えとりんご

観劇の記録。ネタバレご注意を。この橋の向こうにジャコブ通り。

オーファンズ③ ハロルド×村井良大

オーファンズ感想第3弾です。

ネタバレ注意です。

1→ オーファンズ① フィリップ×本島純政 - えとりんご

2→ オーファンズ② トリート×山時聡真 - えとりんご

 

ハロルド×村井良大

 正直なところ、今回のブログは②で終わりにしようと思っていた。なぜなら、公演期間中、私の中でハロルドについて咀嚼しきれていない部分が多く、感想としてまとめ切れないなと思っていたからだ。千穐楽後に徐々に理解が深まってきた。個人の感想なので、全く違った解釈かもしれないが、何卒ご容赦いただきたい。

 

善人か悪人か

 初回の感想としてはこれに尽きる。「父性」という言葉をちらっと見かけたので、愛のある人物なのだろうと予想しながら見たが、登場から胡散臭さは否めないし、危ない橋を渡っていそうだし、夜の散歩の場面ですら、まさかこのままフィリップを連れ去ってしまったらどうしよう・・という不安もなくはなかった。なので、ハロルドの愛情をちゃんと受け止められたのは2回目以降だった。一度きりの観劇の人も多いと思うので、皆さんがどのようにハロルドの愛の深さを実感できたのか、気になるところではある。

 

父性

 ハロルドで考えさせられるのは「父性」。これに対する言葉はもちろん「母性」。子供を導くという意味では同じだが、父性と母性はどう違うのか、改めて考え込んでしまった。

 最近は男女平等が叫ばれ、家事や仕事のみならず育児の領域においても夫婦の分担の平準化が実現しつつあるので、父性と母性というものが変化していると感じる。何が変化しているかというと、従来は本能的にも社会の役割的にも、男親が父性を担い、女親が母性を担っていて、文字通りの役割分担となっていたのだが、現在は、父母ともに父性と母性の両方を少しずつ分担して担うようになっているのではないかということだ。

 そもそも、父性と母性とは何だったのか。

 端的に言えば、母性は愛情を注ぎ、守り育てる役割であり、父性は社会性を養い、挑戦を促し、自立へと導く役割だと思う。振り返れば安心して戻れる基地(母性)があるからこそ、崖から突き落とすような果敢な挑戦を経験させ、自ら這い上がる力を養うことができる(父性)。変化していると言ったが、担うのが父親か母親か二人ともかが変わっているだけであって、子供を育てるにあたって、両方の要素が必要であることは変わらない。

 ハロルドが担っているもの。それはもちろん父性だが、根底に母性もある。特にフィリップに対しては、慈愛に満ちた温もりを教えている。そのうえで、マナーや身だしなみを教え、外の世界が危険ではないこと、一人で外出するために必要な情報として、地下鉄の乗り方や地図の読み方、地図の入手方法を教える。

 トリートに対しては、ボディガードという仕事を通して社会との接点を作り、少々危険を経験しながらも、世の中での立ち振る舞い方、経済の仕組みを教える。そして、トリートが抱える特有の問題行動についても根気よく指導してみせる。それはアンガーマネジメントだ。トリートがすぐにカッとなって暴力に訴えてしまう性質を見抜き、その暴力を正当化しようとする彼なりの論理を、一つずつ諭していく。

 

教育

 父性とも連動するのだが、ハロルドの兄弟たちへの接し方を見ると、教育のあり方を考えさせられる。教育とは、答えを教えることではなく、考え方を教えることなのだと。ただ手を引くだけでも目的地に到着することができるが、地図を渡し、地下鉄の乗り方を教えれば、どの目的地にも自由に行けるようになる。カッとなって情動的に行動するのではなく、自分の行動がその後どのような影響を与えるか考える習慣をつけることによって、理性で考えることができる。

 まさに、知は力なり。

 と口で言うのは簡単だが・・、よくよく考えてみると、冒頭の壊滅的な状態の兄弟を見て、標準レベルに引き上げることができると思えるだろうか。2人ともどこから手を付けていいか分からないほど、基礎的な素養が欠落しているではないか。報酬を出すと言われても、教育係を務めるのは至難の業だ。それを、誰に頼まれたわけでもないのに、面倒を見て金銭的な援助もする。みるみるうちに二人とも成長していく。・・一体、このハロルドという人物は何者なんだ??

 

 ハロルドの思い

 ハロルドがこの兄弟の家にやってきたのは、ただの酔っぱらった挙句の偶然だ。なのになぜ長期間滞在したのだろうか。追手につかまりそうなことも予測しながら、なぜ街から逃亡することもせず、兄弟達の家に居座り続けたのだろうか。結末を知ったうえで見直してみると、身代金目的でトリートはハロルドの関係者達に電話をかけている。急にスーツを着るなど、羽振りが良くなっているし、バスの乗客とトラブルを起こすなど、目立った行動もしているので、不審がられてトリートもハロルドも居場所を特定される恐れもある。ハロルドこそ家から出ずに安全な場所に身を隠しておかなくてはならない境遇だったのではないか。なのに、フィリップと夜の散歩に出ていく。案の定、外に出てみたら後ろから後をつけられ、命を狙われてしまった。そんなことはハロルドなら予測できただろうに。なぜそんな危険を冒したのだろうか。

 孤児院で一緒だったフレッドのエピソードを思い出す。ほどほどにって言ったのに、ついわきまえず、最後の新聞まで売っちまって、寒さで肺炎になって死んでしまった。でも、でっかいドイツ人には一人で食らいついていって、そのおかげで沢山の孤児が救われた・・(ちょっと最後の話が聞き取れず、あやふやです)。あの話は何の話だったんだ?縁もゆかりもない孤児の話を死の間際まで聞かせるハロルド。兄弟たちにもう少しヒントを授けてやってほしい。

 ハロルドは孤児の悲惨な行く末を知っていた。病気、飢え、貧困・・孤児はすぐにコロッと死んじまうからな。ハロルド自身はどんな努力をしたのか分からないが、貧困から脱却し、飢えや病気の心配からは免れた。ただし、命の危険とは常に隣り合わせ。そういう危ない仕事で生計を立てるしかなかった。お金があるから幸福かと言えば、そうとも限らない。シカゴを追われて逃げ延びるうちに、どこかで命運つきることも覚悟していたのだろうか。俺の人生、どこで間違っちまったんだろう、まぁ最初から全て間違っていたんだが、と嘲笑するハロルドが思い浮かぶ。俺としては頑張ってきたよ。でもまぁ、ほどほどにしときゃ良かったのに、ちょっと欲出してほどほどを超えちまったんだな。もう残された時間は限られている。命がなけりゃ、金なんぞいくらあっても意味がない。・・なんてことを考えていたところに出会った孤児の兄弟たち。昔の自分や孤児の友達を2パターンに擬人化したような兄弟。一人は凶暴で理性のコントロールが効かない兄。もう一人は弱くて閉じこもって外の世界を知らない弟。この二人が他人と思えなくなったのだろうか。自分がでっかいドイツ人を食い止めている間に、外の自由な世界に二人を解放して、確かな未来を与えてやりたい。そう思ったのだろうか。ただし、今のまま放り出してもすぐ行き倒れてしまう。時間がまだ残されているうちに、自分で自分の未来を切り開いていける力を授けてやらなければ。マナー、知識、自立心、社会性。答えではなくアプローチを。結論ではなくヒントを。俺がでっかいドイツ人を食い止めている間に。食い止めているでっかいドイツ人・・それは孤児にしつこくまとわりつく飢え、貧困、病気、偏見、つまり不幸の集合体。

 

幻影

 物語の時間軸が不明だが、ハロルドが現れてから消えるまでほんの数週間の出来事だったのだろうと予想する。人を信じていなかった兄弟たちの前に、せっかく信用できる人間が現れたのに、またしても消えてしまった。自分たちを置いて去った父や母やそのほかの親戚友人と同じように。でも恐らくハロルドは違う。彼らの心に残ることだろう。ママとは違う意味で残るはずだ。

 例えばフィリップが赤い靴やガウンを抱きしめてママを思い出すのは、幼児期の微かな温もりや美化された母親というものに対する憧れだろう。でもハロルドは、恐らく自分の中の道しるべとして残っていくと思う。フィリップは、自信が揺らいだ時、新しい一歩を踏み出す時、自分の意見を主張しなければならない時にハロルドの言葉を思い出すだろう。トリートは、怒りがこみ上げたとき、自分の主張を飲み込んで全体を優先しなくてはならない時、振り上げた拳を降ろせなくなった時、ハロルドの「どうする?」が耳に響き渡ることだろう。

 頼るべき人が目の前にいない、という事実は同じなのだが、心の中にハロルドがいることは二人の未来を全く変えていく。常にハロルドに助言を請い、ハロルドに尋ね、正しい道を導いてもらえるのだから。

 日本とアメリカでは異なるが、日本的な考えでいくと、亡くなった人は仏様になる。つまり、これは、亡くなって仏様になったハロルドに語りかけているといったようなことだ。道を踏み外すと、ハロルドに叱られたり、裏切ったりしているような気になることだろう。守ってくれる存在でもあり、導いてくれる存在でもあり、見張られている存在でもある。神様、仏様、ハロルド様・・・。でもそういう時自分は一体誰に語りかけているのだろうか。それは、取りも直さず自分自身なのである。生きているときは、ハロルドに見られていなければバレずに済むかもしれない。でも死んでしまった相手からは隠れようもない。ハロルドは自分の心の中にいる、つまり、自分自身なのだから誤魔化しようがない。きっとあらゆる局面で、兄弟たちは自分の胸に手を置き、正しい道を尋ねるだろう。ハロルドだと思い込んでいる存在を道しるべとして。その正体は自分自身の精神なのだが、そいつがでっかいドイツ人を食い止めて正しい道に導いてくれる。食い止めているでっかいドイツ人・・それは孤児にしつこくまとわりつく飢え、貧困、病気、偏見、つまり不幸の集合体。不幸になんか負けるな。自分の知の翼を羽ばたかせて不幸を食い止めて、自分の二本の足でしっかりと乗り越えていけ!

 

 

****

 繰り返しとなるが、これは私の勝手な解釈である。恐らく、ハロルドについては一番色々な解釈ができると思う。誰しもが誰かの子供だったり親だったり指導者だったりするわけで、そのどれかの目線からハロルドを投影して見ていたり、逆にこう接すればよかったという悔恨を感じたりするのではないだろうか。私も、自分自身が子供に対してハロルドのように接してこれただろうか、とか、子供の中にハロルドはいるだろうか、などと考えてみた。自分の中に母性はあっても父性が足りない、日頃からそう痛感することは多い。私だけではないと思う。ジェンダーレスのこの時代、父母ともに父性も母性も担うとなると、父性が圧倒的に不足しがちだと日々強く感じているので、父性とは何なのかということについて改めてとても深く考えさせられた。

村井良大さん、愛情溢れるハロルドをありがとうございました!

 

 そして全3回にわたるオーファンズの感想はこれにて完結。色々な視点から考えさせられる良質な作品に出会えて、とても贅沢な気分を味わえた。音楽や舞台美術が創り出す世界観も美しく、また何度も出会いたい作品となった。長文を最後までお読みいただき、有難うございました!

