えとりんご

観劇の記録。ネタバレご注意を。この橋の向こうにジャコブ通り。

イザボー ②

 イザボー考察第二弾。ネタバレご注意ください。

(第一弾はこちらから→ イザボー ① - えとりんご

 第一弾では人物別に感想を書いたので、今回はストーリーなど全般的な内容について書いてみたい。まずは、印象に残った歌詞から。


これは生存戦略なのよ


 劇中ではそれほどメジャーな楽曲ではないが、イザボーがルイに対して「これは生存戦略なのよ~」と歌う歌が印象的だった。あぁ、これは全て生存戦略の話だよな~と腑に落ちた。イザボーだけではなく、ルイもジャンもフィリップもヨランドも、劇中には出てこないイングランドの王たちも。

 生きるか死ぬか、食うか食われるかの時代を生きているわけで、生き残るためにはあらゆる手段を使う必要があった。それが彼らの生存戦略だったのだろう。滑稽にも非情にも見える部分があるが、気を抜くと敵に出し抜かれ、死と隣り合わせなのだから仕方がない。

 この生存戦略の中で勝ち負けがあり、生死があるわけだが、結果的に勝ち残っていったのは実はヨランド妃なのではないか。他の登場人物のような王族の血筋ではないが、実は非常に強かにパワーバランスを見極めている。ブルゴーニュ公ジャンの子に我が子を政略結婚させたり、その後婚姻を解消していたり、また、次にはシャルル6世とイザボーの子を娘婿に迎えようというのだから実に抜かりない。その婿シャルル7世が王太子になったことや、救世主ジャンヌ・ダルクの登場などは、運命の巡りあわせによるところもあるが、全てがヨランド妃にとって良い方向に進むことに驚きを隠せない。「女は血で戦う」と言ったヨランドの台詞が急に重みを増してくる。イザボーにシャルル7世との婚姻を申し出る場面では、普段は隠している爪を急に尖らせるかのような凄みがあった。これがヨランドの生存戦略なのだなと。


夢は消えて


 1幕前半で、夫が発狂したうえ、政略結婚の道具だと言われて打ちひしがれるイザボーが歌う「夢は消えて」。望海さんの歌声が美しく響くナンバーだった。これが、1幕後半にリプライズの形で出てくる。イザボーがルイと結託して、政権を事実上掌握する場面だ。歌詞を比較してみたい。


(1幕前半)

 夢は消えて 心 何が残るのか

 夢は消えて 心 冷たく氷のようで


 鳥かごの中 一生過ごす 小鳥みたいに

 何も知らず ただ生きるだけ 人形のよう


(1幕後半)

 夢は消えて 心 熱く燃えるようで


 もう迷わない 私は生きる

 誰に何と罵られようと

 それが人の道でないというのなら

 私は人であることをやめよう

 私は美しい獣となろう


 氷のように冷たかった心が、燃えるように熱くなる。人形のように小鳥のように「ただ生きるだけ」だった自分が、人であることをやめて獣として「生きる」と決意するイザボー。目に強い光が宿り、覚醒する様子は圧倒的なパワーを感じる。しかし両方に共通するのは「夢は消えて」。獣として生きると決めたイザボーでも、夢は消えたままなのか。ここで言う夢とは何なのか。前半の歌詞を思い返してみると、「誰よりも幸せになると 花や鳥たちによく聞かせていたわ そんなささやかな夢を」。夢とは幸せになることで、消えてしまったところを見ると、シャルル6世との愛、そして自分らしさなのだろうと。愛を失っても、生きる。獣と言われようと生き抜く。その決意が強く神々しい。でもどこか少し哀しい。しかし、そんなこちらの感傷に挑みかかるように、「私は絶対に負けない」「悲劇のヒロインになるつもりはないわ」と言い放つイザボー。愛とせん妄が引き裂く運命であったとしても、それに潰されることなく、別の幸せを掴んでほしい、いや貴女なら絶対に掴める、そう思わせる1幕ラストの幕切れに鳥肌が止まらなかった。

