌で、しかもベッドに仰向けになって歌うという仰天するスタイルを披露した。私は一度最前列で見たので、目の前で想いのやり場のないベートーヴェンが、シャツの胸元をグシャっと掴んだり、サイドテーブルに両腕をついて俯いたり、ベッドに寝転んで腕を宙に伸ばしたりするところを間近に見て、もうそれはそれは魅入られてしまった。

 

花總まり×トニ
 ヒロインのトニはとても重要な役で、この役を花總まりさんが演じているのが今回とても良かったと思う。こういう役をやらせたらまさに天下一品!どういう役かというと、客観的に見れば、家柄も地位も経済的にも何不自由なく、全てにおいて恵まれた環境に生きる高貴な女性でありながら、本人は何か満ち足りない不自由さを感じ、もがき苦しんでいる薄幸な女性。完全に花總まりワールドで、クンツェ・リーヴァイ氏が花總さん当て書きで書いたのかと思うほどだった。夫のある身で愛を求める姿は、もちろん道義に外れているわけだが、これがどう見ても悪いのは夫もしくは時代のせいであって、花總さんは悪くないと全力で弁護してしまうほどの説得力だった。人妻であろうが何であろうが、清潔感に溢れ、その救いのない鳥かごの世界から救い出してあげたいと全人類に思わせる、けなげな美しさがあった。花總さんが演じる役を色々と見てきたが、代表作とも言えるエリザベート、そして、マリー・アントワネット、レディ・ベス、バイオームなど、どれにも「黄金の鳥かご」「金のオリ」「人形」などのような形容が登場する。それらの過去作のヒロインをもどこか受け継いだように見えるトニ。今度こそその黄金のかごを飛び出て幸せになってほしいと思った。男性から見るとどう見えるのだろう。きっと夫目線ではなく、ベートーヴェン目線でお花様をあの場所から連れ出して幸せにしたいと思うのだろうな。愛しい女性が幸せそうであればまだ遠くから幸せを願うことができるだろうが、不幸せそうに見える場合は、その恋心を抑えることなどできないだろう。特に二幕、結い上げた髪で罪悪感に俯く横顔が切なくて儚くて、あらゆる男性を狂わせてしまいそうな美しさだった。
 また、トニはベートーヴェンの想い人であるが、劇中何度か概念的に表現されているような場面があった。ベートーヴェンがトニに対して抱く幻想が表れていて、聖母のように微笑んだり、過去のトラウマから解放してくれるような抱擁で包み込んでくれたり、1幕ラストは高いところからベートーヴェンの頭上に楽譜を撒いたりする。特にぞくぞくっとしたのは、丘の上で雷にあうシーン。雷を逃れて木に駆け寄る場面は可憐なトニなのだが、舞台中央で雷が好きなんだ!と叫ぶベートーヴェンに後ろから近づくトニは、急に声色が低くなり、歩く動作も何かが憑依したような天上人のようになり、ベートーヴェンの視界を後ろから覆い隠すような仕草を見せる。ベートーヴェンから見たトニは、自分が自分のままでいいと肯定してくれて、そんな自分を愛してくれる人であり、現実世界の生き辛さを全て消し去ってくれる女神のような存在だったのかと思わせた。

 

クンツェ×リーヴァイの世界
 この作品が通常のミュージカルと違うのは、殆どの楽曲がベートーヴェンの原曲に歌詞を乗せていることだ。この音楽の点は、好みが分かれる箇所の一つだと思う。原曲を使うことによるプラス・マイナス、というほどではないが、違いを挙げると、
・知っている曲が出てくる。アレンジを楽しめる。
ベートーヴェンの世界観を堪能できる。
・元々演奏用の音楽なので音域が広く、歌うのが大変そう。
・各人が持つ原曲のイメージと、使われている場面や歌詞が合わないと感じる場合があるかも。
・最近のミュージカル楽曲のアレンジが進化しており、ロック調やポップ調で曲中に盛り上がりがあるものも多いので、相対的にクラシック音楽がゆっくりで単調に感じられる。
・ミュージカル楽曲は、ストーリーの展開に合わせて作曲・作詞されているため、その場面の人物の心情に合った音楽となっているところが醍醐味と言えるが、本作では原曲が先にあって、ストーリーに合いそうな曲を当てているため、心情と音楽を一体化させることができるかどうかがポイント。 

 特に最後の点については、知っている曲が使われているだけに、BGMのように聞こえたり、バレエやフィギュアスケートを見ているかのような感覚になることもあった。音楽に合わせて、感情を表現する創作ダンス的な印象とでもいうのだろうか。ストーリーを表現するための音楽、ではなく、音楽を表現(可視化)するためのストーリー、と感じるような瞬間もあると思う。この点は、話に入り込めるかという点で重要なポイントかもしれない。私はとても成功していると思ったが、それは今回のキャストの演技力によるものだろう。曲は有名なクラシック曲だが、お芝居がしっかりと線でつながり、感情を歌に乗せて歌える人でないと、こうはならないのだと思う。
 最も強いインパクトがあるのは「運命」だろう。これは1幕でも2幕でも歌われる。しかもここだけ唯一ロック調にアレンジされていて鳥肌が立った。ここだけでも見る価値はあると思う。2幕ラストバージョンは1幕より更にパワーアップしていたので圧倒されたし、ベートーヴェンが拳を突き上げて昇天していくのと合わせて、自分の中の興奮もそのまま脳天から抜けていくような気持ちいい快感があって、暗転と同時に全身で拍手を送った。


ゴースト×音楽の精霊
 ベートーヴェンがピアノを弾くシーンで、白いヒラヒラの衣装を着たダンサーが登場する。よく観劇している人であれば、クンツェ・リーヴァイ作品に時々登場する「人ならざるもの」だと理解するだろう。私は予習もせず、解説も読まずに劇場で見たので、まずは舞台から受ける印象で解釈しようと試みた。「エリザベート」に登場するトートダンサーが黒なのに対してこのゴースト達は白。「モーツァルト!」に登場するアマデはモーツァルト自身の才能の化身で一心同体のようだった(実際にモーツァルト絶命と同時にアマデも息絶える)が、このゴースト達はベートーヴェンの一部、というわけではないようだ。音楽の世界、芸術の世界を司る神の使者たち。いや、つくり出す音楽そのものの擬人化といったところか。よく見るとヒラヒラには音符や五線譜か鍵盤のようなものが描かれている。白なので、ベートーヴェンを支え助け、傷を癒す存在なのかと思って見ていたが、歌っている歌詞をよくよく聴いてみると何やら様子が違う。

 望むな 愛など

 生み出せ 芸術

 天才の使命だ

…これは一体…?白いゴースト達はベートーヴェンの味方なのか敵なのか。芸術のために愛も自由も喜びも望むなと言っているのか。もっとよく聞きたい。ゴーストの言葉を。しかし、劇場で聞くとオーケストラの音やコーラスの重なり、芳雄さんの迫真に迫った演技、バレエのような芸術的な踊り、上から降ってくる楽譜の束など、色々なものを五感で一度に受け止めることとなるのでキャパオーバーとなってしまい、特に高音部分の歌詞がしっかりと聞こえていなかった。それでも圧巻のシーンで感動していたのだが、アーカイブ付きの配信があったので、このシーンを繰り返し見た。そしてある日、私の中のゴースト達が「生み出せ~」「生み出せ~」と囁くので、凝り性の血が騒いだ私は1幕と2幕ラストのシーンの歌詞を書き出してみた。ベートーヴェンのように無心にペンを走らせ、アーカイブを聞き直しては書き込み、そして出来上がった歌詞を見て、私はペンを放り投げてお尻で後ずさった。こ、これは…。そこにあったのは予想していた以上に厳しくストイックな言葉だった。

 天才の宿命だ
 全て音楽に捧げよ!