 

1→ オーファンズ① フィリップ×本島純政 - えとりんご

2→ オーファンズ② トリート×山時聡真 - えとりんご

オーファンズ② トリート×山時聡真

舞台『オーファンズ』感想その②です。

①はこちらから→ オーファンズ① フィリップ×本島純政 - えとりんご

ネタバレにはご注意ください。

 

トリート×山時聡真

マヨネーズ

 ファーストインプレッションのキーワードでも書いたが、初日の観劇で登場人物3人の全ての台詞の中で最も印象に残った台詞、それは「マヨネーズ」だった。前半はフィリップに感情移入しながら見ていたが、この辺りからトリートに持ってかれ始めてしまった。

 冒頭からトリートはトゲ全開で、全身で敵意をむき出しにしている。攻撃は最大の防御なり。攻撃し続けていないと、自分を防御できない。そういった心理状態にあるのだろう。ではなぜトリートはそんなにしてまで、強く居続けないといけないのか。それは、自分がこれ以上闇に負けないため、そして、弟を守るため。フィリップが元々繊細で虚弱だったのか、トリートがそう接してきたからそうなったのかは分からない。だが、フィリップを世間の薄汚い世界に晒したくないと思っているのだろう。弟への純粋な愛でもあるし、もしかしたら弟が足手まといになって兄弟もろとも危険に晒されることを恐れているのかもしれない。そしてさらには、弱いフィリップを守る兄の役割を演じることで自分の相対的な強さを自覚できる、そういう倒錯的な承認欲求を満たしていたのかもしれない。

 小さい頃は疑わずに自分のいうことを信じていたフィリップが、だんだん自我を持ち始める。更に広い世界を見せようとするハロルドの存在がそれに拍車をかけていく。フィリップの成長に不安を感じて落ち着かなくなるトリートは、ますます抑圧的になる。

 

 だが、「マヨネーズ」。このセリフは慈愛に満ち溢れていた。もちろんトリートは今の言葉で言えば、毒親だし、モラハラDV夫だろう。俺が稼いだ金でお前は生活できているんだ。その服も食べ物も俺がいなきゃ何も手にできないんだと。高価なマヨネーズを大量に食いやがってこのお子ちゃまが。みたいな雰囲気がアリアリなのだが、だがしかし、あの日はきっとちょっとしたお金があって、しょうがねえな、アイツが欲しがっているマヨネーズでも買って帰ってやろうかと思ったんだろう。マヨネーズごときで喜びやがって、やっぱり俺がいなきゃアイツは生きていけねえよなと。そう毒づいている自分とは裏腹に、マヨネーズでジャンプして大喜びするフィリップを想像して、ニマニマしながら買ったに違いない。純粋に。喜ぶ顔が見たくて。愛に見せかけた支配。支配に見せかけた本物の愛。

 ところが、「あんまり食べたくない。もう飽きちゃった。」―――フィリップから返された言葉に呆然とするトリートが切なかった(台詞はニュアンスです)。見ているこちらも、トリートと同じくらい重い石が胸にのしかかってきた。「マヨネーズ」の響きがどの台詞よりも本当に温かったので。マヨネーズはフィリップの無邪気さ、子供性、被庇護性の象徴だった。フィリップを喜ばせられるのは自分だけ。フィリップのことなら何でも知っている。そのはずだったのに。

 

クローゼット

 終盤、トリートが家の中でフィリップを探し回るシーンがある。観客はハロルドがフィリップを夜の散歩に連れ出している事実を知っているのだが、と同時に、観客はトリートはフィリップがクローゼットの中にいると予想しているだろうと思いながら見ている。少なくとも私はそう思った。そこにいるのは分かってるんだぜ、と言いながら、勢いよく開けるものだと思っていた。ところが、なかなか開けない。この場面もだんだん切なくなってしまった。トリートは、クローゼットにいると思いながらも、もしそこにもいなかったらどうしよう・・という不安も感じているのだと思った。最後の砦であるクローゼットを開ける直前の一瞬の空白時間に覚悟が凝縮されていた。そして扉を開けた後、トリートの心が散り散りに張り裂けていくのが切なすぎて苦しかった。

 

 嘘という切り口を選んだのは、この話にはあちこちに色々な嘘が散りばめられているからだ。他愛もない嘘、優しい嘘、呪いの嘘、哀しい嘘。

 

 まずは他愛もない嘘。

 この家に誰かが住んでいると話すフィリップ。2階からディカプリオが飛び降りて逃げたなど。自分が日中にしていることをごまかすための嘘。

本を読んだり単語を調べたりしていること。赤い靴を捨てられないこと。

 

 フィリップが信じてる嘘。

 家の外はバイ菌が一杯で、変わったものを食べるとアレルギーを起こすこと。街には怖いことだらけ。夜の空気は一番危険。外の空気を吸う時は、マフラーを巻いて口や鼻をガードしないと呼吸困難になってしまう。

 これはトリートがついた嘘だ。フィリップの身を守るための優しい嘘でもある。必要な嘘だと、トリートは信じてやっていたんだろう。

でも信じきっていたフィリップから見ると呪いの嘘でもある。嘘だと知った時は衝撃だっただろうし、何のための嘘だったのか理由が分からず混乱したことだろう。ずっと兄の言葉を信じてきたのに、それは自分から自由を奪うための嘘だった・・?

一度嘘だと知ってしまったら、嘘を信じたフリを続けることは難しい。この先も呪いの嘘に囚われて生きるのかと自分に問いかけてみる。それはいつかできなくなる。嘘と対峙しなくてはならない時がいつか来る。

 

 もう一度フィリップの嘘。

 誰が本を読んだり、単語に線を引いたりしているのか。赤い靴がなぜまた家にあるのか。ディカプリオは何でこんな家に忍び込んだのか。冒頭の他愛もない嘘に似た内容なのだが、今度はトリートは執拗に問い詰める。

 子供の嘘。大人は大抵嘘だと分かっているものだ。嘘に付き合ってみたり、たしなめてみたり。でも子供に嘘をつかれるというのは、想像以上に悲しい出来事でもある。自分に対して何かを隠そうとして、裏切ろうとしているわけだから。

嘘をついてほしくない。嘘に気づきたくない。百歩譲って、嘘なのであれば自分で申告して謝ってほしい。そう祈りながら子供を追及することも多いはずだ。だから、ごまかしきれない動かぬ証拠が出てきてしまって、それでもなおシラを切られると、ブチ切れてしまう。怒り、それ以上に悲しみ。

 

 最後にわかるトリートの嘘。

 フィリップへの愛、母への愛、ハロルドへの愛。その感情は心の奥底に隠し、フィリップにもハロルドにも嘘をついてきた。

それだけではない。本当は愛されたかった。愛を素直に伝えたかった。でも自分でも認めていなかった。トリートがずっと嘘をついてきた相手、それは自分自身だったと気づく。

 

願い×呪い

 トリートを見ていると、極端にフィリップを閉じ込めて外界の情報を遮断しているように見える。特異だし、ある種の虐待のようにも思える。だが、トリートは本当に間違っているのだろうか。保護者というものは多かれ少なかれ誰しも似たところがあるのではないだろうか。子供に対して、スマホはダメ、ネットはダメ、ゲームはダメ、課金はダメ、遠出はダメ、オールはダメ、渋谷原宿歌舞伎町??ダメダメダメ、、、、

 閉じ込めて自由を奪いたいわけではない。ただ単にまだ早い、有害だから、危険だからと思っているだけ。安全と幸せを願っているだけ・・・トリートだって同じじゃないか。暴力は良くないが、根底にはフィリップを危険な目に遭わせたくないという気持ちがあるんだよな。あんなに自分は全身戦闘態勢で、いつ刺し違えてもいいぐらい血気にはやっているにも関わらず、いや、その危ない世界を知っているからこそ、フィリップを安全な場所に縛り付けている。しかも、フィリップがヤンチャ坊主ならまだしも、あの危なっかしさが一層不安を掻き立てる。

 「あの時もお前を守ったのは俺だっただろ!」「覚えてないのか!」・・ほかのタイミングで言えば、兄弟愛を感じ合えて感動的なシーンになるかもしれないが、トリートは一番言ってはいけないタイミングで言ってしまう。言えば言うほどフィリップの心は離れていく。そのすれ違いが悲しい。

 「俺たち、はぐれたらヤだろ!」「俺だってまだ子供だったんだよ!」く、苦しい。ついに出てくる本音が胸を刺す。俺たち、はぐれたらヤだろ・・・そう、イヤだったんだよな。トリートは二人ぼっちから独りぼっちになったりするのは絶対にイヤだったんだよな。だから何が何でもフィリップを危険に晒したくなかったし、自分が消えてフィリップを天涯孤独にするわけにもいかないから、鉄の鎧をまとって、向かってくる敵を力でねじ伏せていくしかなかった。

 「分かってるよ!」「覚えてるよ!」というフィリップの言葉も辛かった。フィリップだって兄が守ってくれていたのは痛いほど分かっている。自分がお兄ちゃんお兄ちゃんと頼るだけで完全に依存して生きてきた存在だったことも気づいている。でも兄のその愛情は、その願いは、時に呪いなのだ。自分は自分であって、兄の所有物じゃない。感謝と愛を痛すぎるほど分かりつつも、振り払って突き飛ばしていかないと前に進めない。二人の愛と依存とアイデンティティがぶつかり合うシーンの熱量が凄まじかった。

 

 フィリップでも「愛」というテーマを書いたが、トリートでも書いてみたい。トリートにとって愛とは何なんだろう。

 トリートは愛を信じていたのだろうか。しょっぱなからストーリーに引き込まれてしまって忘れてしまうが、ふと冷静に考えると、トリート達にも両親がいたわけで、身内や友人もいたのかもしれない。それでも廃屋で肩寄せ合って兄弟2人で住んでいるということは、どこかで愛を裏切られたわけだ。頼ろうとしても受入れてもらえず、幼いフィリップの手を引いて知人友人を転々と回るリトルトリートを思い浮かべると涙が出る。愛に裏切られた人間に、愛の与え方を語ろうとすることの何と残酷なことか。

 

 それでも敢えて考えてみる。愛には色んな形がある。男女の愛、親子の愛、兄弟愛、友情。トリートに一番必要だった愛の話は次のテーマで話すとして、ここではトリートがフィリップに与えるべき愛について考えてみる。フィリップへの愛はもちろん兄弟愛だが、関係性から言うと親子の愛にも似ている。トリートがフィリップを守り育ててきたのだから。その意味で、一部親子関係になぞらえて、トリートに私が言葉を贈るとしたら。これまた非常に残酷なのだが・・

 

 愛とは解き放つこと

 

 難しい。これほど難しいことはない。自分が守り、育て、幸せを願い、ベストではないにしてもベターを目指して一緒に生きてきた相手。でも、子供というものは守り育ててきたら、必ずいつか飛び立つ。飛び立つために育てているのだから。しかも、往々にしてそのタイミングは予想より早く訪れる。握った手を離せるだろうか。どんなに心配でも不安でも寂しくても悲しくても、子供が手を離そうとしたときに離すしかないんだよ。それ以外のタイミングなど存在しない。解き放つこと、それが最後にして最大の愛。

 

抱きしめたい

 私は初日を見て予想外の感情に揺り動かされた。抱きしめてあげたい・・ 私がそう思った相手は、フィリップではなくトリートだった。もちろんフィリップはフィリップでとても不憫で健気で素直で、それはもう出てきた瞬間から庇護欲を掻き立てる存在だったし、私が見るSNSではフィリップを保護したい投稿一色だったが、私はトリートに持っていかれてしまう。大体、なぜか私はこういう屈折した不器用な男を好きになりがちなのだ(作品世界の中だけの話です)。自分でも自分の傾向は分かっている。でもトリートがそういうキャラだということを最後の最後まで知らなかったので、ラストのシーンは衝撃でぶっ刺さってしまった。

 フィリップの純真さと真っ当な成長ぶりに庇護欲を掻き立てられ、ハロルドの父性に温もりを感じ、トリートの凶暴さや抑圧的な態度に怒りを感じ。その熱量がとてつもなく高いので、観客はフィリップやハロルドへの共感を最高潮まで高めていく。その感情が最後の最後に全てトリートにパスされた。トリート、お前・・・。これは、やられた。何とも見事なごんぎつね的展開。心地よく裏切られて放心状態になったまま、幕が下りるのを呆然と見送ってしまった。

 

 トリートの心の奥にはフィリップへの愛がある。でもそれだけではなく、母への愛、ハロルドへの愛、いやその奥底に眠る、母にもハロルドにも社会全体にも愛されたいという渇望を見せつけられた。愛を素直に受け入れ、愛を素直に伝えられる・・トリートだってそういう人間になれる権利はあったはずだ。でもなれなかった。トリートが悪いわけじゃない。父や母が悪いわけじゃない(悪いのかもだが)。社会が憎い。時代が憎い。

 子供でいられなかった子供

 大人にさせられた子供

 そして大人になりきれない大人

トリートが問題児や欠陥人間のように見えるが、そうではなくて、トリートは社会のひずみを押し付けられた被害者じゃないか。

 まだまだ愛が必要だった時に愛を与えられず、愛を求めることすら抑圧されて、自分自身に愛という感情はないと押さえつけて生きてきてしまった。今更愛がほしかったことに気づいても、母もいないし、ハロルドもいない。誰か、誰かトリートに愛を教えてあげてくれ。もう一度ちゃんと温もりを教えてやってくれ!

 本当なら・・、愛を受けて愛を返すごく普通の人間として成長できていたなら、肩を抱いてフィリップに温もりを教えてあげるのも、初めて星空を見せるのも、トリートができたはずだったのにね。何でそのいいとこだけハロルドが持っていってしまうんだよ。何でだよ!何でなんだよーー!!とちょっと自分の中でトリートへの庇護欲が爆発してしまった。

 最後にハロルドに縋りつくトリートを見るフィリップは何を思っただろうか。

兄の本当の姿。本当の心。フィリップと同じくらい根は純真な心を持っていたのに、それを封印してトゲをまとい続けてきたのは誰のためだったのか。自分を守り、育て、生かすためだった。フィリップは気づけるだろうか。もし、気づけたなら、今度はフィリップがトリートに愛を返してあげてほしい。愛を求められなかった少年時代をゆっくり取り戻していけるように。

 

 そして今度は2人でもっともっと大きな地図を見て、それぞれに好きな場所を見つけて、笑顔で一歩を踏み出してほしい。神に、星に願いたい。どうかこれからの二人に幸あらんことを。

 

***

 今回お初にお目にかかった山時聡真さん。初回の出会いが凶暴なトリート役なので、印象操作されてしまいそうだが笑、パンフレット等からは全く違う人物像が浮かび上がる。その中であの役を演じるのは膨大なエネルギーがいることだろうと思った。登場人物の中で喜怒哀楽が最も激しく、アクションも激しく、そして心理構造が多重になっているトリート。この難しい人物を見事に立体的にこの世に生み出してくれていた。悲しくも愛すべきトリートを有難うございました!