復讐だ

 1幕最後のソロでイザボーは歌う。

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 私を不幸たらしめるものへの 復讐だ

 イザボーの復讐とは何だったのだろう。そしてその復讐は成功したのだろうか。復讐という言葉の響きは、自分を不幸にした相手を不幸に陥れて恨みを晴らすことを連想させる。事実だけを見ると、フィリップもルイもジャンも死に、フランスという国をも絶望に陥れているので、復讐が達成されたかのように見える。しかしイザボーがこれを復讐と捉えて実行したとは思えなかった。イザボーの復讐は、周囲の人間に仕返しをすることではなく、自分が幸せになることによって、これまでの不幸を見返してやるということだったのだろう。これが、「稀代の悪女」と評される人物が、単なる「悪女」だったわけではなく、どこか人間味や哀しみを背負う女性だったという印象につながる理由なのだと感じた。
 ではイザボーが幸せになれたのかどうか。愛の観点で見ると、終盤で王と王弟が話す通り、幸せにはなれなかった。だが、人生という観点で見ると、運命に屈することなく、自分の思うように生きることはできていて、運命への復讐は果たせたのではないかと思う。


私は生きた


 物語の最後の場面でイザボーとシャルル7世が歌う曲も非常に示唆に富んでいる。


 全ての栄華は私のもの

 (全てが滅んだ)

 全ての富は私のもの

 (全て失った)

 全ての希望は私のもの

 (希望は朽ち果て)

 そして 全ての絶望も

 (あなたは歴史から)

 私のものだった

 (消えた)


 私は生きた 私は生きた


 冒頭の登場シーンでイザボーが爆発的なロック調で歌う曲と同じ歌詞だが、メロディーが全く違う。こう書き出してみると、イザボーの歌をシャルル7世が全て否定していて、非常に辛辣ではある。しかし、これが人生の真理でもあるとも思う。人は形あるものを追いかけ、富や栄華を夢見て生きるが、最後に死ぬ時には全て消えてなくなってしまう。しかし、全てなくなったとしても、名前が残らなかったとしても、一人の人間が生きたことは間違いない。生きたんだ。みんな生きたんだ。必死に。もがきながら。多くの困難があり、迷いがあり、いくつもの分かれ道があり、その中で正しいと信じる道を選び取って、みんな生きている。それが結果的に何につながるかは分からない。後の人は簡単に、あれが成功だ失敗だ分岐点だと裁くが、その時代に生きる人は結果など知らずに、その時その時に必死に最善を尽くして生きているのだ。


あなたも思うように生きなさい


 同じく最後の場面で、イザボーがシャルル7世に向かって諭すように歌うこの言葉は、突然見ている観客にも向けられているかのように沁み渡ってくる。そう感じたのは私だけではないはずだ。選んだ道が成功か失敗か、正解か間違いか、そんなことは誰にも分からない。それでも、自分を信じて生きなさいという強いメッセージを感じた。
 全く別の作品だが、「神は運命を知っているが、人間は知らない。それが人間の愚かさであり、尊さでもある。結果を知らずに選択したことを誰が裁けるのか。」といったような台詞があったことを思い出した。逆に、もし常に人間が結果を知っていて、その結果に向かって動くだけのコマだとしたら…、そのような人生を誰も望まないだろう。未来に光があることを信じてもがくからこそ美しい。その結果、失敗することもあれば、何かの観点では悪と呼ばれる結果にたどり着くこともあるかもしれないが、その人生を赤の他人に評価されるいわれはない。その達観した境地に辿り着いたからこそ、イザボーは自分の人生を悔いても恥じてもおらず、隠居後の年老いた姿であっても堂々たるオーラを放っているのだなと感じた。


イザボー×ヨランド


 ここからは少しストーリーで感じたことなどを書いてみたい。本作にはイザボーと幼少イザベル、イザボーとジャンヌ・ダルク、ジャンとルイなど、いくつかの対比があったが、最も強い対比を感じたのは実はイザボーとヨランドだった。見返してみると、冒頭からヨランドはシャルル7世にこう言っている。「(イザボーのことは)全く分からない。私達はまるで正反対だもの。彼女は時代に飲まれ、私は時代の波に乗った。」と。また、終盤のヨランドのソロの歌詞にも注目したい。