 芸術家には
 名誉も栄誉も
 幸せもない
 ひたすら
 尽くすだけだ
 自由があると思っていたなら
 それは違う!


 崇高な芸術を生み出すために、自由も愛も友人も失ったというのか。世間の雑音に振り回されないよう、聴覚も失ったというのか。自分の創り出した音楽も拍手喝采も聞こえない音のない世界で、ただひたすらに、世界が放つ喜びや悲しみを自分の内なる耳で再現しながら、それを音楽という芸術で表現する人生を生きたのか。それが神がベートーヴェンに与えた使命だというのか。選ばれし者にだけ与えた才能と試練。才能は栄光のように思えるが、のしかかる重圧は十字架のように重い。ゴースト達に崇められながら、夢中で楽譜を書き続けるベートーヴェンのラストの姿、初めて見たときは美しいバレエのようだと思ってうっとり見ていたのだが、回を増すごとにベートーヴェンに与えられた使命を思い、音楽の渦に巻き込まれてもがき苦しむ姿に見えて涙を禁じ得なかった。
 しかし、ベートーヴェンはなぜ聴覚を失った後にも、これほどの音楽を生み出すことができたのか。孤高の音楽家というイメージがあったが、本作を見て感じるのは、感受性が強く、誰よりも熱い情熱を持ち、言葉や態度は不器用かもしれないが、内なる感情を音に乗せて具現化できる類まれなる才能を持った人物。また、周囲を遮断するような怒りや絶望だけでなく、愛を知ることによって知った喜びや楽しみ、そしてそれを失うことによって知った悲しみや苦しみも、繊細な音楽となって紡がれているのだと思うと、まさに不滅の音楽であり、不滅の愛なのだなと感じた。形のないはずの「愛」というものを音楽という形にすることができて、そしてそれを数百年後の今もなお残していける才能に感服するし、その全身全霊の愛を捧げられたトニも次の世では幸せな人生を送ってほしいと願うばかりである。


 そう考えて思い出すのは、劇中ベートーヴェンが何度か歌う「よろしく絶望」。

 振り向けば 絶望よ またお前か

 さらばだ 絶望よ

 やぁ絶望よ

 ベートーヴェンはことごとく絶望が襲ってくることを呪いつつ、そのうち自分の人生には常に絶望がつきまとうのだと半ば観念しているかのように見えた。この絶望もまたゴースト達なのではないのか。ゴーストは、音楽の天才を生み出す使者としてみれば、人類にとって大きな財産を与えているが、ベートーヴェンから見た時には音楽以外の道が絶たれてゆくまさに絶望をもたらす存在だったのかもしれない。ベートーヴェンの絶望のうえに天才的な音楽が存在しえたと考えると、享受する側としては非常に心が苦しい。
 ベートーヴェンとトニが夢見た、愛と自由に包まれた理想の世界は現実には叶わず、トニは金のオリへ、ベートーヴェンはゴーストの待つ元の世界へ。ともに絶望に戻る。ベートーヴェン絶望の世界は音楽の世界でもある。でもトニに出会う前とは違って見えただろう。ゴーストの思惑通り、俗世や煩悩から切り離された世界。でも苦しみや不条理だけの絶望ではなく、トニを通して知った愛の喜びや自由、それを失う悲しみや切なさ、それでもなお立ち向かう強さ、そしてその先には歓喜のある世界。それら人間の真理を音楽という芸術として大成させて、今なおその名曲が弾き継がれていると思うと心が震えた。

 ベートーヴェンの有名な言葉を思い出す。
「苦悩を突き抜け歓喜にいたれ」
試練や絶望の先に歓喜を見出す境地まで達したベートーヴェンの生涯を讃えながら、この作品は幕を閉じる。

 不滅の音楽 ア〜アアア〜アア
 不滅の愛 ア〜アアア〜アア

偉大な音楽家よ、永遠に!
素晴らしい作品を有難うございました。

LUPIN(ルパン) 〜カリオストロ伯爵夫人の秘密

(ネタバレご注意下さい。)

2023.11 帝国劇場
アルセーヌ・ルパン:古川雄大
カリオストロ伯爵夫人:柚希礼音・真風涼帆
クラリス:真彩希帆
ボーマニャン:黒羽麻璃央・立石俊樹
イジドール:加藤清史郎

 改装による休館を間近に控える演劇の聖地、帝国劇場。その帝国劇場で世界初演となるオリジナルミュージカルが上演されるとあって、発表時に大きな話題となった作品。それが「LUPIN(ルパン)~カリオストロ伯爵夫人の秘密」(以下、「ルパン」)だ。小池修一郎作・演出、ドーブ・アチア楽曲、古川雄大単独主演。またキャストも豪華で、宝塚歌劇団伝説の元男役トップスターの柚希礼音と宝塚を退団したばかりの真風涼帆がWキャストを務め、さらに男装もするとあって、大きな話題となった。しかし、開幕が近づいてもあらすじも人物相関図もなく、どのような内容なのか皆目見当もつかない。
 私は偶然にも真風涼帆さん退団公演となった「007/カジノロワイヤル~我が名はボンド」も観劇した。これも同じ小池修一郎氏のオリジナル作品だったが、これはいわゆるトンチキ作品の部類だった(あくまでも個人の感想です)。「トンチキ」の定義は何だろう。一般用語なのか一部の人の間でしか通用しない用語なのか分からないが、辞書を引くと「とんま、のろま」と出てくる。演劇の評価として使われる場合の意味合いは、私の理解では「ストーリーがない、又はストーリーはあるが、展開にあまり必然性がなく、なんだかよく分からないが、登場人物がドタバタと動き回って最後は一件落着している話。登場人物には見せ場はあり、歌や踊りなどで盛り上がる場面もあるので、ストーリーを度外視すれば、特に出演するキャストのファンであれば大いに楽しめる作品。」といったところかなと思っている。
 私は観劇後に作品のストーリーやそこに込められた意味を掘り下げて反芻したいタイプなので、重厚な作品が好みであるし、ハッピーミュージカルよりは重く苦しい人間の業が見えるような哲学的な作品が好きだ。そういう意味で、ルパンに対する開幕前の下馬評を聞くうちに、自分の好みとは違いそうだと感じたので、チケットはとりあえず1枚だけ確保し、それ以上は積極的に取らずにいた。そんな中で自分の観劇の初日を迎えたのだった。(以下はネタバレを含みます。)
 はたして、ルパンはトンチキかそうでないか。トンチキ…だと思う。しかし、これまで見たことのないような、盛大で壮大なスーパーゴージャストンチキだった。謎解き要素もあるので、ストーリー性が全くないわけではなく、それなりに原作の要素も入った痛快で楽しい展開だった。しかし、この人物はなぜそこでその行動を取るのか、それ以前にこの人物は必要なのか、なぜそんな恰好をしているのか、なぜ空を飛ぶのか、あれに乗って…などなど、頭の中には?マークがいっぱいだった。だがしかし!見終わるころにはそんなことはどうでもよくなっていた。ただただ、楽しかった、圧巻だった、古川雄大バンザイ!、小池先生バンザイ!、もう一度見たい、よしチケット取ろう、と言ったようなテンションになっているし、「かい!とう!しんし!ルパン!」「ヘイッッ!!」と合いの手を口ずさんでしまう状態になっていた。というわけで、見終わってすぐに翌日のチケットを確保し、結果、3回観劇した。(重厚なミュージカルが好きとは?)