 

③ハロルド×村井良大に続く。

オーファンズ③ ハロルド×村井良太 - えとりんご

 

オーファンズ① フィリップ×本島純政 - えとりんご

オーファンズ① フィリップ×本島純政

2026年6-7月

東京芸術劇場シアターイースト

トリート  山時聡真

フィリップ 本島純政

ハロルド  村井良大

 

 久しぶりに舞台の感想を書いてみたい。(ネタバレにはご注意ください。)

小規模の劇場、3人だけの登場人物、休憩なし、場面は廃屋のワンシチュエーション、三方向の客席配置、客席通路もふんだんに使ったお芝居・・・観客のすぐ目の前で繰り広げられるような没入感が素晴らしく、息つく暇もないほど魅入られているうちに結末を迎えるようなそんな作品だった。

 

(公式サイトより)あらすじ

廃屋のような閉ざされた家で暮らすみなしごの兄弟。

愛情深いが凶暴な兄トリートと、ナイーブな弟フィリップ。

二人は、トリートの盗みで日々の生計を立てていた。

ある日トリートは、ハロルドという謎の男と街で出会い誘拐を目論むが・・・・・・。

 

 もう少しだけ補足すると、ハロルドは金持ちだが謎多き人物で、最初は兄弟達も観客も警戒するが、自身も孤児であり、この兄弟に父親のような愛情をもって接していく。フィリップには身だしなみやマナーを教え、廃屋の外に広い世界があることを見せていく。トリートには自分のボディガードという仕事を与え、社会の仕組みを教えながら、怒りの感情をコントロールするように根気よく諭す・・・。

 

 私は初日と千穐楽を含めて3回観劇したが、初回のファーストインプレッションとして書き残したキーワードは以下の通り。

 ・マヨネーズ

 ・地図

 ・知的欲求

 ・一番抱きしめたいのは・・

 

 この作品は繰り返し上演されている演目でもあり、時代や国境を越えて普遍的なテーマを扱っているので、見れば見るほど響くものがあるし、見る立場や年齢によっても、受け取るものが変わる作品だと感じた。

 私は舞台を見るときは推し俳優がうんぬんに捉われたくないので、作品としてフラットに受け止めたいと思っているが、基本的には本島純政さんきっかけでチケットを取ったので、初回はどうしてもフィリップ視点で見ることが多かった。というか、恐らく構成として、フィリップに感情移入しやすいストーリー展開となっているので、多くの人がフィリップに同情し、成長を見守り、応援したくなると思う。その意味では、純政さんが舞台経験2回目にして、観客の感情を誘導するこの役を見事に演じ切って、全員を惹きつけたうえで最後の最後にトリートにアシストする展開に心の底から痺れたし、万感の思いを込めて拍手を送った。そして、できるなら次はトリートの視点で追いかけてみよう(できるだろうか・・)と思いながら、初日の劇場を後にした。

ここからは人物ごとの印象を、いくつかのテーマに分けて書いてみたい。

 

フィリップ×本島純政

純粋

 冒頭、雨に濡れてびしょびしょになった捨て猫を思わせるような風貌のフィリップが登場する。多くの人は、もうこの時点で庇護欲を掻き立てられることだろう。詳しい境遇は分からないものの、最初の数分を見るだけで、フィリップがトリートに怯えていること、それでもトリートを頼っていること、愛に飢えていることが分かり、抑圧された孤独な環境が同情を誘う。それに加えて、外界との接触が遮断されているせいか、赤ちゃんのまま育ったかのような純粋さが言動に表れている。この純粋さは、悲しい生い立ちの犠牲のうえに備わったものと言えるが、一方でフィリップの最大の美点でもあり強みでもある。過去に何回も上演されたと聞くが、いつもフィリップはこれほど庇護欲を掻き立てる存在だったのだろうか。それとも本島純政さんご本人が持つ特性が、それを更に強く際立たせていたのだろうか。とにかく、同情なのか共感なのか分からないのだが、フィリップを見守りたくなる感情を冒頭から抱くこととなった。

 

知的欲求

 フィリップでもう一つ印象的なのは、これほどまでに抑圧され、意図的に情報が遮断された環境で生きながら、驚くほど高いレベルの知識を持っていること。こっそりとテレビを見て、分厚い本を隠し持ち、知らない単語が出てきたら何とかしてその意味を知ろうと調べ、得た知識は自分の記憶にしっかりと定着させる。難解な薬の名前もスラスラ言える。もしかしたら記憶力に関して特別な性質を持っているという設定なのかもしれないが、私は一般的な文脈でこの事象について少し書いてみたい。

 私自身、子供に対してずっと言ってきたのは「人間は放っておいても勉強したくなる生き物なんだよ」ということ。当然、子供たちは「ええ?」というけげんな反応を見せる。勉強=嫌いなこと、できればやりたくないこと、と考える人は、子供のみならず大人でも多いのではないか。でも私は全くそうは思っていない。むしろ、勉強が楽しいと思えるのが人間が人間たるゆえんだと本気で思っている。「勉強」というのは何も学校の授業やテストや宿題という意味ではない。「知らないことを知る」「できなかったことができるようになる」、これがとてつもなく楽しいことのはずなのだ。私はこれに関しては確信を持っている。

 なぜなら、私は一度そういう環境に置かれたことがあるからだ。家庭の事情で(日本の)教育を受けられない環境で生活した期間が数年間ある。それまではごく一般的な子供で、勉強は好きでも嫌いでもなかった。でも教育がない環境・・それは想像以上に飢えた世界だった。テレビもネットもスマホもなく、何も情報がない世界。知りたい。もっと知りたい。分からないことを自分の力でできるようになりたい。古いボロボロの本が出てきたら、貪るように読みふけった。限られた本しかないので何度も何度も何度も読んだ。国語や日本史などの日本の勉強も、家庭で教わりながら自学したのだが、知識が増えて、未知の領域が脳内で繋がって新たな世界がどんどん広がっていく感覚が楽しすぎて時間を忘れて取り組んだ。多分、乾きすぎた砂漠に水が浸み込むように知識が吸収されていったのだと思う。数年後、日本に帰ってきたら、通常の学校で学ぶ以上の知識が身についていて周囲を驚かせることになってしまった。

 脱線が長くなったが、だからフィリップが抑圧されながら隠れてでも本やテレビから知識を得ようとしているのが、とても健気だと思ったし、でもそれこそが人間の本質なのだと強く思った。どんな環境であっても、誰に教えられなくても知的欲求を最初から備えているのを見て、少し変な言い方かもしれないが、同じ人間という種としての誇らしさを感じるほど感銘を受けた。是非ともナショナル・ジオグラフィックをシリーズで送り届けたい笑

 

芸術

 さらに印象深いのは、フィリップの想像力の豊かさだ。外界を知らない少年が、窓から覗く外の世界を見て、あの人はこういう人だ、こういう会話をしている、家の中に謎の人物が住んでいる・・そういった空想を膨らませる。ある意味では変人のように見えるかもしれないが、自分で空想の世界を創り出せる豊かな発想が養われているということだ。別の作品のレビューで書いたこととも通じるが、フィリップのこの想像力を育てているのは芸術世界だろう。芸術(本やテレビ)の世界から得られる知識で、自分の知らない世界を補う。そこに憧れの世界があり、友情があり、恋があり、理想があり、答えがある。

 日本は学力偏重主義なので、芸術は軽んじられる傾向にあって、人生を豊かにはするけれど、直接的に役に立たないものと思われがちだ。でも本当にそうなのだろうか。学歴主義真っただ中の時代に生きてきた私は、この年になって強くそう感じる。現実世界に地獄しかないとき、救うのは芸術世界だと思う。芸術の世界にしか、自分の求める理想は存在しないのだから。

 人間社会の闇に放り込まれたフィリップが、あのように純粋に成長できたのは、トリートの歪んではいるけど彼なりの愛、そして芸術によるものだと思った。

 

地図

 ストーリー終盤のシンボルは何と言っても地図。ハロルドがフィリップに渡してくれるフィラデルフィアの地図。それを元にハロルドとフィリップは夜の街に散歩に出る。それまでトリートに外の空気を吸うと呼吸困難になると教えられていたフィリップだったが、怯えながらも勇気を出して一歩踏み出す。すると、劇場の天井に満天の星空が映し出されるという粋な演出。遮断されていたフィリップの世界が無限に広がるようだった。

 地図があれば一人で外出できる。自分の家にも戻って来れる。でもそれだけではない。地図さえあれば世界中一人でどこへでも行ける。地図はフィリップの自立、自我の象徴だった。

 

 散歩から戻ったフィリップはトリートの詰問にあい、勝手な外出を咎められる。それまでのフィリップならオドオドしてどこかで諦めていただろうが、ここでは最後までトリートに屈しない。自分のアイデンティティを確立しようとする若者のエネルギーが爆発していて、内から燃えたぎる炎に圧倒された。

 特に、ある日の観劇では中央通路席での対峙の場面で、フィリップの立ち位置を真正面から見降ろす席だったため、フィリップが地図を出す風をまともにくらうほどの至近距離で、こちらが呼吸困難になりそうだった。フィリップ頑張れ!負けるな!いけ!と祈っているつもりだったが、そんな心配など全くいらないくらいの目ヂカラの強さだった。「ここが僕のいる場所!宇宙に漂う銀河の端っこで、僕はしっかり二本の足で立っている!」(台詞はニュアンスです。正確に記憶したかった。)なんて素晴らしい独立宣言だろう!!!トリートの機嫌を伺い、物陰からオドオドして見ていたフィリップとはまるで別人だった。

 

 そして、地図という物理的なものがハロルドとトリートの違いを決定づけてしまう。地図を教えてくれたハロルド。教えてくれなかったトリート。それどころか破り捨ててしまうトリート。

 破られて嘆きはするが、フィリップはもうトリートから離れることを決意する。自分で生きていけることを知った。兄に頼らず自分の足で立って生きる選択肢があることを知ってしまった。兄のそばにいたら、自分の中の自分が死んでしまうと思ったのだろう。ハロルドに教えてもらった自分の中の自分。地図を手に入れた自分の中の自分。それが自我、アイデンティティ、存在意義。

 フィリップの目ヂカラも姿勢も立ち居振る舞いも何もかも違って見えた。自分の足で立つ。ここが僕のいる場所。それを自覚することの前と後でこれほどまでに世界が変わるのかと思った。蛹が羽化して羽を広げるように、雛が巣を飛び立つように、一人の少年が、大人の人間として堂々と立ち上がる姿に感動で心が震えた。

 

怒り

 地図の場面で初めてフィリップはトリートに怒りの感情をぶつける。トリートが地図のことを教えてくれなかったこと、外に出たら危険だと教えられていたのに何も危険なことはなかったこと、地図を破り捨てられたこと、本や母の靴など大切にしていたものを否定されたこと。あらゆることに対して怒りを表し、激しい取っ組み合いの喧嘩もする。さらには、家を出て旅に出ると宣言する。

 フィリップはそれまでも散々ずっと抑えつけられていたのだが、同時に怒りの感情も抑えつけられていたと言える。トリートは、怒りの感情をコントロールするよう何度もハロルドに諭されているわけだが、その一方で、フィリップは怒りの感情の表し方を知らなったという対比になっていることに気づいた。

 怒りにはエネルギーがいる。ある意味では生そのものだ。トリートのようにコントロールできないほどの怒りが常時沸くと悲劇だが、怒ることすらできなかったフィリップの状況もまた悲劇と言える。フィリップがエネルギーを蓄えて、自分の希望や主張をしっかり示せるようになったことがとても嬉しかった。

 

 フィリップは冒頭から暴力に怯えている。だが、人を愛せないわけではない。そして愛されることを受け入れられないわけでもない。いつかきっとちゃんと本当の愛を知る人間になるだろうと思わせる。

