えとりんご

観劇の記録。ネタバレご注意を。この橋の向こうにジャコブ通り。

ストーリー・オブ・マイ・ライフ① アルヴィンとトーマスの物語

2021年12月 大手町よみうりホール
アルヴィン 田代万里生
トーマス  平方元基

 2021年は、「マタ・ハリ」「ジャック・ザ・リッパー」と、田代万里生さんの出演作品を立て続けに観劇しました。私は万里生さんの作品を見るのは初めてだったのですが、「マタ・ハリ」のラドゥーも「ジャック・ザ・リッパー」のモンローも、どうやらご本人のいつもの役柄とは違うらしいと漏れ聞こえてきました。そこで、冬に上演される「ストーリー・オブ・マイ・ライフ」で違う万里生さんを見てみたいと思い、かつ、この作品の初演の評判の高さを聞き、争奪戦の末にチケットを入手しました(発売と同時に即完売!)。同じキャストで2回観劇しました。

 初回見終わった時の率直な感想は、「この作品が初日完売になるって…どういうこと?」という驚きでした。決してネガティブな意味ではありません。むしろ真逆です。とても心に沁みる作品だったのですが、ストーリーが想像とかなり違っていたので、そんなにも多くの人がアルヴィン又はトーマスに感情移入して涙を流すような何かを内に抱えているというのか…という衝撃を受けたのです。私は、自分の中のアルヴィンとして思い浮かべる知人がいました。でもそれは、他人に話したこともないような、長い間自分だけの中にひっそりと抱きしめてきた過去であり、ある種特別な経験とも思っていました。もちろん全ての人が役に何かを投影して見るのではなく、客観的に物語を見ることも多いと思いますが、もし、観客がトーマスもしくはアルヴィンの目線で物語を追いかけ、自分の中にある何かと向き合い、郷愁とともに過去を思い出し、取り戻せない何かを受け入れ、今できることと向き合って再び前を向くプロセスをなぞりながら、この作品を愛しているのだとしたら…、現代人はまだまだ捨てたもんじゃない、とさえ思いました。語られる事実が少ない部分もあり、その余白は想像力で埋められていき、見ている最中にはおぼろげだったものが、時間を置いてゆっくりと形づくられていく…そんな作品でした。
 もしかすると、私の感じ方は人とは違うかもしれません。でもそれは、観る側の年齢や過去の体験等によって様々なストーリーが生まれるものだと思います。その中のひとつとして、私が受け止めたストーリーを書いておきたいと思います。※ネタバレ注意です。

受容の物語

 見ている時は忘れがちで、見た後に思い出してはぐっさりと胸に迫るのは、この物語がトーマスの記憶の物語であること。郷愁と後悔と懺悔、そして受容と回復の物語。トーマスがどれだけ強く念じても、もうアルヴィンに直接伝えることはできない。その事実が胸を刺す。
 弔うという行為…お葬式や埋葬、四十九日、一周忌など、故人を弔う儀式は色々あるが、これは故人のための儀式ではなく、全て残された者のために必要な儀式であるといつも思う。近しい人であればあるほど、死を受け入れるのは難しく、悲しみ、絶望、喪失感、時には怒り、自責など、あらゆる負の感情に襲われる。しかし、永遠に死を認めずに過ごすことはできないわけで、いつかどこかの時点で死を受容し、生前の故人を敬い、その魂の安寧を祈る境地へと移行していかねばならない。一連の儀式の中で、故人に語りかけ、問いかけ、感謝し、謝罪し、祈りを捧げ、約束を交わしながら、一つずつ心に区切りをつけていくことが、残された者にとって非常に大切なプロセスなのだと感じる。
 そして、この故人に向き合う行為は、取りも直さず自分の内面と向き合うことでもある。非常に大きなパラダイムシフトだと思うのだが、人が亡くなると、故人と直接話すことができなくなる代わりに、その人に隠しだてをすることもできなくなる。話しかけても答えはないが、話さずとも聞かれているし、姿が見えなくとも見られている。したがって、自分の気持ちを正直に全てさらけ出すこととなる。本人から直接の答えがない中で、故人ならこう言ったのではないか、こうしたら喜んでくれるのではないかと必死に想像しながら、故人の心に寄り添おうとする行為は、実は、絶対に嘘のつけない相手、つまり自分自身の内面奥深くと向き合い、自力で答えを導き出す行為なのである。
 私たちが見ているのは、トーマスが必死にアルヴィンと向き合おうとすることによって、トーマス自身の心と向き合おうとする受容の過程だったのだ。