 

古川雄大×ルパン×七変化
 古川雄大さんを初めて舞台で見たのはレディ・ベスのフェリペ王子。あれこそなぜあの格好でビリヤード…という登場だったが、楽しいキャラを軽やかに演じていて、クールでセクシーな若手俳優という印象だった。その後、モーツァルト!のヴォルフガング、エリザベートのトートなど、名だたる大役を射止めて成長を遂げる姿を見てきた。今回のアルセーヌ・ルパンはその中でも異色の役どころだったが、ともすると崩壊しそうなトンチキ寄りのストーリーを楽しく美しくまとめ上げていた。個人的には、古川さんは少し陰のある色気が魅力の俳優さんだと思っていて、葛藤に苦しんだり、時々折れそうな弱い面を見せたりするのが母性本能をくすぐるタイプだと思っていたが、今回のルパンでは終始楽しそうに堂々と演じ切っていて貫禄すら感じさせ、これまでの経験が彼の血となり肉となり、全身から漲る自信となっているんだなと感心した。

 これはさすがに完全にネタバレになるので自粛するが、まず最初にルパンとして登場する場面は鮮やかすぎて舌を巻いた。もう一度あれを確認したいからチケットを追加した人も多かったのではないだろうか。その後も、ヴァルメラ、エイミール、アネット…と次々に変装していき、素のルパンやラウールと合わせるとまさに八面六臂の活躍なわけだが、そのたびに声質も変えて素晴らしい七変化ぶりだった。歌にダンスにマントに殺陣に、燕尾服にボロボロシャツにカンカンダンス、片眼鏡に口ひげに傷メイク、ゴンドラ飛行に壁からのスポットライト登場、もう何でも飛び出すテーマパークのようだった。帝国劇場という日本で最も由緒正しい劇場で、口をポカーンと開けて笑いをこらえ、腹筋の痛みに堪えるのに必死になるとは思わなかった。しかし、何度も言うが、この一歩間違えば、完全に崩壊しそうなトンチキ寄りの作品を、とことんカッコよく美しく楽しいハッピーミュージカルとして成立させているのは素晴らしい力量だと思う。最初は肩を震わせて忍び笑いしていたが、次から次へとアトラクションのように見せられているうちに、だんだん気分が高揚してきて自分の中の何かが開放されてしまい、終わる頃にはナニコレ楽しい~~!!という感情に包まれた。こ、これがスーパーゴージャストンチキのクオリティか!!

 トンチキトンチキとばかり言って、あらすじにもろくに触れず、私の感想までトンチキ寄りになってくるので、一番好きな古川雄大ルパンのシーンのことを書いてみたい。それは「僕の来し方を教えよう」と言って歌う一連のシーン。ルパンの生い立ち、なぜ盗みを働いたのか、そしてなぜルパンと名乗って今も盗みを続けているのか。ルパンは常に軽やかに飄々としているが、この歌の後半は強い思いが溢れ、目にも光が宿り、そして潤んでいるようにも見えた。私が一番好きなのはこの後、ルパンの来し方を聞いたクラリスが「ラウール…」とルパンの本名を呼ぶシーン。ルパンとして生きてきた意味を思い出して怒りに拳を震わせているところに、不意に名前を呼ばれ、「そう呼びたい?」と聞き直す。私が見た回では、この辺りの熱量がとても高まっていて、このセリフも「…そ、そう、そう呼びたい?」のように、動揺を隠しきれない感じになっていた。このブログでは毎回のように書いているが、私は歯の浮くような甘いキメキメ台詞よりも、抑えきれない感情がつい溢れてしまうような言葉が好きなので、このシーンはとてもお気に入りでしたねぇ。ここ以外はルパンはいつも軽やかで、何が本当の感情なのか分からないぐらい、余裕を持って自分の感情をコントロールできていたので、ここだけが唯一感情のゆらぎが見えてとても良きでした。しかし、名前呼びされて高揚が隠し切れない男子というものを少女漫画などでもよく見かけるが、本当に男性は名前呼びがそんなに嬉しいものだろうか、と正直いつもいぶかしく思っている。男子が名前呼びされて嬉しいのではなく、名前呼びされて喜ぶ男子を見たいという女子側の幻想ではないかと思ったりしている。本当のところどうなのだろう…という思いはありつつも、古川ルパンの場合は単なる名前呼びというのではなく、ずっと演じてきたルパンの奥にある、素の自分ラウールに不意に触れられた動揺が表れていて実に良かった。
 また、ルパンという人物がやはり愛されるキャラなんだろうなと思う。ルパンとルパン三世は別ものだが、多くの日本人にはアニメの「ルパン三世」のイメージも根付いているので、あの憎めない痛快なキャラがプラスの先入観を与えてくれるところもあるように思う。日本人がフェルゼンと聞くとベルサイユのばらの悲恋が思い浮かぶように、欧米でアーサー王と聞くと王道の中二病の血が騒ぐように、やはりその文化の中でDNAのように刷り込まれているイメージの作用というものがあるのだろう。私自身が若かりし頃の話だが、好きな男性のタイプはという質問に「ルパン三世」と答えていた先輩がいて、なるほど~!と膝を打った記憶がある。曰く「一見ワルでクズでチャラくて、実際にどうしようもなくチャラいんだけど、でもやる時はやるし、正義感があって友達思いで実はひたすら一途」。実際に彼氏だったら振り回されて大変そうだが、確かにめちゃめちゃ魅力的だよねとは思う(完全に個人の好みの話をしています笑)。設定は違うが、本作のルパンの魅力もこれに通じるものがあるのではないだろうか。永遠の少年性のようなものがあって、悪さをしても憎めないし、何だかんだとピンチに立たされても最後は何とかしてくれるだろうという謎の無敵感を感じさせるし、時折にじみ出る謎めいた色気が見る人を絡めとってしまう。ともすれば、勘違い野郎だしナルシストだしご都合主義のヒーローとなりそうだが、この絶妙なバランスを成立させるところが実に素晴らしく、キャラ設定、演出、古川さんの演技力、他のキャストとの関係性など、あらゆるものがうまくかみ合った結果なのだと思う。
 色々驚きの展開の作品ではあるが、特に1幕最後に、古川ルパンがピカピカと光る蝶ネクタイ型のゴンドラに乗って一人飛び立った時は度肝を抜かれた。ここは本当に帝劇か?!笑いをこらえすぎて涙が出てきそうだった。帝劇でまさかの笑い泣き?!あまりの演出に、あの場面は3度観劇しても全く歌詞が頭に入ってこなかった。だが、このゴンドラ辺りで脳内で何かを制御しているものがバチーンとはじけ飛び、キャッキャと大笑いして拍手したくなるような感覚に襲われた。ちなみに何とか声は出さずに抑えたが、ある時の観劇時はゴンドラが飛んだ時に客席から拍手が起きていた。見終わった時には笑顔になれる作品で、ハッピーミュージカルは世界を救う!と思ったし、その真ん中に古川雄大さんがいることがとても感慨深かった。

 