 ママを愛し、兄に対しては恐怖もあるが愛もあると思うし、ハロルドに対しては父性の愛を受け入れ、愛を返そうとしていると思う。ゆっくりとだが、普通の人が知る愛の過程をなぞっていく。孤独だった日々の中で、ハロルドと出会うことで愛されることを知り、愛することの尊さを知る。ハロルドに肩を抱かれた時の表情が忘れられない。じんわりと温もりが体中に伝わっていっているんだろうなと、血液をめぐって全身の隅々まで愛を感じているんだろうなと思わせる表情だった。フィリップの瞳にみるみる涙が溜まって、大きな目が光を浴びてキラキラと輝いていた。

 でも、愛というテーマで私が一番フィリップに願うのは、最後の最後のシーンで、最も身近にあった愛に気づいてほしいということだった。つまり、トリートの愛。いびつに歪み、押さえつけながらも、彼なりに必死に送り続けた愛。フィリップはハロルドの愛を受け入れ、これまで知らなかった街に一歩踏み出し、新しい世界を知ることとなった。そういう未知の世界を素直な心で受け止められる純粋さ。その純粋さを失わない環境を守ってきたのは紛れもなくトリートの愛。歪んではいる。今でいうところの毒親の要素があるかもしれない。でもどうか、トリートの愛も受け止めて、今度はフィリップの愛でトリートを解放してあげてほしい。そう願わずにはいられなかった。

 

フィリップ×本島純政

 実は私は長年舞台鑑賞が好きな舞台オタクである。それが、本島純政さん出演のとあるテレビドラマを見てドはまりしたことから、紆余曲折(?)を経て現在本島純政沼にも生息している。私の中では、舞台と純政さんは別の次元の推し活としてキッチリ区別しているのだが、そこに純政さん初舞台出演の情報が!突然自宅に推しが花束を持ってやってきたみたいな感覚に陥り、ウソー!やめてやめてー!マジかー!!と叫んだ。というのはもちろん冗談で、大歓喜で舞台の開幕を心待ちにした。初舞台はこちらも謎の緊張があったが、2回目の今回は純粋に楽しませてもらったし、息をもつかせぬ演技に圧倒された。

 演技を通して何かを表現するという本質部分は同じとはいえ、映像作品と舞台は文化系と体育会系くらいの違いがあると思っている(個人の感想です)。苦しいこともあるであろう稽古期間を経て、そこで積み上げてきたもの全てを本番の一瞬に出し切る、という意味で。劇場は女神もいるし魔物もいるし奇跡も起こる、一期一会の勝負の空間でもあると思う。日に日に役者と役は一体となって立ち向かう。そして、役者ご本人がそういう高い壁に挑戦して乗り越えようとしてもがいている情熱が、劇中でその役が向き合っている葛藤や挑戦とオーバーラップして、とてつもない化学反応を起こしていく。その進化を目の当たりにできるのが舞台の醍醐味だと思っていて、私はずっと舞台鑑賞の虜になっている。この出演を機に、更に本島純政さんが舞台の魅力の虜になって、これから先も沢山の作品に色々な役で出演してくれることを心から楽しみにしている。素晴らしいフィリップをありがとうございました!

 

②トリート×山時聡真 に続く。

オーファンズ② トリート×山時聡真 - えとりんご

オーファンズ③ ハロルド×村井良太 - えとりんご

未成年 〜抱きしめ合った軌跡〜

サブタイトル:
純政沼、外から見るか中から見るか

 ドラマ「未成年」を取り巻く現実世界において、3月4日に起きたことについて以前書いたが、今回はそれ以降のことを振り返ってみたい。主に本島純政君について書くこととなる。意図はしていないが、結果的に沼落ちの記録になるかもしれないという恐れを抱きつつ書き始めてみる。発生した出来事や発信内容をいくつか時系列に並べながら、その時々の感情の変化をなぞってみたい。この4か月を一言で振り返るならば、「事実は小説よりも奇なり」ということだ。
(なお、伏せる必要があるか不明だが、文中では彼のことを「K氏」と呼ぶ。)
(日付などに不正確な部分があるかもしれないが、ご容赦いただきたい。)(敬称略)

3/4 22:00
事務所からの通知
K氏のSNS遮断 X、インスタなど

3/5
「未成年」ファンミーティング中止決定

3/6
純政ストーリー「この悲しい気持ちを作品を愛してくれているみんなで抱きしめ合いたいです」

 2025年界隈流行語大賞!伝説に残る名言。
 この言葉に何度支えられたことか。界隈が空中分解せずに堪えていけたのは、紛れもなく、純政のこの言葉があったからだと思う。

3/9-11
純政SNS
舞台挨拶、撮影
海での撮影

 この辛い心境の中でも仕事をこなさなければならない健気な姿に感動もしたし不憫にも思った。

刊行予定の雑誌も発売中止/保留などが相次ぐ

 円盤の発売も絶望的だと思った。
 FODも視聴できなくなると思った。朝起きたら視聴できなくなっているのではないかと思い、毎朝開くのが怖かった。

3/10
月曜日の投稿  

「未成年」やK氏の文字はどこにもないが、ゆかりのある映像に感涙

3/17
まっちゃ
もうないと思っていた月曜日の投稿

ゆかりのある写真に感涙

3/24
まっちゃ
もうないと思っていた月曜日の投稿

ゆかりのある写真に感涙

‥‥以下、ずっと続く。
お前、なんでここまでするの?!?!
嘘でしょ!絶対にもうないと思っていたのに。
というか、続けなくても誰も責めたりしないのに。
このままだと終わりにするタイミングがなくなってしまって、義務感のようになってしまいそうだけど大丈夫だろうか。

相変わらず続く月曜日の投稿

 どのような思いなんだろう? ファンの悲しみに寄り添ってくれているんだろうか。なんて愛に溢れてるんだ。
 と思う一方で、これは純政がやりたくてやっているのかもしれない。 純政の「未成年」への愛が強くて、他に思いを共有できる場がなくて、ここに出しているのかもしれない。それならば全力で受け止めたいから、いつまでも送り続けてくれたらいい。

4/6 水無瀬仁誕生日
日付が変わった直後にSNSに写真アップ
X、インスタ、サブスク

 K氏だけでなく「未成年」そのものがNGワードっぽくなっているような雰囲気の中で、日付更新と同時に水無瀬仁の誕生日に向けたメッセージを発信する純政に衝撃を受けてしまう。

4/7 ワンエンオンリーのメジャーデビュー発表

 感情ジェットコースターはどこまで続くのか。

相変わらず続く月曜日の投稿

 もしかしたらこれはファンと思いを共有しているだけではなくて、K氏への思い、K氏へのメッセージでもあるのかもしれない。写真そのものもとても素敵だが、恐らく写真1枚1枚にそれを撮った時の会話やエピソードなどもあるだろう。彼らにしか分からない思い出もあるはずだ。その思いも乗せて投稿しているのかもしれない。
 K氏がまっちゃを見れる環境にあるのかどうかは分からないが、言葉にできない熱い思いや思い出や祈りが込められているような気がしてきた。

 だんだん月曜日の投稿は、ずっと続くのではないかという気がしてきた。もうどんな思いが込められていてもいい。出されたものを出されたまま愛でる。そんなオタクに私はなりたい。

4/15 K氏初出廷日
あの日以来1か月半ぶりとなる動く映像

4/15 あみゅプラ

4/21
フォトブックeverything flows発売決定
お渡し会開催決定

「今のありのままを撮影してほしい」
あの直後のありのまま?原石に触れていいのか、という畏れを感じてしまう。

 そして、今この日のあみゅプラを見ると、当時見た時とはまた違う世界が見える。

5/2
未成年DVD・Blu-ray発売決定
特典発表(水の音リバーシブルジャケット、蛭川の手紙レプリカ)

5/10
ワンエンオンリーの武道館コンサート
リーダーの挨拶

5/30
お渡し会前日インスタライブ

5/31
お渡し会(東京)

「未成年」やK氏の話題には触れずに、ただ純政に感謝と応援を伝える場だと誰もが必死に言い聞かせながら参加している様子だったが、会場のBGMにワンエンオンリー、SAVIOR、花瓶がかかっていたり、「未成年」やK氏のことに触れても受け入れてくれる純政。もはやファンの方が混乱するほどの愛。

6/7
お渡し会(大阪)

ゲリラインスタライブ

6/13
フォトブック到着

 私はグッズを持たない主義の人間だ。このブログを辿っていただく方がいれば分かることだが、私には長い期間愛して通い詰めているジャンルが別にあり、その中で推しと呼べる作品も俳優もいる。最推し作品はDVDを持っているが、それでもグッズなどは買わず、俳優のアクスタや写真等も買わない。作品と登場人物が好きなのであって、リアルな世界のグッズにはそれほど関心がないからだ。

 なのに!
 私はなぜかフォトブックを注文していた。気づけば予約開始時間にスマホを準備し、発売開始と同時にサイン入りフォトブックを予約購入していた。こびとの仕業に違いない。

 正直、私はずっと全力で抗っている。純政沼に落ちないように。私が落ちてはいけない沼だと思うし、元々は私が惹かれるタイプとはかなり違うと思っているし、絶対に落ちるわけないんです!!
と思っているのに、ものすごい勢いで強力に引きずり込まれる感覚があり、これはもはやブラックホール並みの引力だと感じている。
 最近は「推し活」という言葉がもてはやされ、若い子の中には、周囲が推し活で楽しそうなのに、自分には推しがいなくて寂しいから、推しを作るにはどうしたらいいですか?みたいな悩みを相談する子がいるらしい。
 何をふざけたこと言ってんだ!と説教したい(迷惑)。推しというものは作りたくて作るもんではない。むしろ、全力で否定するところから始まるもんだ。生活に支障をきたすレベルで、寝ても覚めてもその人のことしか考えられなくなって、おかしい、自分はこんな非日常の人間にハマるようなタイプではない、絶対にそんなはずはない、という全力の抵抗から。
 私はまさに推し活とは無縁の人間だと思っていたのに、数年前に人生初めての沼落ちを経験し、それが直滑降すぎて本当に息もできないほどもがき苦しんだので笑、それ以降、分かりやすくぽっかり穴が開いているようなところは慎重に慎重に落ちないように落ちないように沼を避けて歩いているようなところがある。だが、大抵、沼と言うのは避けようと思って気を付けている時に、その隣にある見えない穴に両足ごとズボーーーっと引きずり込まれるように落ちるものでもある。
 未成年を平和に見ていた2月頃は、純粋に作品と蛭川と水無瀬を愛していただけだったのだが、3月4日以降の非常事態に巻き込まれているうちに、気づけばこのとんでもない沼に腰くらいまで引きずり込まれていて、誰か助けてくれ!このまま流されるわけにはいかないんだよ!という状態が何か月も続いている。

 そんな中、自分の中のこびとが勝手に頼んだフォトブックが到着した。3月11日には撮影していたのだから、例の事件が起きた直後の表情というわけだ。この10日ほど前は香港でイベントがあり、そこで映し出されていた表情は幸せと笑顔に満ちていた。わずかな期間で天変地異と言っていいほどの変化があったわけで、その真っただ中にある表情を見るのは勇気が必要だった。思ったよりは直視できた。が、やっぱりいつもの彼の表情とは違う。ところどころ、この写真は誰?と思うほど、いつもの表情と違う写真もあった。沢山悲しんで苦しんで泣いたのだろうかと胸が苦しくもなった。こういう時の自分を写真に残すというのはどういう心境なのだろう。そこはやっぱり表現者なんだなと強く感じた。自分だったらできるだろうか。悲しく苦しい出来事に直面した時の自分を写真に残すこと。むしろ記録に残らないように避ける気がする。でも、残してもいいのかもしれない、とふと思った。悲しみが続くうちは写真を見ることもできないが、いつかその悲しみを乗り越えて写真を見られる日がきたら、どん底にいた自分に対してよく頑張ったねと、この時よく踏ん張ってくれたねありがとうと直接声をかけられるかもしれない。


 フォトブックに関しては、この時期の表情や感情を永久保存することも目的だったのかもしれないが、もうひとつ、発売イベントを開催することでファンと直接対面で会う機会を設けることが目的だったのかもしれないと思ったりもする。「未成年」のイベントが中止になってしまい、表向きにはなかなか「未成年」やそれを取り巻く出来事について話すことも難しい中で、東京と大阪で一人一人言葉を交わす様子を見聞きすると、敢えてこの機会を作り出してくれたのかもと感じた。
 お渡し会の直後にはなんとインスタライブもあった。申し込んでもチケットを入手できなかった人、様々な理由で行けなかった人にも声を届けてくれたということかなと。 あまりの供給の多さに毎回動揺するのは私だけではないだろう。この辺が常識だろうと思っている俳優とファンのラインを常に大きく超えて愛を発信してくるので、こっちの常識が間違っているのか??と混乱する日々だった。

