えとりんご

観劇の記録。ネタバレご注意を。この橋の向こうにジャコブ通り。

笑う男 ① デアとジョシアナ

笑う男 2022.2 帝国劇場

 グウィンプレン 浦井健治
 デア 熊谷彩春(真彩希帆)
 ウルシュス 山口祐一郎
 ジョシアナ公爵 大塚千弘
 デヴィット卿 吉野圭吾
 フェドロ 石川禅


 3年前の初演時にも気になっていた「笑う男」。ビクトル・ユゴー原作、フランク・ワイルドホーン楽曲、浦井健治さんに山口祐一郎さん他豪華キャスト。ワイルドホーンが飛行機の中で一気に書き上げたエピソードを熱く語るインタビューを聞いて、これは是非見てみたいと思っていた。が、日程が合わず見送ったのだが、3年を経て帝国劇場で再演されると聞いて、チケットを確保した。公演初日は、ゲネプロを終えてソワレ開場までしたタイミングでまさかの休演が決定された。公演関係者のコロナ感染判明による休演だった。私の観劇予定日ではなかったが、そこに居合わせているキャストや観客の思いを考えると辛くなった。そこからの再開を経て、無事に初めての観劇を果たした。
 初演の感想を見ると、今ひとつストーリーが刺さらなかったという意見も見かけたが、私は大満足だった。ストーリーの前に度肝を抜かれたのは舞台美術!帝国劇場の豪華な舞台装置をふんだんに使い、盆も回り、セリも何度も登場し、大型の装飾が次々に現れ、これぞ帝劇ミュージカル!という感じの演出だった。帝劇での観劇が3年ぶりだったことや、最近見た作品が比較的シンプルな大道具だったので(それも好きだが)、ド派手な機構にとてもテンションが上がった。
 内容はシリアスなものを予想していたが、意外にもファンタジー要素の強い印象ではあったが、おとぎ話では終わらないエンディングを含めて、余韻の残るストーリーで私はとても楽しめた。あと、キャストの歌の強さが大変に心地よかった。浦井健治さんの歌を聴くのは初めてで、イメージより高い声だな~と思いながらも、次々に何曲も歌っても音がぶれず、声もかすれず、感情をしっかり乗せた歌声に酔いしれた。デアの熊谷彩春さんはお初だったが、とんでもなく美しい透明感のある高音で、見た目のお人形のような可憐さと相まって、存在の全てが天使!妖精!という印象だった。ジョシアナ公爵もデヴィット卿もフェドロもアン女王も一座の皆さんも、出る人出る人歌が上手で素晴らしかった。ウルシュスの山口祐一郎さんはさすがの存在感。原作でもあらゆる不思議な術を使う厭世家という設定のようで、私の中では森の奥に住む医学薬学工学哲学に音楽芸術、さらには魔術も使えるレオナルド・ダ・ヴィンチのような人物を思い浮かべたのだが、その雰囲気は祐様にぴったりで、物語のファンタジー部分にぐいぐい引き込んでくれた。

 ここからはストーリーに関する感想となります。完全にネタバレとなりますのでご注意ください。

デアとジョシアナ

 ジョシアナはアン女王の腹違いの妹である。見世物小屋で見たグウィンプレンにいたく興味を示し、邸宅に呼びつけるなどする。私は事前の予習を殆どせずに観に行ったので、ジョシアナ公爵ご登場の展開は毎回…新鮮に見させていただきました笑 ジョシアナのターンが1度ならミュージカルあるあるのお戯れタイムかと思うところだったが、あれだけ気合いを入れて見せられると、ん?これはメインストーリーなのか?とならざるを得ない。
 与えられた物には常に満足できず、手に入らない物に執着する悲哀、空虚、屈折がとても良く出ていて、がっつり爪跡を残してくれた。ジョシアナ目線で見ると、最初からグウィンプレンの外見の醜さよりも刺激の欲求が上回ったわけで、それほどまでに無味乾燥な人生を送っているかと思うと、実に狂気じみている。
 濃密に何度も迫るジョシアナに対して、純情にも逃げ続けるグウィンプレンだったが、皮肉な運命によって何と2人が結婚相手であることが告げられる。運命を受け入れるつもりか、片膝をついて頭を下げるグウィンプレン。ジョシアナは歓喜してからめ取るのかと思いきや、フンッ!もうあなたに用はないわとばかりに吐き捨てる。
 一見、手に入らないオモチャだけに執着を見せる我が儘な駄々っ子のように見えるが、彼女の屈折はもう少し深いと感じた。生まれながらにして貴族であるジョシアナは全てを持っているように見えるが、その実態は全てを一方的に押し付けられた人生とも言える。ジョシアナは自分で選んだグウィンプレンの本物の何かが欲しいと願っていたのに、与えられたのはまたしても権力を振りかざして連れてこられた、言わば偽物のグウィンプレン。二度と自分が求めていた形のグウィンプレンは手に入らない。同じグウィンプレンでも、ジョシアナにとっては似て非なるものだったのだろう。渇きからの渇望ではなく、「渇き」への渇望…渇くという状態に置かれたことがない人間の究極の欲望とでも言うのだろうか。凡人がたどり着けない満ち足りた世界の中心に広がるブラックホールのような重い闇を見る思いだった。
 もし彼女が、グウィンプレンの外見の醜さを差し置いても内面の美しさに本気でとらわれたというのなら、それはデアも越えられたかどうか分からない一線とも言える。幸か不幸か、デアにはグウィンプレンの内面の美しさしか見ることができないのだから。ジョシアナがヒロインなら美女と野獣のような展開もありえたわけだ。外見にとらわれることなく、内面の美しい男性を心から求め、求められることが彼女が無意識に欲していた理想だとしたら、それが永遠に叶いそうもないあの環境に置かれた彼女もとらわれの人生だったんだなと哀れに思えた。


 デアは純粋無垢を形にしたような女性。風貌も歌声も天使か妖精のようで、全人類が大切にしたくなるような存在だった。デアは目が見えなくても、グウィンプレンにもウルシュスにも団員にも全力で愛され、心の目で美しいものをしっかり捉えて見ている。2幕後半を見ながら、ふとデアの目が見えるようになるのでは…という考えが頭をよぎった。それはデアに自由を1つ与えることになるけども、デアの目にこの世の穢れたものを映させたくないと思ってしまった。目が見えないからこそ、他人に見えない美しいものが見えて、他人が見えてしまう穢れたものが見えない。見えない方が幸せなのか。純粋無垢な子供のまま何も知らずに人生を送るのが幸せなのか。見えなくても幸せ…を通り越して、見えない方が幸せなのかと思えてしまう世の中とは何たる絶望か。

 ジョシアナとデアには強い対比を感じる。金も名誉も地位も特権もあらゆるものを持っているジョシアナ。両親もなく貧しく目が見えず体も弱いデア。では、デアにあってジョシアナにないものは何か。まず愛と友情が挙げられるだろう。それでは自由と幸せはどうか。確実にジョシアナにはない。デアはどうか。デアは自由と言えるか、幸せと言えるか。そう言いたい気持ちはある。ジョシアナよりは自由で幸せであってほしい。が、完全に肯定しきれない自分もいる。愛があるから幸せ、というほど単純なものではない気もしている。おとぎ話の構造でありながらおとぎ話でないのがユゴーなんだと、日が経つにつれじわじわと感じている。

 

 次回に続きます。