柚希礼音×真風涼帆×カリオストロ伯爵夫人
 宝塚伝説のトップ男役。そう呼ばれる人は何人かいると思うが、柚希礼音さんもその一人だと思う。宝塚には詳しくなかったが、退団時には見送りの花道がどこまでも続いたという話も何度も耳にした。初めて柚希さんを舞台で見た時は、既に宝塚を退団して数年経っている時だったが、さすがトップ男役と唸るほどの舞台掌握力で、圧巻のオーラを発していた。今回、ポスターが発表されたときに界隈がどよめいたのだが、その柚希さんが宝塚並みの男装の姿で登場している。退団後すっかり女優さんとして活躍しているわけなので、また男役風の姿を舞台で見られるとはファンの方々も思っていなかったことだろう。
 それは6月に退団した真風涼帆さんにしても同様だ。私は真風さんは「Never Say Goodbye」や前述した「007」の舞台でナマで拝見したので、男役のイメージがまだまだ強い。もう007のボンドを最後に、真風さんの男役姿を見ることはできないと思っていたのが、まさか退団後初の出演作品で男装姿を披露いただけるとは思わなかった。
 そんなわけで、宝塚ファンにとってもそうでない人にとっても注目の配役だったわけだが、これが期待を裏切らないカッコよさで、さすがは宝塚と心から称賛した。宝塚はトップ男役を一番に引き立たせるように全てが作られている世界だと思う。トップ男役が元々かっこいいのは当然なのだが、娘役も素でいるわけではなく、美しい女性像を細部まで作り出すことによって男役がさらに映えるようになっている。他の多数いる男役もトップ男役を引き立たせるようになっている。脚本も演出も歌も踊りも照明も、トップ男役をとことんカッコよく見せるように作られている。だが、外部の作品というのはそういうわけではない。色々な人物にスポットライトが当たるし、見得を切るような決めポーズが沢山あるわけでもない。だから、宝塚の人が外部作品に出演したときに、思っていたより小柄に見えたり華奢に見えたり、何かイメージが違って見えることはあると思う。ただ、やっぱり姿勢や指先や目線や身のこなし方など、宝塚の伝統芸とも言える美しい所作が細かいところまで行き届いているので、舞台映えするし、客席の端から端まで包み込むような掌握力は素晴らしいものがある。柚希さんや真風さんが登場した瞬間に、空気がピンと張る感じがあった。何が違うのか言葉で説明するのは難しいが、体幹が強いので、踊っても全く姿勢がぶれず、一つ一つのポーズがしっかり決まっている。コートの裾さばきにしても、目線の送り方にしても、目線の残し方にしても、ご本人達は何事もないようにやっているのだが、全てがバチっと決まっているので、どうしても観客は目を奪われる。これが宝塚のクオリティ!!笑
 かと思うと、女性の役として登場すると、すっかり妖艶。細長いキセルを吹かす姿はなまめかしく、ルパンとタンゴを踊る姿もセクシーで、ホームズがすっかり虜になってしまうのも仕方がないだろう。1幕ラストでルパンの恰好をして大立ち回りをした後、ホームズに向かって「アビアント!」(※フランス語で「またね」の意味)と言いながら特大投げキッスをして逃げるシーンがあるが、あれを正面から浴びたら、確かにホームズのように膝から崩れ落ちてしまいそうだ。ああいうキザな仕草を照れも迷いもなく真正面からやって、しかもそれを全く嫌味なくカッコよく決められるのは、まさに宝塚男役の真骨頂なのだろうなと思う。ホームズだけじゃなく、客席に向かっても「アビアント!」を投げてほしいところだ。

 

黒羽麻璃央×立石俊樹×ボーマニャン
 この作品には、主演のルパンやカリオストロ伯爵夫人のほか、魅力的な人物が多数登場する。その1人がボーマニャンだ。黒羽麻璃央さんと立石俊樹さんのWキャストで、私は幸運にも両方を見る機会に恵まれた。昨年見たエリザベートでそれぞれルキーニとルドルフ皇太子を演じていたお二人が、今回はWキャストで登場していて、今後の飛躍が期待されるキャスティングだった。
 ボーマニャンは何か一物ありそうな雰囲気で登場し、実際に影の黒幕的な悪役だったわけだが、終盤にかけて見せ場の多い役どころだった。特に、みんな大好き「俺はルシファー」!舞台の背面に巨大な鷲の飾りが登場し、その前で少し目の色が狂い始めたボーマニャンが「お~れ~はルシファー!神に見放された~!地上に落ちた堕天使~~!」とソロで歌うシーン(歌詞はうろ覚えです)。ドーブ・アチア感満載のロックバリバリの楽曲で、かつ歌詞にルシファーなどが登場するので、何だか中二病感溢れる曲なのだが、とんでもなく中毒性が高い。このグルーブに圧倒されていると、後ろに飾られた鷲の飾りが、なぜか両目だけピカーっと赤色に光り始める。なぜ鷲の目が赤く光る必要があるのか、最後まで全くよく分からない。私は肩を震わせて忍び笑いをしていたが、周囲でもクククと声を出して笑っている人もいた。いや、本心は、ボーマニャンのかっこいい「俺はルシファー」を堪能したいのだが、どうしても鷲の赤い目が気になってしまうので、本当にあれは罪な存在だった。
 ボーマニャンのもう一つの大きな見せ場は最後のルパンとの殺陣。奇岩城で剣を使って戦うわけだが、これはかなり見ごたえがあった。特に黒羽さんの殺陣の動きがめちゃくちゃ速くて、しかも大きく振りかぶって素早く斬りつけるので、怪我をするのではないかとハラハラするほど迫力満点だった。岩のセットがぐるぐる回る中、階段を上って殺陣を繰り広げるので、役者さんの身体能力はすごいなと感心しきりだった。
 立石さんはルドルフの時は、弱くて繊細な皇太子の役だったこともあり、母性本能をくすぐる儚げな美形男子だったが、今回は打って変わってかなりの悪役。美しい人が悪に染まる姿はゾッとするほど美しかった。役者さんの振り幅の大きさには舌を巻く。
 観劇後ずっと頭の中を「おーれーはルシファー!」が回り続けた。立石さんも黒羽さんも、もし今後ミュージカルコンサートなどに出演する機会があれば、これをずっと持ち歌として歌えるんだろうと思うと、それは実にオイシイのではないかと思うし、是非とも聴いてみたい。