 3月に「悲しい気持ちを抱きしめ合いたい」という発信があった時。その気持ちを発信してくれただけで十分だとみんな思ったんだよ。その発信すら、何らかのタブーに触れている可能性もあったぐらいで、その気持ちを伝えてくれることだけで十分すぎるほど十分だったんだよ。その言葉が24時間後に消える時に、同時に過去の写真が全部消えてしまったとしても受け入れるしかないと思っていた。そうなる前の最後のメッセージだと覚悟もしたし、そのメッセージを胸に抱きながら、一人一人がそれぞれの場所で悲しみを乗り越えていくということだと思っていた。まさか、「悲しい気持ちを抱きしめ合いたい」がこんなにも強く長く、一緒に抱きしめ合うことだなんて全く思ってなかったんだよ。 過去を消しもせず、さらに新しいものを抱きしめさせてくれるなんて全く思っていなかったんだよ。

 3月4日のあの日から、みんな大混乱の中にいて、K氏が好きでグループが好きで純政が好きで「未成年」が好きで、みんなみんな大好きなだけなんだけど、その愛が時々ぶつかり合って疲弊してしまうこともあった。わざわざこんな苦しい場所にとどまる必要なんてあるのか、と思ってしまうこともあった。学校や職場じゃないんだから、苦しければさっさと離れてしまえばいいのに、離れることもできず傷ついてしまうこともあった。そのたびに純政が救いに来てくれた。本人が救っている自覚があるかどうかは分からないけど、とにかく多くの人が救われていた。好きでいていい、好きでいていいんだよと、ただそれだけを繰り返し言ってくれるようだった。

 月曜日の投稿、純政が発信したいメッセージがあるなら続けてくれたらいいけど、義務のようになっては本末転倒だし、いつ終わりにしてくれてもいいと思っていたし、過度に期待してはいけないと言い聞かせていた。でも、この時期は月曜日の投稿を励みにするようになってしまっていた。月曜日に心が救われても、週の途中で傷ついてしまうことが増えて、次の月曜日まで心が持たないことも多くて、月曜日の投稿まで何とか頑張りたいと思ってしまうこともあった。こんなに依存してしまって申し訳ないと思いつつも、月曜日の投稿を見てはパワーを充電していた。だいぶヤバいところまで来てるなぁぁ…と頭を抱えながら。

6/24
未成年DVD・Blu-ray発売(フラゲ

6/25
未成年DVD・Blu-ray発売

SNS更新
「未成年」という言葉が久しぶりに公に
けんしん
蛭川晴喜

6/30
顔出しなしのインスタライブ
タイミング

 私はブルーレイを買うつもりはなかった。FODを毎日見ているし、諸事情あって家で「未成年」を再生することはしないだろうから。手紙レプリカの特典なども素敵だなと思うものの、元々グッズに惹かれるタイプではないのでなくてもいいやと。

 なのに!!(2回目)
 発売の前の週になって注文した。今回はこびとではなく、明確に私の意思で注文した(フォトブックもお前の意思だわ)。きちんと自分の心に向き合ってじっくりまじめに問いかけてみた。もしFODで見れない日が来ても後悔しないか、メイキング映像が見たくないか、まだ世に出ていない二人の映像を見たくはないか、発売が危ぶまれるほどの逆境のなか満身創痍で届けてくれる制作者の思いを受け取らずにいられるのか。一番はメイキングが見たかった。この作品がどのような過程を経て、どのように愛を注がれて私たちの元に届けられたのかを知りたいと思った。
 私はブルーレイなども普段買わない主義だ。一切買わないわけではないが、よほどのことがないと買わないので、最推し作品くらいしか手元にないのだが、そこに未成年が並ぶことになった。ドラマ作品のものを買うのは生まれて初めてだ。
 今のところメイキング映像しか再生していない。そこから出られそうにない。この頃の幸せに満ちた笑顔と現状との落差に胸が潰れそうにもなるが、やはり買った甲斐はあった。とにかくクランクアップ映像が全てを物語っている。これが全てだろうと。我慢して我慢してずっと口にしてこなかった思いが込み上げてしまって、それでも歯を食いしばって口には出さずにおくが、代わりに涙が溢れてしまう。君も同じでしょう?

7/4
ちるちる大賞発表
作品賞、俳優賞(受け役)、主題歌賞で未成年三冠
蛭川晴喜という存在

 三冠おめでとうございます!素晴らしい!!これだけの逆境の中で、ある時期から広報も制限される中にあっても、作品がこのように評価されたことは作品のファンとしてもとっても嬉しい!
(ここはちょっとだけネガティブなことも書くので、読みづらい方は読み飛ばしてください。)
 私は2月の平和だった時期に、少し感じていたことがあった。当時は、デジタル写真集の発売を控え、国内外ファンミーティングの開催が次々と決まり、海外アワードの受賞もあり、もしかしたらシーズン2や映画の制作もありうるかもと思うほど、作品への注目が高まっていた。二人の絆もさらに深まっているようで、この勢いはどこまで続くのかなと思うほどだった。もし、この先少し壁があるとしたら…と私が懸念していたのは、何らかの賞でどちらか一方だけが受賞するようなことがある時かなと思っていたのだった。それは私が普段見ているジャンルでも歴史や重みのある賞が様々あるので、Wキャストを演じる一方の役者だけが受賞することもよくあることで、芸の道は厳しいなと普段から感じていたからだった。
 このような形で一方だけが受賞することになるとは全く予想だにしなかったが。関係者もファンも、作品の受賞は彼の功績でもあるし、何事もなければ彼も受賞候補になりえたのではないかと思っていると思う(もちろん受賞者には最大のリスペクトを送りたい)。私たちは、彼もこの栄誉を喜ぶ側の人間だと思っていて、この喜びが彼に届けばいいなと思っている。でも彼はどう思っているんだろうとふと考えてしまう。グループが輝かしい夢に向かって羽ばたいていること、それに対して少し切ない気持ちを感じてしまうのと同じ痛みがふとよぎる。彼も一緒に輪に入って喜びをわかち合う日が来てほしいと思っているが、客観的に見ると、自分以外の世界が輝かしい未来に進んでしまったようにも思えて。
 2月に私が少し不安に感じていたこと、それが全然違う形で現実になってしまったことをちょっとだけ複雑な気持ちで見ている。作品が目に見える形で評価されたことはもちろん飛び上がるほど嬉しいのだが。いや、それは私の思い過ごしだろう。K氏もきっとこの素晴らしい評価を喜んでいるだろう。自分がその一翼を担ったことも誇りに思っていてほしい。いつかきっとまた違う形で一緒に喜びを分かち合える日が来ることを願っている。


 この一連の出来事が起きてからずっと、私たちまで「未成年」の世界線の中に紛れ込んでしまったような気持ちでいる。蛭川が突然消えたあと、5年間彷徨い続けた水無瀬の感情を追体験しているようなそんな錯覚に陥る。もちろん現実とドラマを混同するつもりはないのだが。でも、残された水無瀬の感情はより深く理解できるようになったし、待ち続けた強さに感服するところもある。
 しかし、最近は蛭川の気持ちもよく理解できるようになった。

俺とはあまりにも違うお前が俺には特別すぎて
すごいやつに見えた
そんなお前に釣り合う人間になりたいと思うようになった
そんな気持ちにさせてくれてありがとう

 これは蛭川が水無瀬にあてて書いた手紙の一節。私はこの感情を今、純政に対して抱いている。これほどまでに、愛を真っ直ぐに深く強く発信し続けることにただひたすら尊敬の念を抱いている。迷いなく真っ直ぐに。大人の事情も多々あるなかで、何かとぶつかって戦うわけではなく(戦っているかもしれないが)、言い訳したりごまかしたりせず、ただシンプルに自分が好きなものを好きと伝え続けるひたむきさに感動してしまっていて、直視できないほどの眩しさを感じる。
 ここまで人の思いに触れて、心動かされたのは久しぶりだなと思っている。しかもまだ二十歳という若さなのに。
 私は自分も結構愛が深い方だと思っていたが、バランスを取ってしまう人間でもあるので、いきすぎるとブレーキを踏むし、周りを見て言いたいことを引っ込めてしまうこともある。相手がどう思うか、周りがどう捉えるか、いきすぎると却って愛するものを困らせてしまうのではないか、違う考えがあることもリスペクトしたい、今はそっとしておくべきなのではないか、言わなくてもきっと分かるはず…。ついついそうやってバランスを取ってしまうものだと思う。それが大人なのだと。おとな………(cv水無瀬)
 純政を見ていると、いかに自分の心が薄汚れてしまっているかを痛感する。ピュアさを失っていることを痛感させられる。バランスを取ろうとするのは、つまり、周りの人やそれによって傷つく人やそのことで責められる自分を守ろうとしているからだ。もちろんそれが愛する人を守るためでもあるんだけど。でも彼の場合はそうではなくて、真っ直ぐに愛するものに愛を発信している。周りのあれこれではなくて。一番大事にしたいのはどっちなのか、と突きつけられるような気持ちに何度もなった。それでいて、周りの人も愛する人も傷つけていないのは、彼の人柄によるものなんだろうなとこれまた感嘆する。
 もう薄汚れてしまった大人なので、純政のように汚れなくピュアに真っ直ぐに愛を届けることはできないかもしれないし、釣り合う人間になりたいと言うことすら恐れ多くて言えないが、せめて彼や彼の愛するものを傷つけたり邪魔したりすることのないように、ファンだと名乗っても恥ずかしくないように、心穏やかで清らかな人間になりたいと思うようになった。そんな気持ちにさせてくれてありがとう。

 まだまだ壮大な「未成年」スピンオフシリーズは結末が見えない。悲しみも苦しみも辛さも大きくて、幸せと喜びも知ってしまっているだけに落差も激しい。短期間でここまで感情が揺さぶられる経験はあまりない。でもその初めて経験するような極限の状態の中で、人が必死に愛を届けたり慰め合ったりする姿に触れることができた。こんなAIだとかロボットだとかに置き換わるような、人間関係が希薄化する時代に、人の心が動かす力に改めて感動する日がくるとは思わなかった。冒頭で「事実は小説よりも奇なり」と書いたが、「事実は小説よりも奇跡なり」と感じている。それほどまでに沢山の奇跡を目撃していると思う。この物語にどのような結末が待っていようとも、最後まで見届けたいと思っている。この光景に出会わせてくれてありがとう。

 …そして誰か教えてほしい。ここは沼の外ですか?中ですか?
 私は往生際が悪いので、多分ずっと沼じゃない沼じゃないと抗い続けながら過ごしていくと思う。さすがになかなか認めるわけにはいかないので。当分出られそうにないし、抗いながら引きずりこまれることが楽しくなってきているのでかなりの末期症状だなと頭を抱えている。そんなわけで、沼じゃないはずの美しい水の中に肩までつかりながら、二十歳の若き天才の活躍をこれからも見守っていきたい。

 

***

長文を最後までお読みいただき、ありがとうございました。

以下はドラマ「未成年」の感想・考察です。

「未成年」①→未成年① - えとりんご
「未成年」②→未成年② - えとりんご
「未成年」③→未成年③ - えとりんご
「未成年」④→未成年④ - えとりんご
「未成年」⑤→未成年⑤ - えとりんご
「未成年」⑥→未成年⑥ - えとりんご

以下はドラマのことではなく、現実世界で3月4日に起きたことについて書いたものです。
未成年〜3月4日のこと〜→未成年 〜3月4日のこと〜 - えとりんご

未成年⑥

未成年⑥

 予想だにしなかったことですが、「未成年」の感想が第6弾まで突入しました…。本ブログにおけるこれまでの感想投稿数最多タイです。ネタバレにはご注意ください。(これまでの感想はこちらから。①→ 未成年① - えとりんご 、②→ 未成年② - えとりんご、③→ 未成年③ - えとりんご 、④→ 未成年④ - えとりんご 、⑤→ 未成年⑤ - えとりんご )


未成年×魅力

 BL作品に全く無縁だったはずが、ドラマ「未成年」の沼にどっぷり浸かっている私。SNSを見ると、似たような方が多いことに驚かされる。BLファンだとか演者のファンだとかに関係なく、全く新規の視聴者の心さえも、これほどまでに掴んで離さない「未成年」という作品の魅力について改めて考えてみた。

 「未成年」についてはこのブログでも色々と語ってきたが、私が一言で説明するならば、不器用な蛭川と水無瀬がお互いを救いとしながら、自分にかけられた呪縛から解き放たれていく成長物語、といったところだ。BL作品ではあるものの、BL要素が前面に出ているわけではなく(と語れるほどBLを知らないのだが)、二人は同性である以前に、魂レベルで惹きつけられるソウルメイトという印象を私は持っている。未熟で不器用で時間がかかるけれど、お互いの欠けているピースを埋め合うように相互作用しながら、精神的に成長していく姿が見る者を惹きつける。