アルヴィンとトーマスの物語、いやトーマスの物語

 トーマスは、アルヴィンのことを「変わっていた。いや、個性的だった。いや、変わっていた。」と書きとめている。確かに、不思議ちゃんのような雰囲気を持つアルヴィン。この二人が友人だったことが興味深い。大人になって出会ったなら親しくなったかどうか微妙な気もするが、幼い頃は、お互いに足りない何かを埋め合えることを本能的に感じ取っていたのではないかと思わせた。普通に大人になっていくトーマスと、純粋無垢過ぎる感性を持ち続けるアルヴィン。そして、都会へと出ていくトーマスと、古い町に留まり続けるアルヴィン。有名作家として成功するトーマスと、父の跡を継いで小さな本屋を営むアルヴィン。トーマスは自分の胸の奥で、自分のルーツと一体化する場所にいるアルヴィンが、懐かしくもあり、愛おしくもあり、こそばゆくもあり、時に疎んじたくもなっただろう。それはまるで、愛情と期待を寄せ続ける田舎の母親への感情に似ている。少しずつ思いがすれ違う場面が増えてしまうが、アルヴィンはトーマスへの友情、時には依存と言えるほどの感情を持ち続けている。トーマスは、アルヴィンと完全に距離を置いても不思議ではないように思うが、何やかんや言いながら心のどこかにアルヴィンの居場所を作り続け、アルヴィンが遠くから寄せる思いに向き合っているのが誠実だと思う。

 ただ、アルヴィンが本当にどう思っていたかは、トーマスにも観客にも分からない。この物語は良い意味でも悪い意味でも、アルヴィンがトーマスのことをこう思っていただろうというトーマス目線での想像でしかない。もしかしたら、アルヴィンはもっと恨んだり妬んだりしていたかもしれないし、逆にそんな気持ちは全くなく、友人として誇らしく愛を持って応援し続けていたかもしれないし、全く違う次元でアルヴィンらしく自己実現を追求していたのかもしれない。
 トーマスはトーマスの枠の中で必死に思い出すことしかできないわけだが、そうやって記憶を辿ると、アルヴィンの自分への依存、強い友情や信頼(もしかしたらそれ以上の何か)に気づいており、それを知りながらも自分が正面から向き合わなかったことでアルヴィンを傷つけたかもしれないことを後悔している。いやしかし…、とトーマスは思う。人並みに成功を目指す中で、都会に出て仕事に追われ、時には恋人に絡む人生の決断を迫られ、自分は自分の人生を生きるのに精一杯で、アルヴィンの無邪気な思いに100%答えられなくても致し方ないじゃないか。自分は大人として男として、社会に恥じないスマートな生き方を身に着け、それなりに地位も名声も得た。それが普通の生き方じゃないか。アルヴィンの父の葬儀の時だって…。ここがトーマスにとって大きなしこり、もっと言えば罪悪感の根源になっているので、心の中で何度も向き合おうとしては目を背け、やり直してはまた挫折してしまう。そうなのだ。なぜなら、このアルヴィン父への弔辞への向き合い方こそが、トーマスとアルヴィンの決定的な違いなのだから。世の中の大多数はトーマスのような人間であり、アルヴィンは色々な意味で少数派に違いない。トーマスは大人になり、というよりも、うまく大人になる処世術を身に着け、富や名声など、外形的な評価を手にした。アルヴィンは鼻からそういった外形的なものを追いかけておらず、本質的に大切なものだけを追いかけていた。トーマスの価値観で見ると、アルヴィン父が残した業績として、富や名声につながるものを挙げることができなかった。だから、偉大なる作家が残した文章を引用することが、町商人への最大の賛辞だと考えていた。けれどもアルヴィンは、一人の人間として父が大事にしたものを評価し、父が愛された理由、父だけが成しえた仕事に光を当てて、その人生を素朴に語った。そこに富や名声はないかもしれない。けれども、父がその場所に生きたことによって、多くの人に喜びを与えたことを自分の言葉で語った。