帝国劇場×タカラヅカ
 初めてルパンを観劇し終わった後の感想は「これはタカラヅカか?!」だった。恐らく多くの人がそう感じたと思う。小池修一郎演出、柚希礼音・真風涼帆・真彩希帆出演と、宝塚にゆかりのある人たちが多く参加しているからというのももちろんあるが、それよりも全般の作りが宝塚的なのだ。
 宝塚とそれ以外のミュージカルとで何が違うのか。女性が男役を演じるとか、トップや二番手などの番手制があるなどという違いはもちろんあるが、作品や演出の違いという点に特化して言うと、宝塚の方がよりショー的な要素が強いと思っている。もちろんストーリーに沿って進行するのだが、男役をより男性的に、娘役をより女性的に見せ、舞台美術や振り付け等も華やかだ。また、「宝塚の様式美」という言葉に象徴されるように、一つ一つの仕草や振り付け等も指の先まで見え方を意識しているかのような、とことん美を追求した世界観だと感じる。
舞台鑑賞は非日常の世界に没入する娯楽だと思うが、他のジャンルと比較しても宝塚はその度合いが強く、夢の世界に入り込んだような世界観を見せていると思う。ルパンを通して感じるのは、一つのシーンにおける見せ方にこだわった美しさを感じることと、古川雄大さんや柚希礼音さんを始めとするプリンシパル役者をとことんカッコよく美しく見せる作りこみ。ストーリーはところどころ飛躍するところもあるのだが、そんなことはどうでもよいと感じるほど心奪われる華やかな世界観。最後は既視感あるように思うが、胸のすく痛快なハッピーエンディングで、年末の年忘れにピッタリ(年始のお正月気分にもピッタリ)のハッピーミュージカルだった。
 普段宝塚を中心に見ている知人がいるので、是非とも見てほしいとおススメしたところ、案の定ぴったりハマったようで、とても楽しんでくれた。いずれ宝塚でも上演されるのではないかと期待している。先ほども書いたが、宝塚の男役の皆さんは、ウインクとか投げキッスとか、マント捌きや踊りのポーズなど、照れも恥ずかしげもなくキメっキメに決めてくれるので、一つ一つの見せ場でさらに魅惑的に演じてくれそうだ。
 グランドミュージカルと宝塚とで少し作品の傾向が違い、客層が求めるものも違うような気がしていたが、こういった作品を橋渡しにして双方の良いとこ取りをしながら、ミュージカルが新しい時代に入っていくのかもしれないと思った。もしそうなるならば、のちの時代に転換期と語られる時期の作品をちょうど今見ているのかもしれない。貴重な時代を生きる者として、今後もせっせと劇場に通うことにしたい(と言って自分の劇場通いを正当化しておく)。2023年も残りわずかとなった。コロナ禍からの解放とともに、多忙でストレスの多い日常を過ごしている人も多いと思うが、こういう突き抜けた非日常のエンターテインメント作品が疲れを思い切り吹き飛ばし、明日へのパワーを与えてくれるとつくづく感じた。

③ ランスロット×グィネヴィア×ガウェイン

「キングアーサー」の考察第3弾です。
(ネタバレご注意ください。第1弾、第2弾はこちらからどうぞ。

キングアーサー① アーサー×浦井健治 - えとりんご

キングアーサー② メレアガン×モルガン×ダンダリ - えとりんご

ランスロット
 これはもういわゆる美味しい役。容姿に恵まれ、剣術にも秀で、忠誠心から王の覚えもめでたく、非の打ちどころのない人物でありながら、道ならぬ恋に捕らわれ、忠誠心と愛との葛藤を見せる騎士。これは嫌いな人はいないやつですね、はい。倫理的に是か非かと言われれば非だが、その非はなぜかグィネヴィアに向きがちで、ランスロットは肩を持ちたくなってしまうから不思議だ。
 太田基裕さん演じるランスロットは、登場の瞬間から見目麗しく、真っ白な衣装とマントが似合う正統派王子様だった。出会いがやや淡白なので、道ならぬ道に踏み入ってしまう説得力に欠ける部分があるが、気づいたときには戻れない深みにはまってしまった様子はよく表れていて、美しい眉根を寄せて「これは愛ではないと 心を欺いて」と狂おしく歌う表情はとても切なかった。
 平間壮一さんは情感たっぷりの演技が見事だった。花嫁衣裳の支度をするグィネヴィアに伸ばす手が切なく、また婚礼の式でアーサーとグィネヴィアが誓い合った後、「その誓いの…証人となります」という台詞があるが、「その誓いの」のあとの間がたまらなく切なかった。時間にすればわずか1秒ほどだと思うが、深い葛藤が詰まった1秒だった。
 私は正統派王子様系が好みなわけではないが、理性と愛の葛藤にもがきながら、溢れ出る感情の爆発が大変に好みなので、ランスロットの苦悩はとても良かった。最後の「愛とはなんて愚かなもの…」の歌詞が刺さる。確かに、なんて愚かなものなんだろう。理性で考えれば全く無謀で、どう考えても踏み出してはいけない茨の道だった。だが、そんな理性で抑えられるなら初めから抑えていたわけで、抑えきれない衝動に駆られるからこそ、愛がこれほどまでに愚かで、そして美しく尊いのだろう。

 というわけで、ランスロットの哀愁はとても良かった。欲を言えば、2人がフォーリンラブに至る過程をもう少し細かく描いてほしい気はした。許されない愛と知りながら落ちてしまう必然性がもっとあれば、二人の苦悩にもっともっと共感できただろう。また、ランスロットとアーサーの信頼関係についても、もう少しエピソードが欲しかったなとは思う。アーサーを絶対に裏切る訳にはいかない恩義があるうえで、その忠誠心と王妃への愛との狭間で葛藤に悶え苦しむランスロットが見たい笑

 

グィネヴィア
 アーサー王伝説を原作とする物語に難点があるとすれば、グィネヴィアに感情移入しづらい点だろう。様々な男性に愛されるのはいいのだが、アーサーを運命の相手と感じたのも束の間、ランスロットのことが頭を離れないという展開に、なかなか観客はついていけない。とはいえ、原作のあらすじはいかんともしがたいので、なるべくグィネヴィアを非難しすぎず、彼女の心情に寄り添って考察してみたい。
 まぁね、アーサーとランスロットとついでにメレアガンという各タイプの最強男子が次々現れ、どいつもこいつも求愛してきたら、う~ん選べない~となる気持ちも分からんでもない。だがしかし、アーサーはブリテン王国の王であり、自分は王妃であることを考えれば、ランスロットに心が揺れることは許されず、しかもそれを堂々と発信するのは色々問題があるよねと。初対面の場面で歌う「どうしたの~この心は~ この気持ちは何なの~」(歌詞うろ覚えです)には、客席からずり落ちそうになった笑 いやいや待て待て、それはいかに何でもチョロすぎるやろ!え、今の数分にそんな落っこちる要素ありましたっけ?! 更にランスロットが旅立つ場面、最も切ないシーンではあるのだが、ランスロットが思いを口にしてはいけない、もう目を合わせてはいけないと必死に気持ちを押し殺そうとしている中でのグィネヴィアの台詞、「私の心が聞きたがっています!あなたの魂が言いたがっているその言葉を」。以前、とある作品でキャストさんが「告白しやすい雰囲気を作る女性は怖いと思ってしまう」という考察を書かれていてめちゃくちゃ笑った記憶があるのだが、これもまさにそうで、言ってはいけない言葉を敢えて言わせるグィネヴィアに無自覚の魔性の女感を感じてしまうが、煽られて思いを伝えてしまうランスロットが何とも真っすぐで青くて若いよねと。 …いかんいかん、非難ではなく、彼女の気持ちを理解しようというのがこの考察の趣旨だった笑
 まぁメレアガンは仕方ない。家が決めた婚約者であってグィネヴィアの気持ちは尊重されていなかったのだろう。アーサーは、自分を危機から救い出してくれたヒーローであり、おとぎ話のように偶然舞い降りた王だったわけだ。それこそ夢に聞かされていたシンデレラストーリーなわけで、ましてや王が悪い人間でもなく、何の落ち度もないので、その平和で穏やかな道のりが愛であり幸せだと信じて疑わなかったことだろう。しかし、そこに踏み込んできたのがランスロット。アーサーへの穏やかな感情とはまるで正反対の、抑えてもこみあげる衝動に戸惑ってしまっている。愛は理屈ではないわけで、この人を愛さなければと思っている時点でその愛は本物ではないし、「これは愛ではないと 心を欺いて」自分の気持ちを押さえつけている時点でその愛に溺れているわけで。グィネヴィアにとっても男性達にとっても不幸だったのは、出会う順番が逆になってしまったことだ。
 グィネヴィアは裁判で「私をお許しにならないで下さい」と言う。ある意味では最もはっきりとランスロットへの愛を告白している言葉だと感じた。これを正面から聞かされるアーサーの切なさよ…。
 グィネヴィアはあの後どう生きていくのだろうか。生涯にわたって自分の犯した罪を背負い、アーサーの寛大な慈悲に感謝し、そしてランスロットへの永遠の愛を胸に、静かに懺悔の日々を過ごすのだろうか。「こ~んなに美しいのに、守ってくれる騎士がいないとでもお思い?」という声が聞こえてきそうだし、実際に騎士に志願する者はあの後も沢山現れそうだが、さすがのグィネヴィアももう誰も選ばないだろう。誰かと結ばれることだけが幸せではない、というのは現代の感性であって、当時の感性では一人老いていくことはやはり相当の社会的制裁であっただろうから、火あぶりの刑は免れたものの、国から追放され、結婚を事実上断たれるのは過酷な人生と言えるだろう。因果応報、前世からの因業といったものが根底に強く流れているストーリーの中で考えると、グィネヴィアが象徴的に背負わされている運命は重い。キリスト教で言うところの原罪に通じるものがあって、人間誰しもが持つ浅はかな弱さを感じ、非難の手を降ろしてどこか同情したくなるような、そんな思いを抱いた。

