えとりんご

観劇の記録。ネタバレご注意を。この橋の向こうにジャコブ通り。

エリザベート ②トート

 前回に続き、「エリザベート」を考察していきたい。サブテーマは「難易度別 エリザベートの世界!」。自分の中での解釈の難易度(独断度とも言う)を★で表している。今回は最難関のトートに迫ってみたい。(※ネタバレご注意ください。)

 

トート

トート=死 (難易度:★★)

 

 トートは一体何者なのか―――この作品の難解さはやはりこれに尽きる。「エリザベート」は、黄泉の帝王トートが人間であるエリザベートに愛を抱く物語。「黄泉の帝王」という響きからは、人の生死を操り、その指先一つで人を死の世界に追いやることができる存在といったイメージを受ける。その目線でずっと「エリザベート」を見てきた結果、今ひとつ理解しきれない感覚があった。

 今期の「エリザベート」を見ていて、ふと「トート=死」、即ち帝王というより死を擬人化した存在ということがストンと腑に落ちた瞬間があった。事故に遭えば死がよぎるし、もうこんな人生は嫌だ!と叫べば、死への扉をたぐり寄せてしまう。死の世界は暗く不気味で、でもどこか耽美で吸い込まれそうな魔の魅力もある。自分の心が強ければ拒絶もできるが、逃れられないほど絡め取られてしまう時もある。死が自分を絡め取りにきているのか、自分がそういう妄想を生み出すことで死から逃れられない言い訳を作り出しているのか。

 

 「トート=死」と考えると、脆く崩れそうになるシシィの元にたびたびトートがすり寄ってくるのも理解できるし、シシィの自我が覚醒したあとは辛い場面に出くわしてもトートを一蹴して追い払うのも理解できる。いや、むしろトートを呼び出しているのはシシィなのではないかと思えた。

 トートがシシィの作り出したイマジナリーフレンドかと言うと少し違う気もするが、トートは自身の意思を持った存在として人間の目に見えない世界に生きている人物という側面もあれば、誰しもが持っている精神世界の中で作り出されている存在という側面もあると捉えた方が、私にはしっくりときた。

 シシィは最後の最後にはトートの元へ向かうことを理解はしていながらも、トートを逃げ場にしてはいけないことに気づいている。ルドルフを亡くした後、トートに拒まれる場面が印象的だ。シシィは息子を死に追いやってしまった自責の念に駆られて押しつぶされそうになっているわけだが、それでも死に逃げるなと、生の世界に追い返したのは他でもないシシィ自身の魂だったのではないかと思えた。

 

ラストシーン(難易度:★★★)※特にネタバレ注意

 

 「エリザベート」を難解にしている最大の原因はラストシーンだろう。宝塚版と東宝版とではラストシーンの描き方が全く違っている。ルキーニに暗殺された後にシシィとトートが黄泉の世界の入口のような場で邂逅することには変わりないが、東宝版ではシシィが少女期のように天真爛漫に晴れやかな表情で歌い上げ、トートはどこか戸惑いの表情を見せ続ける。それまでずっとトートがシシィに執着していて、シシィがそれを拒んできていた関係性であったのが、どちらかというとシシィが嬉々として飛びついてくるのを受け身で呆然と抱きとめるようなトート。愛の口づけ、つまりは死の口づけを交わしたことでシシィの命が果てると、トートは大切なものを抱えるようにして棺の板にもたれかけさせる。そこで振り返ったトートの表情には、シシィを黄泉の世界に迎えた喜びや満足感ではなく、戸惑いの色が浮かぶ。観客は、え、トートが望んでいた結末ではないの…と困惑するうちに暗転し、そのままカーテンコールへと流れる。え、え、どういうこと?という観客の問いには誰も答えてくれない。

 宝塚版では、トートとシシィが結ばれて微笑みながら天に召されていくような演出だったので、それはそれでファンタジーとして成り立つと感じるが、東宝版では死が愛の結末でもなく、逃げ場でもなく、未来でもなく、一つの終わりであることを描いていて、多様な解釈の余地を観客に残してくれる気がしている。

 初回の観劇から20年を経て、今期の私は以下のような解釈に辿り着いた。

 

 先に書いた通り、シシィの人生は不自由で、常に死への不安、覚悟、時には一種の憧れを抱いていて、でもむしろ死なずに生き抜くしかないと思い留まるために、トートが存在していたのだろう。もっと言うと、シシィがそういうトートを作り出していたのだと思えた。

 これまではもっとファンタジー的なストーリーと理解しており、目に見えない黄泉の世界から人間界にやってきたトートがシシィに一目ぼれする話としてそのまま受け止めていた。しかし、シシィが精神世界で抱く死の概念がトートとして表出したものと捉えると、いざとなれば甘美な死の世界が自分を待っていると思っていたことも窺えるし、また、その死の求愛から逃れるため生に縋りつくことで自分の精神を保っていたのだとも思えた。と同時に、トートにも意思があるとすれば、手中に収めたいと迫りながらも、本心では人間として生き続けるシシィを愛しく思っている構図が思い浮かぶ。トートはシシィを死へいざなっているように見えて、実は死の世界にやってくることを避けていたのではないか。

