(今回は作品の考察ではありません。私自身の雑感です。)
イザボーについては2回にわたって感想を綴ったが、観劇から時間が経ってじわじわ感じているのは、イザボーの決意とその後の展開が他人事でないように思えること。
長く生きていれば人は誰しも、時に絶望すること、運命に見放されたと感じる瞬間があると思う。運命を嘆き呪い、将来を悲観することもできる。むしろ放っておけばそうなる。でもそうならないよう、歯を食いしばって運命を受容し、それでいて運命に屈しない強い精神力を人は目指しているのではなかったか。
私は絶対に負けない!泣いたりなんかしない!最後まで笑ってやる!悲劇のヒロインになるつもりはない!同情なんていらない!人の助けになんか頼らない!失ったものは振り返らず、自分は自分にできることを自力でやってみせる!運命なんて乗り越えてみせる!
自分もそうやって、運命に屈せずに前を向いて歩み続けることが最善だと信じてきた。神様は乗り越えられる試練しか与えないはずだと。
誰かの庇護の下、助けを借りて人形のように生きる道もあったかもしれない。這いつくばって感謝を捧げて、偽善者の自尊心を満たすこともできたかもしれない。その方が物質的な幸福は得られたかもしれない。
閉ざされた道やあり得たかもしれない別の道のことは思考から排除して、多少の犠牲を強いてでも、自分が自分らしく自分の力で生きたと思える道を選んできた。そこに一片の悔いも曇りもないが、でもその多少の犠牲は自分だけではなく、家族にも強いていることをうっすらと感じる時もある。どこかでチクっと感じるその痛みも、敢えて思考から排除している。トータルで見れば、これが最善なのだと。これでいいんだ、これしか道はなかったんだ。その時々に選べる選択肢から選ぶしかない。ベストではないかもしれなくてもベターではあるはず。
最善でないかもしれなくても、尊厳を失って生きるよりは幸せだと思うイザボーの気持ちが、何だか痛いほど分かる気がした。
イザボーが強靭な精神力でそうやって強く立ち向かって生きたのに、結果的に周囲を不幸に巻き込み、最終的に国を破滅に追い込んだと考えると運命は何て非情なのだろう。
イザボーが自分を殺して、運命に屈して生きた方が良かったというのか。そんなことは、そんなことはないはずだ。
あなたは今幸せ? 私は私の中のイザベルにどう答えよう。少しずつ犠牲を強いながらも、私が優先した幸せは何の幸せなのだろう。誰かの幸せなのか。自分だけのエゴの幸せなのか。せめてベストでなくてもベターなものであってほしい。
イザボーが序盤に歌う歌が今になって突き刺さる。
「幸せな思い出はいつも過去のもので…」
過去を超える幸せな思い出。それが訪れる日は来るだろうか。ふっ…と自嘲してしまう自分がいる。来るとすれば、それは自分の幸せではなく、家族の幸せであり、家族の幸せを通して自分の幸せを感じる時だろう。それでもいい。そのために前を向いて生きてきたのだから。祈りは今もこの手の中にある。
イザボー考察
第一弾→ イザボー ① - えとりんご
第二弾→ イザボー ② - えとりんご