 

ガウェイン

 今回、キングアーサーダービーがあったとしたら(そんなものはない)、大穴万馬券となったのは間違いなくガウェインだろう。プリンシパルとして役名はあるものの、あらすじを見てもどのような役柄か分からなかった。この作品は、全体のストーリー展開はもちろん、殺陣やアクロバティックダンスやメレアガンの闇落ちメイクやらと見るものが多すぎて観客は非常に忙しい。その中でなぜか強烈に目を奪われる存在、それがガウェインだった。劇場内でもSNSでも、連日その名が話題に上っていた。ガウェインの役どころのせいか、演じる小林亮太さんの演技力か分からないが、百戦錬磨のミュージカルファンの心を鷲掴みにしてなぎ倒していく様はなかなかお目にかかれない痛快な光景だった。あれだけのダンスや歌がある中で、ガウェインは歌うわけでも派手に踊るわけでもない。華麗な殺陣は見せるが、むしろ王のそばでじっと控えていることの方が多く、ニコリとも笑わない。にも関わらず、あれだけの存在感を出せるのはどうしてなのだろう。 多くの人が「どうしたの~この心は~。この気持ちは何なの~。あぁグィネヴィア様、先ほどの失言はお許し下さい!」みたいな気持ちになったに違いない笑笑
 ガウェインは円卓の騎士の一人であるが、アーサーがエクスカリバーを引き抜く前から、騎士の戦いを取り仕切っていて、アーサー王誕生後も筆頭の騎士のような立場のようだった。目ヂカラが強く、アーサーに対して王としての資質を見極める目、グィネヴィアやランスロットに向ける目は常に鋭い。ミュージカルでは、内に秘めた心情を楽曲に乗せて盛大に吐露するのが醍醐味なわけだが、ガウェインは1曲も歌わないので、その胸の内は一切分からない。だからこそ、ついつい彼の視線や仕草の意味に思いをめぐらせてしまった。
 まず冒頭で、王になりたてのアーサーに対して剣術の手合わせをするのだが、殺陣が華麗で、その凛とした姿勢や絶妙な間合いにも惹きつけられる。続く台詞はやや意味ありげで、「我々はエクスカリバーの選択に従います」「どんな肩書であれ、その肩書に見合うためには努力が必要です」。まだ、王としての資質を見極めている途中のように思えるが、王への忠誠心は持ち合わせており、出陣を命じられれば即座に部下に命を出す。
 グィネヴィアやランスロットとの初対面の場では少し警戒心が見える。特にランスロットがアーサーの騎士を志願する場面では、王妃と知らずに軽率な発言をしたことを受けて、アーサーがグィネヴィアに「それで君は何と答えたんだ?」と尋ねる場面があるが、その時のガウェインは姿勢は崩さずに、そっと剣に右手をかける。答え方いかんでは切りかかる用意をしているということか。
 また、聖杯を探す役目を指名する場面、王が「最も勇敢で正直な騎士のみが聖杯を見つけ出すことができる。ランスロット!自信はあるか?」と聞くのだが、その時ガウェインはそっと目を閉じる。アーサーの信頼を得ているのは自分だと思っていたのだろうか。ランスロットが任命されたことが腑に落ちていないのかもしれない。
 このように、ガウェインの視線や手の動きには様々な感情が見える。ただ、それを表に出すことはあまりなく、与えられた役割を過不足なく全うしている。

 ガウェインがこれほどまでに多くの人の印象に残る理由はまだ明確に分からずにいるが、一言で言うと「騎士道精神」だと感じている。心中は色々な思いがありそうだが、忠実な臣下としての誇りと自負が見えるのが非常によかった。本人にまつわるエピソードが一切ないので生い立ちや背景は分からないが、醸し出す雰囲気から、常に信念を貫き通す硬派な印象があり、ストイックな鍛錬からくる確かな剣術、王への忠誠心、曲がったことを是としない正義感といったものを感じ取れた。そう考えてみると、この作品の他の主要人物は皆どこか揺らぎがある。闇に落ちるダンダリ団、背徳の愛を選ぶグィネヴィアとランスロット、全ての元凶のように思えるマーリン、アーサーは何も悪くないが成長する過程で終始迷いの最中にある。唯一ぶれずに一本気を通しているのがガウェインだと言える。騎士道精神、信念の男…、こういったものが放つ気高さは今もなお、いやもしかするとこのような時代だからこそ、人を惹きつける稀少な価値があるんだろうなと感じた。
 そしてさらに感じたのは、ガウェインが忠誠を誓っている相手は必ずしもアーサーではなく、ブリテン王国であり、エクスカリバーであり、神なのだということ。だからこそ、ぶれることのない崇高な信念を感じる。冒頭では、エクスカリバーの選択に従うと誓っているものの、まだアーサーの資質を信じ切ってはいなさそうだ。そこから鋭い観察を通して、アーサーの1人の民をもないがしろにしない姿勢、自ら戦地に赴く勇気、円卓の騎士を集めてより良き国づくりを目指す理念(絶対君主的な政治ではなく合議制を目指すという画期的な政治体制だったのだと理解している)に触れながら、ガウェインの中ではブリテン王国への忠誠とアーサーへの忠誠が徐々に一体化していったのだろう。最後の場面において、ガウェインは信頼を裏切った王妃とランスロットを糾弾しており、焼き殺すべきだという最も厳しい進言をしている。ブリテン王国への忠誠を第一と考えるガウェインにとっては、許すまじき背徳行為だったのだろう。しかし、アーサーに諫められ、王の決意に満ちた演説を神妙に聞くガウェイン。演説の後、いつものように「ビベレ ロイ アーサー!!」の声を発するのだが、その最後の一声はそれまでよりさらに魂がこもっていた。ガウェインの中で、ブリテン王国への忠誠とアーサーへの忠誠が完全に一致し、二人の信頼関係が強固なものとなったことが感じられて、とても胸が熱くなった。