 そして同時に思うのは、きっと誰もが心の中に蛭川か水無瀬かその両方かを飼っているということ。変わりたいけど変われない何か。もう諦めてしまった何か。忘れている何か。もしかしたら自覚すらしていない何か。普段は固く閉じ込めて、敢えて向き合おうとしていないその孤独や諦めに、蛭川が、水無瀬が、そっと手を差し伸べて寄り添ってくれる。
 水無瀬と蛭川が互いの存在に救われていく姿を見るうちに、見ているこちら側も自分の中にある何かが救われていくところがあって、それが「未成年」が多くの人の心を掴んで離さない理由なのだろうと思う。

 

 別に私はずっとそんな風にこの作品を見ていたわけではなく、普通にただ純粋に蛭川と水無瀬のストーリーに魅入られ、二人の不器用さにジタバタヤキモキし、もどかしさにキュンキュンしながら見ていた。しかし、尋常ではない心の掴まれようで、初めて見たのが1月中旬だったと思うが、3か月経つ今でもほぼ毎日のように見ている。そして本当につい最近になって、急に天から降ってくるようにふと気づいたのは、もしかしたら私の中には水無瀬がいるんじゃないかということ。実は、私はキャラ的には蛭川みたいのに惹かれることが多く、水無瀬みたいなタイプの登場人物に惹かれることはあまりない。イマドキの中性的な優しいイケメンよりも、ワイルドで男くさくて芯の通った押しの強い男子の方が好みという意味で。だから自分が蛭川だけでなく、水無瀬にも惹きつけられて追いかけているのが我ながらずっと不思議だった。

 どこか優等生を演じていて、というより優等生像しか与えられてないのでそれが目指すべき常識と思っている水無瀬。自分をきちんと律しながら、与えられた役割をハイスペックにそつなくこなす毎日。私は水無瀬よりもっと喜怒哀楽の感情もはっきり持って生きてきたし、泥んこまみれの豊かな子供時代を送っていたし、有難いことに親や友人からも沢山の愛情を受けてきた。でも人生に見えないレールを感じていたところはあって、大学に入ったあとで、私が入りたくて入ったんじゃない!と親に泣いて叫んだ記憶がある。今となってはその人生から得られた恩恵に感謝しているが、自分一人で人生を選べない閉塞感があったと思う。
 もうレールに捉われるような年ではないし、普段の私は水無瀬にも蛭川にも似ておらず、バタバタチャキチャキ飛び回っているのだが、あるべき形を目指して完璧に全てをこなそうと自分を追い込むこともあるし、どんなに運命が非情でも弱い自分は他人に見せたくないし、何かを求めることを一度封印したら一切封印を解かない、という部分が今も少なからずある。最初から自分を投影して見ていたわけでは全くないのだが、あえて見つめてみると自分の中にそういう部分があることに気づく。そう言えば、初回の感想①で「全編を通して一番好きな台詞は「お前といると弱くなる」「俺はお前といると強くなれるよ」だ」と書いた。あれを書いたときは、深く考えずに強く印象に残った台詞を書いただけだったが、私の中にひっそりと水無瀬がいるから、あの水無瀬の台詞が思い切り刺さったんだな…と今強く実感している。多分、私はごくごく一部の人相手にしか弱い自分を見せられないんだと思う。もしかしたら自分自身にも見せられていないかもしれない。弱さを見せられる相手というのがどれほど希少な存在か、痛いほど分かる。

 

 元々この作品は、水無瀬が蛭川にとっての救いであることが分かりやすく描かれている。肉体的にも精神的にも大人の支配を受けて、そこから逃げ出したいと強く思っているのは蛭川で、その気持ちを受け止めて救い出したいと思っているのが水無瀬だから。全編に水無瀬のモノローグが綴られており、視聴者も水無瀬目線で追いかけるので、蛭川の境遇に同情し、蛭川に惹かれる気持ちに共感し、蛭川を救いたい気持ちが先行する。
 でも水無瀬には水無瀬の呪縛があって、肉体的なものでないだけに、実は水無瀬の方が逃れるのが難しい。実際、会ってすぐに蛭川は「お前も可哀想だな」と言うが、水無瀬は自覚がないのでよく分かっていない。自分が海だと思っていた場所が水槽だったことに気づいていない。一見、幸せそうで恵まれている境遇であり、恵まれていることは事実だし、そのままでも幸せと言えば幸せだから。
 蛭川の呪縛は加害者と被害者がはっきりしているもので、誰が見ても明らかに害悪だが、水無瀬の場合は少し違う。水無瀬自身も被害者とは思っていないし、両親も先生も友人も誰も思っていない。水無瀬の呪縛は、拠り所とするスタートラインが偏った前提に立っているがために、そこから生まれる価値観や常識が偏ることで生じているものだ。伝統芸能の家庭に生まれれば小さい頃から芸の道を教え込まれるし、王族に生まれれば帝王学を叩き込まれるだろうし、時代や国が違えば生きるために小さい頃から稼ぎの術を教え込まれることもあるだろう。その環境で生きるために必要な能力を身につけさせるのは重要なことであり、あながち間違っているわけではない。多くの親は本気で子供に豊かで幸せな人生を送ってほしいと願っているはずだが、それが行き過ぎると、逆に子供の自由を奪い、不確かな未来のために二度と戻らない今を犠牲にして、心を貧しくむしばんでしまう。それが現代社会の歪みなのだと思う。日本の多くの家庭で見られることではあるが、水無瀬の母は、子供が社会を渡り歩いて成功していけるように高い学力と処世術を身につけさせ、その代わりに他のことは切り捨てている。成功と正解のための最短ルートを効率的に歩ませているということだ。スタートとなっている前提が正しいと思えば、その世界の常識も正しく見える。前提がおかしいと思えば、その世界の全てがおかしく見える。自分の世界以外の常識が見えないこと、それが呪縛なのだと思う。蛭川の場合は本人も呪縛から逃げたいと思っているのだが、水無瀬の場合は本人は呪縛から逃げたいと思っていない(気付いていない)ので、ちょっとやそっとでは抜け出せず、体に染みついた呪縛の思考回路にすぐに戻ってしまう。
 その一見分かりづらい呪縛に対して、蛭川が少しずつ別の世界を見せながら、本来の世界の広さに気づかせてくれる。水無瀬は、自分にも自由に羽ばたけるはずの翼があることに気づく。狭い世界の常識やあるべき正解にとらわれることなく、もっともっと好きなものを好きなように求めて、自由に飛び立っていいのだと。

 人によって、自分の中に蛭川の要素があるか、水無瀬の要素があるかは異なると思うが、多かれ少なかれ、透明なガラスの中で少しずつもがいているのではないか。普段は気づいていなくても、二人のストーリーを追いかけているうちに、蛭川が、水無瀬が、心に語りかけてくる。君は強いね、でも強がらなくていい、我慢しなくていい、弱くったっていい、可哀想だな、一人で背負うな、もっと頼っていい、わがままを言っていい、ありのままの君でいいよ、幸せになっていい…そんなメッセージがペットボトルの水のように体の奥の方までゆっくりしみわたっていく。


 といったようなことが急に腹落ちしてきた矢先に、前回のブログに対するコメントを、なんと中国の方から中国語でいただいた。中国語は読めない私だが、スマホの翻訳機能を使って読ませていただいた。その方は、私のブログを中国語に翻訳して読んでくださったそうだ。こんな拙い長文を翻訳の手間までかけて読んで下さる方がいることが非常に嬉しかったし、すごい時代になったもんだと感動した。いただいたコメントを訳してみたところ、その中に「私は双方向救済文学が大好きです」という言葉があった。「双方向救済文学」…聞いたことのない表現だったが(私が無知なだけかも)、意味はとてもよく伝わった。こういう時、漢字って素晴らしい!!とてもいい表現だなと思った。そうか、これは確かに双方向救済文学だよな。蛭川と水無瀬、お互いがお互いを救済している。だからこそ、見ている私たちも救済されている。
 主題歌「SAVIOR」が歌うとおり、「君は僕の救いだ」なんだなと改めて思う。さらにもう少し掘り下げてみると、蛭川と水無瀬とでは救い方や救われ方が少し違う。蛭川に対しては「お前は一つも悪くない」「無理に一人で背負おうとしなくていい」「愛されていい」、水無瀬に対しては「あるべき形にとらわれなくていい」「ほしいものをほしいと言っていい」「愛したいものを愛していい」。共通しているのは「ありのままの自分のままでいい」「誰かに頼っていい」ということ。素のままの自分をさらけ出しても、君は十分に愛される資格がある。そして、自分のままの自分が、誰かの救いになれる。どうか、ありのままの自分でいることに臆病にならないで。


 救い救われ、愛し愛されていく双方向救済文学に自分の魂も救われる。その浄化作用が心地よくて、多くの人が心を掴まれているのだと思う。BLであるとかないとか関係なく。ただ、どうしても、BLであることで見る機会を逸している人がいるのは否めないと思うので、その点は少し残念に感じる。正直なところ、私も全く無縁の人間で、それこそ今まで一度たりとも交わることのない海に住んでいたから、今回なぜ出会えたのかと奇跡的な運命すら感じている。誰かが引き合わせてくれたのだとしたら、今の私に何か救いが必要だというメッセージなのだろうか。自分の中の水無瀬がずっと封印している何かを開いてみてもいいということなのか。今このタイミングで出会わせてくれたことに最大限の感謝を伝えたい。

 

***

 最後まで長文をお読みいただき、ありがとうございました。さすがに今回の感想が最終回かなと思います。が、最終回と思ってから3回追記していますのでどうなることやらwww 大好きな作品、今後も大切に見ていきたいと思っています。

「未成年」①→ 未成年① - えとりんご

「未成年」②→ 未成年② - えとりんご

「未成年」③→ 未成年③ - えとりんご

「未成年」④→ 未成年④ - えとりんご

「未成年」⑤→ 未成年⑤ - えとりんご

 

 また、以下のページは、作品の考察ではなく、ドラマ「未成年」を取り巻く現実世界で3月4日に起きたことについて、自分の思うことを書いたものです。読める方、読めない方いらっしゃると思いますが、少しでも思いを分かち合えれば嬉しいです。

未成年 〜3月4日のこと〜 - えとりんご

未成年 〜抱きしめ合った軌跡〜 - えとりんご

未成年⑤

 ドラマ「未成年」の感想、さらに続きです。いつも以上にネタバレでしかありませんのでご注意下さい!(これまでの感想はこちら。①→ 未成年① - えとりんご 、②→ 未成年② - えとりんご 、③→ 未成年③ - えとりんご 、④→ 未成年④ - えとりんご ) 


未成年×2話×6話×8話×言葉
  気づいた時には随分と「未成年」の沼に沈められていた私だが、実はずっと理解に悩む箇所がある。かなり重要な部分なのだが、今も正解に辿り着いているかどうか分からない。
 それは8話の別れのシーンを見た時に、二人の想いは通じ合っていたんじゃなかったのか?あれだけのキスとあれだけの夜を過ごしてもなお、相手の気持ちを信じられなかったのか…?という思いを抱いてしまうということ。
 もう初見の新鮮な感想には戻れないが、6話の蛭川の実家での夜を過ごしておきながら自信が持てないのはなぜなのか、好きじゃなければあの夜は過ごさんのでは…と思ってしまう。いや、どんだけピュアな幻想女子だよと思われるかもしれないが、決してそんなピュアなお年頃ではございませぬ。
 それとも8話の別れは、両想いだと二人とも分かっていたのに別れを選んだということなのか?いや、そんなことはないよね。二人とも自分が好きなことは自覚しているけど、相手の気持ちには自信が持てていない。特に蛭川はそう見える。
 好きと言ったら離れてしまうかもしれなくて怖かった…?いやいや、好きじゃなかったら、少なくとも水無瀬はあの夜を過ごさないでしょうよ。夕方にあの会話を交わし、夜を過ごし、朝を迎え、恋人つなぎをして、それでも水無瀬の気持ちが分からなかったというのか。それは蛭川があまりに不器用…だし、それを通り越して、水無瀬が可哀想に思えてしまった。水無瀬は困惑しながらも、徐々に心を開いて蛭川の求めに応じたところも大きくて、水無瀬も蛭川を好きだと自覚したからこそ自分からキスしたんだと思ったし、肌も合わせたんだと思っていた(個人的には肌を合わせただけという解釈)。

