えとりんご

観劇の記録。ネタバレご注意を。この橋の向こうにジャコブ通り。

キングアーサー① アーサー×浦井健治

キングアーサー

2023.1-2 新国立劇場
アーサー王浦井健治
メレアガン:加藤和樹、伊礼彼方
ランスロット太田基裕、平間壮一
グィネヴィア:小南満佑子、宮澤佐江
マーリン:石川禅
モルガン:安蘭けい
ガウェイン:小林亮太
ケイ:東山光明

 

 2023年1月、新年初観劇を飾るにふさわしい華やかな作品を見ることができた。タイトルはその名も「キングアーサー」。(観劇された方にはモルガンの声で再生される魔法をかけています笑)
 原作となっているアーサー王物語、円卓の騎士などは、誰しも名前だけは聞いたことがあるのではないだろうか。しかし、肝心の中身はと言うとよく知らない人が多いとも思う。神話なのか物語なのか歴史上の実在の人物なのかさえあやふやだ。しかし、ブリテン王国や中世の騎士、ケルトといった言葉は、歴史のロマンを感じさせてくれる。私は以前に別作品に触れたことがあったので、アーサー王伝説のあらすじを多少知っていた。正直なところ、この伝説のストーリーには感情移入しづらいポイントがあるため、過度な期待は持たずに見る予定だった。ストーリーそのものよりも、フレンチロックなミュージカル、ダンサブルな振り付け、豪華俳優陣が織りなす世界観に胸を膨らませていた。しかし、その予想に反して、ストーリーもなかなかうまくまとまっていたし(ツッコミどころはいくつもあるが)、楽曲や舞台芸術やキャストのお芝居は想像以上に素晴らしく、結果チケットを追加して5回観劇することとなった。(以下、完全にネタバレしていますので未見の方はご注意下さい!)


アーサー

アーサー×浦井健治

 伝説の聖剣「エクスカリバー」を引き抜いたことによって、ブリテン王国の王となったアーサー。一見、何の変哲もない一般庶民として登場したアーサーが難なく剣を引き抜いてしまうため、そんなあっさりと抜けてしまっていいんかい!と突っ込みたくはなった。ちなみに、アーサーを演じる浦井健治さん、冒頭の登場場面ではサイドの髪をとめた茶髪にキラキラした瞳で甘さのある高い声で歌うのだが、とても41歳には見えない可愛さで驚愕した。この時点の無邪気さから、真の王としての責任を自覚するにつれて、表情も声も大人びて低く威厳のある声に変化していくところが非常に良かった。
 あと、声を大にして言いたいのは、華麗なるマントさばき!これまでも浦井さんの舞台はいくつか拝見しており、2022年の笑う男でもマントも殺陣もあったが、本作ではその比ではないほど殺陣の場面が多かったので実に見ごたえがあった。マントは何種類かあったが、特に2幕でガウェインとランスロットが装着してくれるゴブラン織り風の金色の重厚なマント。重そうにも見えるのだが、そのマントを着て剣を斜めにしながら塔の上に登っていく姿は王の威厳たっぷりだった。戦いの場面では、そのマントを華麗に翻しながら疾走感たっぷりの殺陣を繰り広げてくれた。マントがほぼ肩の高さで水平にバサーっバサーっと高速で翻り、エクスカリバーでシャキンシャキンと切りつけている姿は、自分が幻覚でも見ているのではないかと思うような華麗な軌道だった。あのマントさばきを見るだけでも、本作を見る価値はある。

 