弔辞

 トーマスは冒頭から弔辞を書けずに悩んでいる。「人が死んだらその人のいいことを話すんだよね!」…幼い頃の自分たちが言う「いいこと」とは。トーマスはまだ呪縛に囚われていて、「いいこと」というのは、世間一般の評価に耐えうるような、客観的に輝かしい業績だと思い込んでいる。だから、何を書けばいいのか分からない。思い出すことと言えば、アルヴィンの突拍子もない奇抜な行動ばかり…。そこにアルヴィンの死に対する自責の念ものしかかり、筆が一向に進まない。
 しかし、アルヴィン父への弔辞のやり取りを何度も何度も反芻することで、自分が物事を一つの側面からしか見ていないことに気づいていく。外形的な業績がなくても、愛すべきアルヴィン父の人生を飾らない言葉で話すアルヴィンの弔辞は、最高につまらなく、それでいて最高に美しかった。表面的な余計なものには目もくれず、物事の本質だけを大切にするアルヴィンらしい表現だったのだ。
 そう考えた時、アルヴィンが幼いころから大人になるまで一貫して持っていたあの感性…、個性的で変わり者と評されがちなあの感性…、誰もが大人になる過程で忘れてしまうあの感性…、それがたまらなく貴重なものであり、しかも誰よりも常に本質を追求したブレない感性だったことに気づく。
 それだけではなく、自分が作家人生を歩み始めたのも、元を辿ればアルヴィンとの逸話であり、作品の多くはアルヴィンの突飛な発想から生まれたものだった。自分のインスピレーションと思っていたものは、アルヴィンのインスピレーションでもあった。ちっぽけな町の本屋のちょっと変わった店主であるアルヴィン、それが自分に大きな影響を与えていた。そう、まるで力強い風を作り出すバタフライのように。
 多忙な毎日を生きていた頃のトーマスは、それに気づかず過ごしていたかもしれない。気づいたとしても認めたくない事実だったかもしれない。だがしかし、アルヴィンの死と向き合い、自分の内面と向き合った今のトーマスがそれに気づいた時、トーマスは幸せを感じたに違いないと思う。アルヴィンは死んでしまった。トーマスの中に少し痛みを残して。しかし、アルヴィンのインスピレーションはトーマスのインスピレーションにもなる。知らず知らずのうちにアルヴィンから教えてもらった様々な新しい発見、それは既に自分の思考に息づいているし、今新たにアルヴィンとの思い出に素直に向き合うことで、アルヴィンの目に見えていた世界がまざまざと見えてくるはず。アルヴィンが生きていた頃よりずっと鮮やかに、アルヴィンが大事にしていたもの、求めていたもの、見たいもの、聞きたいものが理解できる。なぜなら、アルヴィンの心がトーマスの心の中で生きているから。大人の分別が邪魔して見えていなかったもの、聞こえていなかったもの、それが急に鮮やかな色や音とともにトーマスに降ってきたことだろう。
 トーマスは、在りし日のアルヴィンのワクワク感に当時以上に共感しながら、ためらいなく楽しかった思い出を弔辞にすることができるだろう。非凡な発想力を持った友人を心から誇らしく思いながら話すことができるだろう。書き途中のまま終わっている「雪の中の天使(仮)」も書きあげることができるだろう。さらにこの後も、アルヴィンとの他の逸話を思い出しながら、わだかまりなく素敵な物語をいくつも書くことができることだろう。


長くなってきましたので、次回へ続きます。