 別れの時に、蛭川が「元の水無瀬に戻っていいよ」「友達になってくれてありがとう」と言うのは、もちろん水無瀬から離れる決意を必死に貫くための台詞だ。でもこれを急に聞かされる水無瀬はどう受け止めたんだろう。水無瀬は蛭川を好きだと自覚していて、きっと蛭川の気持ちも感じていたはず。水無瀬は、蛭川が自分のことを好きでもないのにキスしたり肌を合わせたりしてると思っていたのか?自分との接触を欲で求めてると思っていたのか?欲だけだと思ってたなら、ゆるしたりしないんじゃないか。「男同士だから好きになったりしない」と言葉では否定されているけど、自分への思いがあると思えたからゆるしたんじゃないのか。一番肝心な本音は言ってくれないけど、心でわかるように蛭川が何度も何度も教えてくれたんじゃなかったのか。
 それを友達でありがとう、なんて言われたら、蛭川が自分の前から消え去ってしまう傷心に加えて、「あのキスは、あの夜は何だったのか?」「好きだと思ってたのは自分だけだった?」「やっぱり好きとキスは別だった?好きとあれも別なのか?」といったショックが押し寄せて立ち直れないトラウマになるのではと思ってしまう。
 そりゃね。世の中の男女カンケーではそういうことはゴマンとありますよ。こっちは本気だったのに相手は体だけの関係だったのね、みたいなこと。ショックで泣き明かしても、男を見る目がなかったね、みたいなことを友達に平気で言われることもあるでしょうよ。でも、この二人は同性だから求めたのではなく、この相手だから求めたのであって、それがたまたま同性だっただけという風に見えることもあって、なぜにあの夜を過ごしてもなお相手の気持ちを信じられなかったのが私の中で腑に落ちていないのだと思う。蛭川は本当に分からなかったのか?6話のそれぞれの思いが分からなくて、ずーーっとこんな風にこじらせている。実は本当に私がピュアすぎるのか?この年にして?笑


私が解釈する8話を水無瀬の心情入りで書き出してみた。

塾の帰りに突然蛭川が来た。家に入るのかと思ったら入らない。(ちょっとくらい家に入ればいいのに。俺もゆっくり話したい。)
ちょっとじゃ済まないから。(別に済まなくても構わない。)
公園で話をした。実家近くの高校に転校するという。(そうなんだ。二学期になれば学校で会えると思ってたけど、そりゃそうなるかもな。寂しくなるけど仕方ないか。)
「もう俺大丈夫だから、元の水無瀬に戻っていいよ」(は?何だよそれ。元の俺って何だよ。大体戻るなんて無理だよ。)
「いい大学行って、いい会社行って、それが水無瀬仁の夢でしょ」(そんなの夢でも何でもない。っていうか、元の俺ってそれなのか?)
「迷惑ばっかりかけた」(迷惑だなんて思ってない。)
「水無瀬は優しい」(全然優しくなんかない。ただの子供だよ。というか、これ何の話?)
「俺ちゃんとした大人になりたい。だから一回全部捨ててみる」(どういう意味?捨てる?何を?全部って?)
「だからもう連絡しない」(え?どういう意味?遠く離れるだけじゃなくて、連絡も取れなくなるってこと?さっきの全部って俺のことも捨てるってこと?)
「水無瀬ありがとう。俺と友達になってくれて」(え?ありがとうって何?もう終わりってこと?友達になってくれてって、俺は友達になってやったとかじゃなくて、俺も一緒にいたかったから一緒にいたんだけど。大体、友達?俺と蛭川は単なる友達だったのか?俺は単なる友達とは思ってなかったのに、蛭川は友達だと思ってたってこと?)
「じゃあ行くね」(え、これでもう会えなくなるってこと?)
「蛭川っっ!俺っ!俺っ…!!」(花火が上がらなければ、ここは何を言おうとしたのか。俺は蛭川のこと、友達なんかじゃなくて本気で好きだったよ!とか、行かないで!!って言いたかったのだろうか。)
「ううん。元気でね」(蛭川が新しい場所で全部捨ててやり直そうとしてるんなら、それを邪魔しちゃいけない…。行ってほしくないけど、それは言っちゃいけない。というか、蛭川に全部捨てるって、連絡しないって言われたんだから、俺にはそんなこと言う権利もないか。)

苦しい。青春の1ページは苦しすぎる。


 6話と8話と、ついでに2話を散々こじらせてようやく気づいたのは、私は水無瀬タイプなんだなということ。(あぁん?←ちょっとガラ悪い水無瀬の台詞。大好き。)
 水無瀬は言葉を言葉通りに受け取るタイプなんだなと。蛭川は考えるな感じろのタイプ。私が6話をずっと理解できないのは、私も水無瀬と同じで、言葉を言葉通り受け取るタイプだからなんだと思う。私も蛭川にゆっくり教えてもらわないといけないかもしれない(何を?)
 少し別の話だが、8話で水無瀬が蛭川の部屋で水の音のDVDを発見する場面がある。階段を降りてきた水無瀬が、スマホを開いてじっと見つめてから右手でギュッと握りしめる。私はこの場面は、水無瀬がホーム画面の蛭川の写真を見て蛭川への想いを再確認した場面だと感じた。SNSでそれを話題にしたところ、「蛭川に電話をかけようとしたんだと思っていた」という意見があった。確かにスマホのメイン機能は電話(やLINE)だ。なのに、私の脳内には電話をするという選択肢が全く浮かばなかった。なぜなら蛭川が「もう連絡しない」と言ったから。水無瀬から連絡するという選択肢は完全に排除していて、思い浮かびもしなかった。自分がいかに言葉を言葉通りに受け取るタイプであるかを痛感して苦笑してしまった。

 話を戻すと、言葉通り受け取る水無瀬は「行かないで」と言われたら行かないし、「好きになったりしない」「男同士でしょ」「もう連絡しない」などと言われると真に受ける。さらに水無瀬は、言語化できない行動や感情は落ち着かない。だから、蛭川に対しても「俺たちって同性愛者なのかな?」「本当にそれだけ?」と言葉で確認したくなるし、蛭川の奇怪な行動、例えば水道の水をかぶったり、ペットボトルの水をかぶったり、キスやバックハグなどの行動は意味が分からなくて何なんだよ!となる。自分の気持ちも言語化できないと落ち着かなくて、「あー暑いっ!」となる。

 2話の初めてのキスの後、水無瀬が「俺のこと好きなの?」「好きでもないやつとキスして平気なわけ?」「男同士でキスはいいのかよ!」と聞くのも、普通は男女が好きだからするはずのキスを、そうでない自分たちがしているから理解できなくて落ち着かない。百歩譲って自分のことを好きならともかく、好きじゃない男同士のキスって何なんだ!となっている。
 蛭川が「好きとキスは別」などと言うから、水無瀬は余計に意味が分からない。「そんなにやだった?」と聞かれた水無瀬の「俺は…」の沈黙は、何を考えていたのだろう。イヤだったかイヤじゃなかったか論争をするのはとても楽しくて大好きなのだが、ここではマジレスしてみると、私はこの時の水無瀬は「好きとキスは同じじゃないのかよ。俺がおかしい?」ぐらいの気持ちじゃないかと思った。高校生的にはオクテ発言はしたくないから口にしないだろうが、蛭川の行為の意味が全然分からなくて、どうしてキスしてきたのか教えてほしいみたいな感じ。
 でも蛭川は言葉では教えてくれない。その代わり、言葉では「好きとキスは別でしょ」と言いながら、好きの気持ちを乗せたキスを何度も何度もしてくる。それが蛭川の教え方。
 水無瀬はずっと意味が分からない。さらには言葉を言葉通り受け取るので、この時に言われた「好きとキスは別」「男同士でそれはないでしょ」はトゲのようにずっと刺さっているし、キスするたびに、蛭川に聞かれた「やだった?」が脳内でエンドレスに再生される。俺はイヤなのか、イヤじゃないのか、なんで俺は拒めないのか、もしかして俺は蛭川のことが好きなのか…、でも蛭川は好きとキスは別だと言うし、男同士で好きにはならないと言ってたし…と考える。ずっと答えは出ないままだが、蛭川とのキスが心地いいことを心で分からされてしまう。言葉とは正反対の行為、そして理屈で分からないままの感情を受け入れるという初めての体験をしているのだろう。それこそペットボトルの水をゆっくり含ませるように、これは何の気持ちか分かる?って蛭川がゆっくりゆっくり分からせてくる。
 6話の夕方の場面では、その気持ちが何なのか水無瀬はだんだん言語化して理解できてきている。だからとうとう水無瀬は言葉で聞くことはやめて、「キスして」と言う蛭川に水無瀬からキスしているし、肌を合わせることにも応じる。だんだんと自分の感情に気づき、心が通じ合ったり、互いのからだに触れ合ったりするぬくもりが心地いいことを分かっていったのだろう。本当は言葉で好きと確認し合いたい水無瀬だが、心で分からされているうちに、言葉こそないが、自分も蛭川も心と行動が一致していると思っていたことだろう。(水無瀬タイプの私もそう思った。)

 水無瀬は蛭川の気持ちも感じ取っていたはずなのだが、別れのシーンで「友達でいてくれてありがとう」「全部捨てる」と言われたら、言葉を言葉通り受け取るので、わずかに持ってたはずの自信はガラガラと崩れ、友達だったのか…となってしまうんだろうな。そして水無瀬は、元々自分が欲しいものを欲しいと言えない孤独な優等生なので、どんなに欲しくても、立ち去ろうとする蛭川に手を伸ばすことができない。

 では、蛭川は何で水無瀬の気持ちに自信が持てなかったんだろう。蛭川は自分が水無瀬を好きなことは自覚しているのに、その気持ちに気づかれてたとまで思っているのに、あれだけの夜を過ごしたのに、なんでありのままの蛭川に対する水無瀬の気持ちに自信を持てなかったんだろう。そのままの蛭川で十分想われていたのに。蛭川は自分が押しているから優しい水無瀬が応じてくれているだけであって、あれと好きとは同じだという確信は持てずにいたのだろうか。というより、時に淡い期待を感じたとしても、蛭川が自分に自信がなさすぎて、自分では水無瀬を幸せにできない、水無瀬は自分なんかと一緒にいてはいけない、水無瀬は自分なんか好きになっちゃいけないって思い込んで、期待を打ち消していたのだろうか。自己肯定感が低すぎて泣けてしまう。

 結局、水無瀬タイプの私には、蛭川の言葉のどれが本心でどれが本心でないのか、今一つちゃんとは理解できていないのかもしれない。今でもはっきり分かっていないのは、蛭川が水無瀬も自分のことを好きになってくれたと感じていたうえで、それでも自分がそばにいてはいけないという思いから身を引いたのか、蛭川は水無瀬が自分のことを好きだとは思えていなかったのか、という点なんだろう。
 蛭川の公園での言葉、手紙に書いた言葉、6話の熱い視線…、私もどうしても言葉通り受けとめてしまう。言葉の裏に隠れた本心を見抜いて優しい嘘や悲しい嘘を責めたいのだが、水無瀬と一緒に真正面から受け止めてしまって蛭川の本心が分からず、ずっとこじらせているのだと思う。

 不器用すぎる二人が長い時間を経て、10話で再会した時に「キスしていい?」「俺のこと好きなの?」というやり取りをもう一度交わす。進学校にちなんで、この疑問文を主語をIにして肯定文に書き換えてみると…、蛭川の「キスしていい?」は「キスしたい」、水無瀬の「俺のこと好きなの?」は「好きでいてほしい」「好きと言ってほしい」。言葉を言葉通り受け止めたい水無瀬、言葉より行動が欲しい蛭川。あぁ、実は二人ともちゃんと自分のほしいものに忠実だったんだな。
 水無瀬の「俺のこと好きなの?」に蛭川がうんと答えてくれる。そして水無瀬は水無瀬らしく、「俺も好き。高校生の時も今もずっと好き。」とちゃんと言葉で伝える。蛭川はキスがしたい。そんな蛭川に、水無瀬からキスをして押し倒す。翌朝には「俺、水無瀬のこと大事にする。」お互いにようやく思いをちゃんと伝えていて、それが相手にもちゃんと伝わっていて、何度見てもこちらも幸せな気持ちになれる。

 

***

 

 私のこじらせに長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。私は水無瀬タイプでしたが、蛭川タイプの人、中間タイプの人にはどう見えるのか興味あります。そういうところがこの作品の魅力なんでしょうね。常に新しい発見をさせてくれる作品、これからも大切に見続けたいなと思っています。

(追記)…と完結させましたが、さらに感想⑥を追加しました。。。

 

未成年①→ 未成年① - えとりんご

未成年②→ 未成年② - えとりんご

未成年③→ 未成年③ - えとりんご

未成年④→ 未成年④ - えとりんご

(さらに以下を追記しました)

未成年⑥→ 未成年⑥ - えとりんご

未成年④

 ドラマ「未成年」が私の心を捉えて離さない。「未成年」のすごいところは見るたび新しい発見がある点で、考察好きには沼でしかない。また、他の方の考察を読むと、余白の大きい作品なだけに、色々な解釈があるんだなとも思う。詩が色々な解釈を与えるのに似ている。そんなわけで、私は私の新たなる感想を追記してみたい。ネタバレご注意!(これまでの感想はこちら。①→ 未成年① - えとりんご、②→ 未成年② - えとりんご、③→ 未成年③ - えとりんご )

 

未成年×リフレイン

 このドラマには同じ言い回しの台詞が繰り返し登場することがあり、心情の変化が如実に表れて非常に印象的だった。いくつか例を挙げてみたい。

 

俺のこと好きなの?