 我が子らには気高き血が流れる

 いかなる血も威力を持つことはない


 私は子供達に惜しみない教えを施してきた

 時代を生き抜くための

 未来を見通せる目が必要だった


 これがヨランドにあってイザボーになかったものなのかなと。「女は血で戦う」と言ったのはヨランドだし、子供がゲームのカードであることはイザボーと変わりないかもしれない。しかし、血だけで勝てるわけではなく、乱世を生き抜いていける人間に育てるため、子供に人生の真理を説いている。ヨランド自身が物事の本質を見極めている女性でもある。シャルル7世に対しても、「それだけが全てなのか」「賢き王は過去の過ちから多くを学ぶもの」と諭すところを見ると賢い母だったのだろう。

 イザボーはより刹那的に見える。なんとしてもシャルル6世を守る、自分を守るという自分目線の思いが強いので、フランスにとってどうかというより、自分自身のその時々の状況に合わせてころころ行動を変えているように感じた。

 ただそれはイザボーだけではない。百年戦争が百年も続いたのは、未来を見通せる目を持たず、日和見しながら派閥争いを繰り広げ、挙げ句の果てには敵国イングランドと同盟を組むなどしながら、目の前のことだけを考えていたからなのだろう。歴史をもっと俯瞰して見ると、この戦争で諸侯は疲弊して没落し、国王の権力が強まり、絶対王政への時代へと繋がっていくのだから。と偉そうなことを言ってみるものの、時代を生き抜くための未来を見通せる目が必要… ヨランドの教えは現代の我々にも通じるものだろう。


イザボーの絶叫とトロワ条約


 傍目には享楽に興じ、節操なく派閥を渡り歩くイザボーだったが、終盤にシャルル7世と対峙した後、後悔の念に押しつぶされ、絶叫する場面がある。望海さんの演技には鬼気迫るものがあった。ただ、正直なところ、初回の観劇時は、この時のイザボーの絶叫にあまり共感ができなかった。そこに至るまでのイザボーが自由奔放に見えていて、ルイや子供たちの不幸にも頓着していない様子だったので、今更何を後悔するのだろうと思った。ここをもっと理解したくて、繰り返し配信を見たと言っても過言ではない。
 この場面は、イザボーが「祈りはこの手の中にあったのに、どうして手放してしまったのか。」と嘆く場面。イザボーは獣の仮面をかぶって強い王妃として生きてきた。でもそれは自分の幸せ、夫の幸せ、子供の幸せ、国の幸せを願っていたからこそ。そのためには派閥争いもくぐり抜けなければいけなかった。いつの間にか手段と目的が入れ替わり、目の前の派閥争いでの勝利にこだわってしまい、シャルル7世に取り返しのつかない言葉を放ち、決定的な亀裂を作ってしまう。獣になってでも守ろうとしたはずの自分の幸せも子供の幸せも自ら手放してしまった。そんな誰も幸せにならない結果になるくらいなら、派閥なんて、国なんてどうでもいい!イザボーはあそこでそうリセットされてしまったのだなと。
 初回でこの嘆きに完全に共感しきれなかったことを少し残念に思っている。自分なりに分析してみた結果、これは多分に自分の読解力と個人的な嗜好によるものだなと思い至った。私はハッピーミュージカルより重厚な作品が好みなので、純粋だったイザボーが闇落ちして悪をも辞さない生き方を選ぶのはとても好きなタイプのストーリーなのだが、最後の嘆きに共感しきれなかったのはイザボーの願いの根源が、国の幸せというより自分の幸せだったことによるからかなと感じている。国のためという正義を目指した結果、どんどん国の不幸と周囲の不幸を招いたのであれば、信念と現実とのはざまに堕ちる部分が見えただろう。ただ、イザボーは自分の幸せを求めていて、自分自身はそれなりの幸せ(享楽的な幸せではあるが)は手にしていて、その結果周囲を不幸に巻き込んでいるので、目指したものが最初から破滅的だったような気がして、あの嘆きがある種自業自得のように感じてしまった。
 なので、もしかしたら作品の意図とは異なるかもしれないが、私はこの嘆きの場面よりも、トロワ条約の場面で「そんなに欲しいならくれてやる!」と叫び、シャルル6世の手を取って調印する場面の方がより強烈に心を揺さぶられた。本当にそれが最善の策と考えたのか、戦況を考えるとやむを得ないことだったのか、娘の政略結婚に望みを託したのか、真相は分からない部分もあるが、迫力が尋常ではなかった。この場面でダンサーの真ん中に立つイザボーの表情が、毎回少しずつ違っていて印象的だった。ゾワっとするほど満面の笑みを浮かべている時もあれば、何かを決意したかのように唇を結んでいる時もあれば、うっすらと浮かぶ微笑が哀しさを感じさせる時もあった。
 皆さんはどうお感じになっただろうか。色々な人と感想を分かち合いたい場面が多い作品で、観劇や配信が終了した今もなお、ずっと反芻を繰り返している。