 トートが自分の愛を全うしてエリザベートを死の世界へ招き入れてしまうと、自分の愛した生きたエリザベートはいなくなってしまう。もしかしたら、エリザべートが作り出したトートも同時にいなくなってしまうのかもしれない。トートとシシィの愛は永遠に成就できない定めにあるのだろうか。そう考えると、ラストシーンでのシシィの無邪気さに対して、何とも言えない表情を見せ続けるトートが切なく愛おしくてたまらない。

 

 

誰のトートなのか(難易度:★★★)

 

 そもそもシシィが見ていたトートと、ルドルフが見ていたトートは同じ人物だったのだろうか。ルキーニが見ていたトートや、フランツが悪夢の中で出会ったトートは同じ人物なのだろうか。それぞれの人物が内に創り出す「死」の概念、時に恐怖だったり時に憧れだったりするその感覚、それがトートなのだとすると、一人の人間から見えるトートはその人だけのトートのようにも思う。だから、あのトートはシシィだけのトートなのかもしれない。

 この物語は全てルキーニが創り出したものという捉え方もできると思うが、私はトートを創り出しているのはあくまでもシシィで、ルキーニがそれを想像して語っている構造だと受け止めている。ルドルフにもトートが訪れているが、あれはルドルフのトートであると同時に、シシィのトートでもあって、シシィの目線で見た時に、ルドルフを連れ去ったのはあのトートになるということだと思っている。

 では、フランツの悪夢に登場するトートやルキーニに刃物を渡すトートはどうか。これは難しい。トートがシシィを本当に死なせたいのか、実は生きさせたいのかという観点で考えると、あの場面では本気で死なせる方向に向かっているので、我々が見ているのはフランツのトートであり、ルキーニのトートでもあるようにも思えるし、トートが独立した意思を持っているようにも見える。それとも、あれもシシィ目線で見た時のトートであって、悪夢の時点では既にシシィがもう人生を終える覚悟を持ちつつあったということなのだろうか。

 悪夢の場面については私の中でまだ結論が出ていないが、ラストの白い衣装のトートは紛れもなくシシィのトート。シシィの死後、シシィとトートは同じ世界線に存在するのだろうか。トートの言う永遠に終わらない世界の中で、二人は愛を交わし合うのだろうか。実は、シシィの死とともにトートの存在意義も消え失せてしまうのではないか。あのエンディングの瞬間に、ああ、もう少しこの続きを見せてほしいと手を伸ばしたくなる。この余韻がたまらなく心地よい。

 

 

ウン・グランデ・アモーレ(難易度:★★★)

 

 ルキーニが叫ぶ。

 皇后は死を愛し、死も皇后を愛していた。

 ウン・グランデ・アモーレ!偉大なる愛だ!

 

 死と人間が愛し合う…この意味を理解することは難しいが、人間が死を見つめることはある。日常、何事もなく暮らしていたら死を意識することはないかもしれない。だが、病、天災、事故、悩みに直面した時、人は死を意識する。死がこんなにもすぐ隣にあったのかと思い知らされることもある。死と向き合うこと、それは取りも直さず、生と向き合うことだと私は思っている。自分であれ、近しい人物であれ、生には必ず終わりがある。いつか訪れる死を考える時、今この瞬間の生を見つめるしかない。死を愛することが死を受け入れることだとすれば、それは生から逃げることではなく、生を愛することでもあると感じる。

 シシィは最後まで孤独な人生だったと思うが、生を切り捨てて死に逃げたわけではなかった。「私を帰して!」「いやよ、逃げないわ~」「まだあなたとは踊らない!」「お前はまだ私を愛してはいない!」…死を意識する場面で、トート(=自分)と交わす魂の会話の数々。時に死から逃げ、時に死に拒まれながら、シシィは生き抜く道を必死に選んできた。最後の場面でも、周囲の環境や絶望感に振り回されて死に逃げたのではなく、踊る相手を自分で決め、愛くるしい笑顔でトートに向かっていったわけで、最後の最後には死を愛せた、つまり自分の人生を愛せたということなのかもしれない。シシィの最後の歌声が心に響き渡る。

 泣いた 笑った くじけ 求めた

 虚しい戦い 敗れた日もある

 それでも 私は命ゆだねる 私だけに

 

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 20年経って新たな印象をもたらしてくれる「エリザベート」はやはり不朽の名作なのだろう。トートの新たな解釈が思い浮かんだのも、フランツの印象が大きく変わったのも、自分の視点が変わったことによるものだと思う。まだ私は姑の立場にないが、その立場に立てばゾフィーの気持ちも多少理解が増すのかもしれない。観客もキャストも解釈は一様ではなく、多面的でいいと考えているし、自分がその時その時に舞台から受けた印象を大事にしたい。今の私の精神状態で、今期の「エリザベート」に出会えたのは一つのめぐり合わせだと思う。また次に会う時には新たな発見があるかもしれない。そういう新鮮な期待を持てる演目は少ないので、今後も大切に観劇していきたい。

 今期も素晴らしい「エリザベート」を有難うございました。