えとりんご

観劇の記録。ネタバレご注意を。この橋の向こうにジャコブ通り。

笑う男 ② フェドロとウルシュス

 

ミュージカル「笑う男」の観劇レポ第2弾です。ネタバレご注意ください。

 

フェドロとウルシュス

フェドロ
 最も正体が掴めないのがフェドロ。登場するなり怪しい雰囲気を醸し出していて、腹に一物ありそうなのは一目瞭然なのだが、敵なのか味方なのか、その行動の目的は何なのか。デヴィット卿やジョシアナやアン女王のことも心では蔑んでいそうで、実に謎多き人物だ。そして、こういった役を演らせたら随一の石川禅さん!安定の場面回し、意味ありげな目線、唇の端の動きで見せる感情…禅さんだけを追いかけて見る日を設けたいという感想を見かけたが、なるほどと頷きたいくらい気になる存在だった。ワイプで常に抜いてほしい笑 
 終盤にジョシアナに裏切者呼ばわりされるが、フェドロの裏切りとは何だったのか。個人的にこれが最大の謎と感じた。帝劇の盆やセリ、グウィンプレンのプリンスぶりに心躍らせている間に見落としてしまっているのか、はたまた禅さんは怪しいけど憎めないキャラと思い込んでるせいか、劇中の展開だけで裏切りを理解するのは難しい気もした。フェドロがジョシアナに仕えていながら彼女のことをひどく憎んでいて、ジョシアナやデヴィット、さらにはクランチャリー家を不幸に陥れようと企んでいたということなのだろうな…というのが、色々な情報を補完した上での私の解釈だ。
 フェドロの裏切りが分かりづらいのは、どこまでが偶然でどこまでが必然かが分かりづらい点も作用していると思う。最初から全て計算ずくなのか、たまたま連鎖しているのか、隙あらば人をことごとく不幸に陥れようとしているだけなのか分からない部分がある。
 瓶の開封官を志願した時点で、コンプラチコの罪や懺悔、さらにはそれにまつわるデヴィット卿の企みを知っていたのだろうか。さすがにそこまで最初から知っていた訳ではないだろうと思うので(いや、知っていてもおかしくはないくらいの曲者感を滲ませてはいるのだが)、何か重大な秘密を掴めればしめたものくらいに思って志願したところに、たまたま特ダネが流れ着いたのだろう。その証拠を元にさらにハーパーの口を割らせ、グウィンプレンをクランチャリー卿に据えることで、デヴィットを蹴落とし、ジョシアナには醜い夫をあてがい、ウルシュス一座には更なる不幸を味わわせ、グウィンプレンを影で操ることで、クランチャリー家を陥れようとしているのか。そう考えると、全てがフェドロの手のひらの上で起きており、足音もなく近づいてくるような薄気味悪さを感じる。貴族の闇と貧民の闇があることがフェドロを呼び込んでいるようにも思える。貴族でも貧民でもないフェドロが暗躍することで、闇に巣食う闇を表現しているように感じた。



ウルシュス

 世間嫌いの偏屈じいさん。という設定なのだと思うが、祐様演じるウルシュスは愛と包容力に溢れる人間味ある父さんだった。それが原作のキャラ設定に合っているかどうかは分からないが、グウィンプレンやデアに対する深い愛情が作品全体を包み込み、ラストに向けての悲しさを増幅させている。
 私は基本的にグウィンプレン目線で観劇したのだが、ウルシュス目線で全編を見るときっと違った物語に見えることだろう。不遇ながらも愛情をかけて育てた子供たちが大きくなり、時には反抗もしながら堂々たる大人へと成長し、最後にはその大切な存在を失ってしまう父親…そうやって見ると、心が張り裂けそうになる。でも私は、父は父でも、ちょっとだけ違う父親像が浮かんでいた。ウルシュスはユゴーであり、もっと言うと、人間たちの営みを見つめる創造主のような存在に思えた。世間を信じ続けてきたが裏切られ、貴族が支配する腐った社会に嫌気が差し、すっかり人間不信に陥っているわけだが、それでも新しい命のエネルギーを前に、もう一度その力を信じ、希望の光を見出し、その営みをオロオロハラハラしながら見守り、そして無情にも命が終わっていくのを見つめる。またしても絶望に打ちひしがれることになるが、やがてまた新しい希望の光を見出し、見守り、また無情に散っていく。そうやって、この地球上の営みをじっと見つめる人外の空気を少し感じた。無情を感じながらも人間を信じることは諦めていないのではないかとも感じる。いつの日かこの無情な繰り返しに終わりが来るのだろうか。現代はユゴーの時代よりは光が見い出せる世の中になっているだろうか。残念ながら種類が変わるだけで闇と無情が絶えることはないが、せめて同時に新しい光が途絶えることもないと思いたい。

 

 次回へ続きます。