 今回、この「キングアーサー」が非常に良かったので、「アーサー王伝説」の原作も読んでみたいと思い至り、まずは人物の相関図から眺めてみた。すると、ガウェインはアーサーの甥とあり、異父姉モルガンの息子と書かれていた。 ?!?! そうだったのか??確かに本作のPVでも「アーサーの甥ガウェイン」と紹介されている。それはまた、業を感じる生い立ちではある。原作では、更にランスロットとの関係など、興味深い展開が続くようなので、少しずつ読み進めてみたい。
 また、本作においては、錚々たる豪華俳優陣の中で一際存在感を放つ演技を見せてくれた小林亮太さんに盛大な拍手を送りたい。今後の活躍が楽しみな俳優さんに出会えたことに感謝している。

 

おわりに

 ここでは書ききれなかったが、石川禅さんのマーリンもさすが安定の演技で、東山光明さんのケイもコミックリリーフを軽やかに演じていて素晴らしかった。そして、忘れてはいけないのはオオカミとシカの名演技。舞台で神話のファンタジーの世界観を出すのは非常に難しいと思うが、動きが動物の特徴を捉えていてだんだん守護神のような神聖な存在に見えてきた。特に1幕の玉座で二人(二匹?)でしなやかに舞を披露する場面や、2幕でアーサーを導くように塔の上に登って雄々しく見下ろす場面が印象的で、またオオカミがエクスカリバーを背中のさやに自分で入れる動きがとてもかっこよかった。

 3回にわたって大変アツく語ってしまった。まだしばらくキングアーサーロスと戦う日々が続くだろう。また近いうちに再演で出会えることを今から楽しみにしている。素晴らしい作品を有難うございました。

 

**
 なお、これは全くの余談だが、数年前、我が子と世界史の勉強をしている中で偶然見つけたサイトに、アーサー王伝説を紹介する講義録があった。当時は私もアーサー王について何も知らなかったが、強烈に印象に残る話だった。今改めて読むと、アーサーやガウェインが浦井さんや小林さんで再生されて、ますます親近感を持って読めた。私の拙い長文ブログをここまで読んで下さった方であれば、きっとお気に召していただける話ではないかと思うので是非紹介したい。「キングアーサー」のネタバレには全くならないが、「アーサー王伝説」の一部ネタバレにはなるので、その点ご留意いただいた上で興味ある方はどうぞ→ 最初の授業


<関連レポ>

キングアーサー① アーサー×浦井健治 - えとりんご

キングアーサー② メレアガン×モルガン×ダンダリ - えとりんご 

キングアーサー② メレアガン×モルガン×ダンダリ

「キングアーサー」の考察第2弾。前回(キングアーサー① アーサー×浦井健治 - えとりんご)に続いて、メレアガン&モルガン編です。

(ネタバレご注意ください。なお、観劇した回のメレアガン配役は伊礼彼方さん1回、加藤和樹さん4回のため、加藤和樹さんの印象が強めのレポになっています。)

 

メレアガン

最強の騎士メレアガン

 最強の騎士メレアガン… しかし我々は、冒頭の数分間を除いて、彼の最強の勇姿を見る機会はほぼなく、負けてボロボロになっていく姿を見るのみだった。それでもほとばしる色気と狂気に非常に惹きつけられた。恐らくは純粋に剣術を磨き、強さを追求してきたのだろう。実力で言っても人望で言っても、王になるのは自分がふさわしいと思っていたに違いない。元々は武力で全てを駆逐しようといった暴君ぶりが見えるわけでもないので、実際に王になれば、国や民のことを考える聖人君主になれたのではないか。
 そもそも、メレアガンは悪役の位置づけではあるが、前半の彼の主張はもっともなことでもあって、騎士の戦いに優勝した者がエクスカリバーを引き抜く資格を与えられるとされていて、その戦いに優勝したからこそ剣に触れられたのだ。それを、戦いに勝ってもいない、ましてや騎士でもない、ぽっと出の男がやってきて、運命だと言われながらエクスカリバーを引き抜いてしまうのだから、メレアガン目線で見るとそりゃあ理不尽なことこの上ない!しかも誰もその理不尽さに言及する者はなく、皆エクスカリバーの選択に従い、アーサーを王だと崇めているので、メレアガンは怒りに震えている。歌詞にもあるが、プライドが砕かれた悔しさがひしひしと伝わってきた。その心の穴に付け入ってきたモルガンにうまく転がされて、どんどん闇に引きずり込まれてしまうメレアガン。人間の弱さや悪に転落するときの心理を垣間見るようだった。
 特に2幕でアーサー達がサクソン人を制圧した後にメレアガンが歌う歌が悲しい。こちらの背筋がビビーンと伸びるほどの超音波高音を披露するメレアガン。(伊礼さんも加藤さんもどこからあんな高音出るのでしょうね。千秋楽でも掠れることなく歌い上げていて驚愕でした。)モルガンにその憎しみを解き放つよう誘われ、徐々に闇の世界に飲み込まれてしまう。曲の構成と芝居歌が素晴らしく、高音が悲しみを表現し、低音が怒りや恨みを表現しているようだった。冒頭の「二度と~~」と歌う高音は魂の叫びのような嘆きの咆哮にも聞こえ、地を這うようにうずくまるメレアガン。そこから、モルガンの手にからめ取られて顔を上げた瞬間、恨みに目が据わっていき、口元には不穏な笑みを浮かべ、フレーズごとに音程も少しずつ下がっていく。最後の「残らなくても構わない!!」はドスの効いた低音で、地中から響くシャウトのような声だった。メレアガンの中に何かが誕生してしまった瞬間だった。
 その後、更に完全に闇に落ちたメレアガンは、もはや何が正しくて何をしたいのか見失っているように見えた。本来、国王になったならば国のため民のため何をするべきかを考えなくてはならないし、グィネヴィアと結婚したいならば愛と幸福を考えなくてはならない。しかし、メレアガンが求めているのはそういった本質的なことではなく、国王、エクスカリバー、妻といった外形的なものになってしまっているようだった。冒頭の騎士の戦いの時には、破ったレオデグランス公に対して、剣を手渡しで返して礼をしていたメレアガンが、最後の戦いでは決着がついた後に短刀で切りつけるという行為に出ており、最も大切にしていたはずの騎士としての魂までも悪魔に売ってしまったのかと思うとやるせない気持ちでいっぱいだった。

 メレアガンは可哀想でならないのだが、ただ、ことグィネヴィアへの愛に関して言えば、どうなのだろう。メレアガンはグィネヴィアが自分の婚約者だと言い続けているが、グィネヴィアの揺れ動く乙女心の中にメレアガンに揺れる要素が微塵もないのが哀れだった。グィネヴィアとアーサーとランスロットの間で燃えるような三角関係を争っている隣で、一人外野で無関係に何か叫んでいるメレアガン…みたいな可哀想な構図が浮かんでちょっと切なくなった。
 しかし、そうなる理由は、メレアガンのグィネヴィアへの気持ちが本当に愛と呼べるのかという点にある。グィネヴィアも口にしているとおり、それは愛ではなくて支配欲ではないのかと。グィネヴィアを大切にしたいとか愛し合いたいといった感情があったのだろうか。妻という勲章がほしいだけ、しかも憎むべきアーサーに取られたから奪い返したいというライバル心で執着しているだけなのではないか。強引に迫れば迫るほど、相手が心を閉ざしてしまう悪循環に気付いておくれ…。物理的な強さだけが強さじゃない。奪うだけが愛じゃない。力でねじ伏せることは強さでも愛でもない。生まれ変わったら、愛を与え合い、双方向に感情を通わせ合えるような人に出会ってほしい。メレアガン、もう戦わなくていいよ…安らかに眠れ…