*****


 一度では咀嚼しきれない見ごたえのある舞台だった。これ以外にも、もちろん大森未来衣さん演じるジャンヌ・ダルクの登場シーンには鳥肌が止まらなかったし、甲斐翔真さんが黒い羽を背負って黒死病ソングを歌う場面はとてもテンションが上がった。また、人力なのに高速で回る三重構造の舞台美術は圧巻だったし、音楽や照明も素晴らしかった。私が密かに好きだったのは、2幕でイザボーが歴代の男性達とタンゴを踊る場面で、タンゴの曲調の中に、イザボーのテーマソングが重なってくるところだ。冒頭の「全ての栄華は私のもーのー!」のメロディーが、タンゴ調に「タタタタ タタタタ タタタタ ターター!」と入ってくる。舞台上では確かにイザボーが様々な男性を手玉に取るような官能的なダンスが繰り広げられていて、まさに全ての愛が私のもののようだった。


 これほど完成度の高い日本オリジナルミュージカル作品の初演を観劇できたことに幸せを感じた。史実が複雑に込み入っているので、歴史を説明する歌詞が多すぎるとか、歌詞が詰め込みすぎだという声も聞こえた。確かにそういうところもあったが、普段翻訳された歌詞を聞いている身としては、原作の歌詞から日本語に訳される時に相当削られていることを知っている。音節の仕組みが違うので仕方ないと思っていたが、日本語の歌詞でもここまでの分量を一音に入れられるのかと驚いた。またその分量の歌詞を、しっかり聞き取れる滑舌で歌い切っているキャストの皆さんの歌唱力には脱帽した。史実の説明を削ってブラッシュアップできる余地はあるだろうが、歌詞の当てはめ方はある種の革命だと感じたので、今後も期待したい。訳詞ではなく日本語オリジナルなので、気持ちよく聞ける部分が多分にあった。例えば、「王国に未来はないやいやいやいや」「イーングランドに」「オールレアンの街を」「待ち遠しいでしょ、叔父うえぇぇ~」などなど。

 歌詞の量が多いこともあってストレートプレイのような情報量だったため、観劇中は頭がパンクしそうだった。演出の効果もあるが、途中は観客が拍手を忘れるほど舞台への没入感が強く、観劇後には心地よい疲れさえ感じた。ジェットコースターのようだったと前回も書いたが、観劇後しばらく経っても興奮が消えず、きっと体温も血流も上がったし、脳内で何らかの物質が分泌されたに違いない。観劇というより、何かスポーツでもしたかのような強烈で刺激的な体験だった。見終わってからもずっと、この考察を書くために作品を振り返っていたが、これを書き終えてしまうことで、私のイザボー体験が完結してしまうことを名残惜しく思っているほどだ。是非、イザボーが今後も再演、再再演と繰り返される演目になってほしいと願っているし、MOJO企画の続編の作品にも大いに期待したい。

 

(イザボー考察第一弾はこちらから
イザボー ① - えとりんご )