 最も分かりやすいリフレインは、水無瀬が発する「俺のこと好きなの?」。1度目は初めてのキスのシーンで、蛭川に「キスしていい?」と尋ねられた後の「俺のこと好きなの?」 2度目は、その翌日トイレでバックハグされたあとに、「何なんだよ!お前、俺のこと好きなの?」 2回とも蛭川に「飛躍しすぎでしょ」「男同士でそれはないでしょ」と完全に否定される。3度目は本編最終話。再会後、水無瀬の想い溢れる言葉に、たまらず「キスしていい?」と訊く蛭川。そして水無瀬が声を震わせながら尋ねる「俺のこと好きなの?」

 1度目は単純な疑問。2度目は困惑と非難が混じる強い疑問。3度目はyesを期待しての確認。同じやり取りなだけに、二人の心の距離が分かりやすく、最終話で同じ台詞が再登場した時にはやっとここに辿り着いたか〜と幸せな気持ちになった。

 2話のこのやり取りで否定されてからずっと、水無瀬の中で分からないままだった蛭川の本心。あとでもう一度触れたいと思っているが、この時の否定はずっと水無瀬にトゲのように刺さっていたのだと思う。蛭川の本心は手紙で知ったものの、読んだ時には既に遠く離れてしまっていて。ようやく巡り合えたが、5年の歳月は人の心を変えるには十分な時間なので、同じ気持ちとは限らない。そんな覚悟もあったはずだが、きっと言葉にする直前に見つめ合った時には互いの気持ちは確かめ合えたのだと思う。それでも敢えて同じ会話で確かめ合う二人。2話で否定された質問であるからこそ、ここまで不器用に歩んできた二人の愛の結実を深く噛みしめることができた。

 

俺んち

 次は「俺んちに帰ろう」。これもまた水無瀬で、全く同じ言い回しではないが、何度か登場する台詞。1度目は、父親に殴られて学校を休む蛭川に対して、行くところがないなら「うち来る?」 2度目は、蛭川の母の家に行ってピクニックした後に、やや強い口調で誘う「帰ろ!俺んちに帰ろう!」 3度目は、再会を果たした酔っ払い水無瀬が、蛭川の肩にポスっと頭を預けて言う「かえろっ。おれんち。」

 1度目は同情、に近い感情だと思うが、無意識に蛭川に心を開き始めた水無瀬。2度目は怒りと庇護欲。蛭川と母の会話に理不尽さを感じた水無瀬が、蛭川を今の場所から救い出して、自分が居場所になりたいと明確に思った台詞。3度目は、酔っぱらって本音がだだ漏れた水無瀬。蛭川を救い出すとかではなく、自分が一緒にいたいという気持ち。

 水無瀬は意識していないが、水無瀬にとっての「俺んち」は物理的な自分の家というだけではなく、心の中のパーソナルスペースとほぼ同義だ。普通、高校生で一人暮らしをしていたら、たまり場になってもおかしくないと思うが、どんなに仲が良くても根本や柴も入れさせていなさそうだ。何かの理由で招き入れることがあったとしても、俺んちに「帰ろう」という誘いにはならないはずだ。以前も書いたが、水無瀬は鉄壁の内堀でもって他人の侵入を防御しているタイプで、自分のテリトリーに人が入るのは落ち着かない。その水無瀬が、蛭川には侵入を許し、そしてさらにはむしろ侵入を望む…その心の動きが一連の「俺んち」のリフレインに表れていた。

 

やだった?

 リフレインと言うより対比くらいの回数しか登場しないが、これまた初めてのキスの翌日にトイレで、「男同士でキスはいいのかよ!」と責める水無瀬に対して、蛭川が尋ねる「お前は?そんなにやだった?」 水無瀬は勢いよく聞いたものの、面と向かってイヤかと聞かれるとイヤとも言えず、「俺は…」と口ごもる。

 この時の水無瀬は何を思っていたのだろう。水無瀬にはこの「やだった?」という想定外の質問がくさびのように打ち込まれていて、キスがイヤだったのかイヤじゃなかったのか、イヤじゃなかったのはなぜなのか、この後もずっと自問自答していたのだと思う。キスされる度に、そしてそのキスを思い出して唇に指で触れる度に、蛭川の「やだった?」がリフレインしていたのかもしれない。

 この「やだった?」が何と対比しているかというとアフターストーリー。やだったのかどうか、ずっと自問自答していた水無瀬が最後の最後のアフターストーリーでは、「やなの?」「やじゃないぃぃ」とデロデロになって答えるわけだから、対比が利きすぎてて本当に死ぬかと思いましたです。

 

 対して蛭川目線。2話の「そんなにやだった?」は寂しげで、モノローグのとおり、受け入れてくれるんじゃないか…という期待と拒絶されるかも…という不安が声に入り混じっている。見た目や台詞の恋愛慣れしてます感とは裏腹に、ドキンドキンしてる蛭川が可愛い。

 そこから数年後のアフターストーリーの「やなの?」は………なんなんですかね!!イヤじゃないの分かって焦らしてるドS蛭川になってるんですよ!「やなの?」だけでも相当な破壊力なのに、メロメロになってる水無瀬を引き剥がして確認してますからね。そりゃあもう純政だって唇が探しちゃう!(役名で呼べ!)ほんと何ですかコレ!どこがオクテキャラ設定なんですか!!!再会から5年のうちに、蛭川をこんな設定にした水無瀬おそるべし!!(え、水無瀬のせい?)ええ、水無瀬のせいです!あんなに自信のなかった蛭川が水無瀬に愛されてる実感を持てているので、蛭川は心のままに水無瀬を求められるし、水無瀬に求めさせられる。水無瀬もちゃんと自分の気持ちに正直に求められるようになってるから、さらに蛭川は自信を持てるし昂るし、水無瀬を強く求める。そのエンドレスループ。あの水無瀬を、ほしいものをほしいと一切言えなかった水無瀬をこんな風にしてもいいんですか?!いいんですよ、いいんですよ!そんなの蛭川のせい〜~!でしかないし、嬉しいことこの上ないんですよ!!でも、こちとら放送終了後に見始めたもんで、しかも8話くらいからアフターストーリーまでは深夜一気見したもんだから、高校時代の不器用な二人からの急成長ぶりに心臓ついていけず、ぴぇぇぇぇぇぇぇ~~~ってなりましたね。頼むから、もうホント頼むから永遠に続けてください!え?ちょっと変態っぽい??おかしくてごめん!!

 

まとも

 変態のあとに「まとも」の話を持ってきちゃった。皆さん、ついてきて下さい笑笑

 リフレインとはまた少し違うが、場面を離れて呼応している言葉も非常に印象的だった。まとも、について書いてみたいと思ったのは最終話を見てのこと。おんぶのシーンで、お互いに会えなかった時期のことを尋ね合う。水無瀬は「まっとうに生きてたよ。第一志望の大学入って〜留学して〜…… 」、 蛭川は「俺もまともに生きてたよ。」 この時にふっと違和感を感じた。水無瀬はまっとう、蛭川はまとも。まぁ意味はほぼ同じなのだが。

そこで思い出すのは高校時代の会話。6話の海で水をかけ合うシーン 。

蛭川「俺、まともになりたい」

万引事件で停学に追い込まれそうなシーン。

水無瀬「まともになるんじゃなかったのかよ!」

ノローグでも「そもそも俺がもっとまともな人間だったら…」

 

 蛭川が水無瀬から離れると決めたのは、全てを捨ててリセットするため。水無瀬に釣り合う人間になるため。水無瀬と釣り合う人間とは、まともに生きる大人。それが水無瀬と交わした約束だから。まともになれなかったら、また水無瀬を失望させてしまうから。

 そう考えると、水無瀬に再会した蛭川がすぐに伝えるのが「まともに生きてたよ」なのはめちゃめちゃ健気だなと思った。会えるかどうかも分からない水無瀬に釣り合う人間になるために、蛭川はずっとまともに生きてきたし、かつ、その約束を守ってきたことを水無瀬に伝えたい素直な蛭川がいじらしくて、胸がキュっとなった。おんぶしながら回想シーンが流れるが、雨の中玄関前で待つ場面でもきっと、高校時代の「殴られればまたかわいそうって思ってくれるかな」と同じように、「まともに生きられるようになったからまた会ってくれるかな」と純粋に思って待ち続けたんだろうなと。

 

 

未成年×「花瓶」×ココラシカ

 エンディングテーマであるココラシカさんの「花瓶」の歌詞が秀逸で、ずっと意味を噛みしめながら反芻している。MVには本島純政君が登場しており、蛭川と離れ離れになった水無瀬の心情を描いたものでもあるそうだ。(曲と歌詞はこちら→ - YouTube ) 

SNSにとある書き込みがあり、2番の歌詞の

 会えない日々たちに 救われてしまいそうで

はどういう意味なのかという問いかけがあった。私も音だけで聴いていた時はずっと「掬われて」だと思っていて、会えない日々が悲しくて足元が波にさらわれるようだ、といった気持ちだと思っていたが、歌詞を見ると「救われて」なので、これはどういう意味かと考えていた。

 突然に別れがやってきて、悲しみに押し潰されそうになる。でも人は何とかして正常な精神を保とうとするから、勉強や学生生活の日常で悲しみを紛らわせてる。時間が経つことで少しずつ悲しみも和らいでいく。時間が悲しみを癒してくれるクスリ。でもその時間っていうのは、「会えない日々たち」が紡いでいるもの。

同じメロディーの一番の歌詞はこうなっている。

 会えない日々たちを どう愛すればいいの

愛せないはずだった「会えない日々たち」に救われてると感じてしまう自分が哀しい。だって自分が本当に欲しいのは「会える日々たち」だから。「会えない日々たち」なんかに救われたくない。「会えない日々たち」に救われているうちに、会えない日々が本当に正しい世界になってしまいそうで。「会える日々たち」が正しい世界のはずだから、辛くても「会えない日々たち」に救われたりせずに、痛みが真正面から突き刺さるとしても、会えるはずの日々たちに身を置いてたい。

この歌詞はさらに続く。

 君を思う日々が 明日を紡いでいく

さらに時が過ぎると、「会えない日々たち」であることに変わりはなく、「会える日々たち」の世界線に戻れたわけではないけれど、「君を思う日々」たちであると思えるようになる。そう思うことで、色を失った日常も少しずつ色を取り戻し始める。

 悲しみに向き合うのは容易ではない。愛が深ければ深いほど喪失は大きい。なぜなら喪失とは、今この瞬間隣にいないだけではなく、あるはずだった未来が突然失われることだから。

 「大丈夫。悲しみは忘れられるから。」 昔、私自身がかけられた言葉。絶対に忘れられるわけがないとその時は思ったが、真実だと知った。忘れる…それは人間が持つ偉大なる力。忘れる力がなければ人は前を向けない。でもさらに思い知る真実もあった。悲しみは忘れられる。でも思い出は忘れない。忘れるのは悲しみだけ。

 「水の音」の下りを思い出す。少し台詞を変えると、「悲しみを乗り越える人もいれば、悲しみに侵食される人もいる。この曲はその全てを肯定してくれる。」…「花瓶」の歌詞を見て感じるのはそんな思いだ。人はいつかはきっと悲しみを乗り越えていく。でも乗り越えられない時は、悲しみの渦の中で、あったはずの温もりを感じて過ごせばいい。救われてしまわなくたっていい。そして、いつか悲しみが薄らいだとしても、愛する人との思い出は薄らいだりしない。君と出会えた奇跡、君との時間が教えてくれたことが明日の自分を強くしてくれる。水無瀬の5年間が痛いほど切ない。

 そして現実世界にいる私たちが今、この「花瓶」の歌詞の意味をなぞるように理解できてしまっているのが苦しいほど切ない。

 

***

 

 もう一つ書きたいテーマがあったのですが、長くなりすぎて収まらなくなりました。⑤に続きます…

 

未成年①→ 未成年① - えとりんご

未成年②→ 未成年② - えとりんご

未成年③→ 未成年③ - えとりんご

 

未成年⑤→ 未成年⑤ - えとりんご

未成年⑥→ 未成年⑥ - えとりんご