メレアガン×アーサー

 前回のアーサー編でも書いたが、自分が大切にしていたもの、信じていたものを理不尽に奪われ、自尊心を傷つけられたという点では、アーサーもメレアガンも同じだ。もっと言うとモルガンも同じだ。
 失ったものへの愛や信頼が深ければ深いほど、悲しみも怒りも大きい。それを失った時、憎しみに塗れて闇に落ちていったメレアガンとモルガン。闇には落ちず、悲しみを飲み込んで生き抜くアーサー。この対比がとても良かった。

 人が極度の悲しみに直面した時(例えば不治の病の告知や愛する人との死別)、その喪失の心理状態はいくつかの段階を辿るという。
 否認、怒り、取引…
 「何かの間違いだ」「こんなことが起こるはずがない」という否認、「なぜ自分だけがこんな目に遭わないといけないのか」「この元凶をもたらしたやつを許さない」という不当感からくる怒り、「元に戻してくれるなら何でもする」「せめて○○だけでも」とすがりつく取引…。メレアガンを見ていると、見事にこのプロセスを辿っていて、そして無限にループを続けている。普通なら無力感からどこかで諦めがつくかもしれないが、なまじ最強の騎士であるだけに、力技で元に戻す選択肢をとれるのが不幸だったのかもしれない。どんな手を使ってでも、自分が信じていた「あるべき世界」に戻すのだと。光の世界を目指した結果、どんどん闇の世界に沈んでいくのが哀しかった。

 ところで、先ほどの喪失のプロセスにはまだ続きがある。
 否認、怒り、取引、抑うつ、受容。
 悲しみが避けられないことを悟り、無力感や喪失感に陥る抑うつ。そしてその先にあるのが受容。取り戻せない悲しい事実を受け入れ、新しい現実と共に生きることを決意するということ。
 アーサーは、否認、怒り、取引の無限ループから脱出して、この受容のプロセスに辿り着くことができた。それは決して簡単なものではない。愛や希望が大きければ大きいほど時間がかかる。だが、アーサーが声なき慟哭を見せた後に静かに立ち上がる時、表情も目の色も変わっていくのが印象的だった。個としてのアーサーの光は消えたままかもしれないけれど、王としてのアーサーは闇には落ちない。運命の名の下に悲しみを受け入れることができて、運命の名の下に自分がなすべき道を見定めることができたのだろう。
 メレアガンにはもう少し時間が必要だったのかもしれない。時間が悲しみを癒す前に、自分の強い武力とモルガンの魔の手に絡め取られてしまった。もし、どん底まで落ちて深い悲しみを知った上で、もう一度正義の心で立ち上がるメレアガンがいたとしたら、それこそまさしく最強の騎士としてアーサー王ブリテン王国を守る騎士として生まれ変われただろう。そう思うと、運命の無慈悲さに涙を禁じ得ない。メレアガンが振り絞って歌う絶命の歌、「俺は必ず帰ってくる」…どこかにそういう未来があることを信じたい。

 

モルガン

 モルガンはこの物語においてとても重要な人物である。この作品はもちろんアーサー王の成長物語だが、見方を変えるとモルガンの物語とも言える。彼女の負のエネルギーが物語を動かしている。アーサーの出生に絡む重大な秘密を知っていて、その秘密に長く傷つけられ、その復讐のために人生の全てを捧げているモルガン。いわゆるヴィラン系の悪役とも言えるが、そのような人生を辿ってしまった経緯が辛く、憎み切れない魔の魅力を持っていた。
 モルガンを演じるのは元宝塚トップスターの安蘭けいさん(愛称とうこさん)。個人的にはお初にお目にかかったのだが、なにしろ、とうこさんが放つオーラが圧巻で、さすが元宝塚トップ!と唸るほどの歌唱力と場の支配力だった。1幕後半まで出てこないのだが、語り部として登場してきた時のアクの強さは場内の空気を変え、その後のモルガン軍を従えた曲は、とうこさんの単独ライブが始まったのかと思うほどの圧倒的オーラだった。ああいったオーラはどこから生まれるのだろうか。歩き方、振り向き方、肩や腰の入れ方、目線の飛ばし方、目線の残し方、一つ一つの仕草に魅了されて、うっかりダンダリ団の一味に引き込まれそうだった笑
 モルガンが全てを狂わせているので、悪役感満載なのだが、そもそもの元凶となっている少女時代の傷を思うといたたまれない。原作の伝説とどれほど一致しているのか分からないのだが、モルガンの傷は、現代であればPTSDと診断されるのではないだろうか。神話時代にはない概念だろうが、しかるべきケアを施してあげた方がいいと思った。残念ながら神話時代にそんな体制はないので、トラウマを抱えたまま大人になり、復讐の権化と化してしまっている。
 開幕前の予想に大きく反して、モルガンは大ナンバーをいくつも歌う。稽古場動画の時から評判だったダンダリも一度聞けば耳から離れないし、語り部の歌、子守唄、どれもうっとりするほどの美声だったが、私が一番好きなのは結婚式の曲だ。アーサーとグィネヴィアの結婚式が厳かに始まったかと思うと、辺りが真っ暗になってモルガンの歌が始まる。あまりの美声に聞きほれてしまうし、結婚式で是非歌ってほしいと思うほどのヒーリングミュージックだったが、よく聞くと憎しみと恨みに満ちた歌詞なので結婚式では決して歌ってはいけない歌だった。そしてその憎しみの中には果てしない哀しみが見えた。

 苦しみが無邪気さを殺し
 夢見る心砕き
 誰も信じられない
 気づけば愛する心さえなくしてた
 一人で闇を生きる
 それが私

 愛と憎しみの絶対値は同じでプラスとマイナスの符号が反対なだけ。モルガンの母親への愛、父親への愛、それまでの平和な日常への愛。それがとても大きかっただけに、失った時の憎しみも同じ大きさになってしまったのだろう。とても辛くて切ない。

 復讐だけを生きがいとし、夢見たとおりの復讐をちゃくちゃくと果たすモルガン。けれどもモルガンの物語の最後にもたらされたのは、まさかのアーサーの慈悲だった。お腹のモルドレッドに向けられたアーサーの子守唄に動揺し、アーサーからの愛ある言葉と抱擁に初めて表情が柔らかくなる。場内もシーンと静まり返るあの場面が本当に大好きだった。アーサーの包容力にも心動かされるし、モルガンの表情の変化も素晴らしい。アーサーに抱きしめられたモルガンの瞳が涙で潤み、般若のような表情が少しだけ穏やかになり、固く結んでいた心がほぐれるかのように両手がアーサーの背中を掴み…そうになるところで、モルガンが最後の力を振り絞って振り払う。アーサーを振り返るモルガン、そこでは目は合わずモルガンは去るが、その後で今度はアーサーがモルガンの後ろ姿を見送る。視線は合わないが、アーサーはモルガンの凍りついた心を少しだけ溶かすことができたのだろうか。切なく辛い中でもじんわりと温かい光景だった。もう一度結婚式の歌を思い出す。

 いつかお前を許せる日が来るのだろうか
 あの愛の眼差し
 私を見るなら…

 あぁ、モルガン…。アーサーの慈愛を胸に、どうかモルドレッドと幸せに過ごしてほしい。優しい子守唄を歌ってあげてほしい。ただ…、アーサー王伝説の原作を知っている人は、この後の展開を思うと心が抉られる思いがするだろう。「運命は複雑に絡み合っています…」そう、運命はまだ複雑に絡み合っているのだ。どうかどうかアーサーもモルガンもモルドレッドも運命を乗り越えてほしい。

 

(次回に続きます。)

 

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