アーサー×愛

 完全にネタバレしてしまうこととなるが、この作品におけるアーサーは、主役でありながら実に悲しい運命を負うこととなる。グィネヴィアと出会って将来を誓い合い、最愛の王妃として宮殿に迎えるのだが、その婚礼の日を待たずに王妃は王の腹心であるランスロットに心を奪われてしまうのだ。
 これがアーサー王伝説のストーリーにおいて、致命的に感情移入しづらい点だと思う。男性から見た時には共感できる人もいる(人によってはテンションが上がる?)のかもしれないが、女性でこれに共感できる人はどれぐらいいるのだろうか。アーサー王がまるで愛がなく、欠陥の多い人物であるならともかく、アーサーには欠点らしい欠点が見当たらず、王妃を深く愛しているのだから。ランスロットは確かにいい男だと思うし、これまた非の打ちどころのない魅力的な男性であるとは思うが、だからといって、そんなに短期間にあっちの男性、こっちの男性に心変わりするものなのか…と倫理観を疑ってしまう。
 私はこのブログでもたびたび書いているが、ロマンス物の作品では、とかく男性の魅力に目を奪われがちで、強さ、優しさ、色気などなど、色々な萌えポイントがあるわけだが、それ以上に重要なのは実はヒロインだと思っている。それだけの魅力的な男性に心から愛される説得力がヒロインにないと、そこで命を懸けて戦っているストーリーにのめり込めなくなってしまうからだ。
 その点で、ヒロインのグィネヴィアは美しく可憐で自分の心に正直な可愛さは存分にあるものの、一人への愛を貫き通せないところにどうしても共感できないところがある。運命の出会いだと燃え上がっていたはずなのに、その舌の根も乾かぬうちに初めて出会う男性に一目ぼれするとはこれいかに?!
 とはいえ、これは作品に対する非難というより、伝説そのものの展開がこうなのでいかんともしがたい点ではあるし、私が過去に見たグィネヴィアの中では一番葛藤が表れていたので、一応何とか受け入れることができた。
 しかし、これまた私が過去に見たアーサー王の中では、浦井健治さん演じるアーサーがずば抜けていい男だったので、このアーサーの何が不満なんじゃ!という怒りを感じてしまう結果にはなった。見る前は、何やかんや言ってもランスロットが一番切ない役だろうし、メレアガンの怒りと嫉妬で愛を奪おうとする役どころは悲しくも魅力的だろうと思っていて、アーサーはどうしても人の好さや優柔不断なイメージがつきまとうので、どこか情けなさの漂う人物だと思っていた。しかし、浦井アーサーは少し違っていた。一言で言うと、とんでもない「包容力」を持っていた。
 男性の魅力は色々あって、容姿、筋力などの外見に加え、強さ、優しさ、愛、色気、自信などの内面的な要素も沢山ある。どれが好きかはそれぞれの好みだと思うが、男性の色々な魅力を全て高めていくと包容力になると思っている。逆に言えば、包容力だけを身につけようと思ってもなかなか身につかないものだ。若い男性よりも年を重ねた男性の方が持ち合わせている可能性が高いのも、そういう理由からだと思う。
 客観的に見ると、愛する妻を家臣に奪われてしまう悲しい王なのだが、その妻の罪をも許し、罰は与えず、放免するアーサー。グィネヴィアとの関係のみでなく、モルガンとの最後のシーンもとても心に刺さる展開だった。復讐に燃え、これからも永遠に責め続けると宣言するモルガンに対して、アーサーは殺すでもなく、罰するでもなく、責めるでもなく、全てを許し、包み込み、愛さえ与えて野に放つ。あれはさすがのモルガンも恋に落ちてしまうのではないかと思うほど、慈愛に満ちていた。
 また、ランスロットとの関係で見せる心の動きも非常に良かった。アーサーが途中わずかに心の乱れと戦う場面がある。それは、グィネヴィアとランスロットが通じているのではないかとの情報を耳にする場面。王妃に対する愛もあれば、忠臣ランスロットに対する信頼もある中、その二人からの裏切りに遭うとは、それは当然心中穏やかではいられないはずだ。メレアガンの燃える復讐心を考えれば、アーサーが怒りに沸騰してもおかしくはない。その心情を歌う場面では、他のシーンには見られない荒ぶる感情が見え隠れしていた。中でも「どうか~!グィネヴィア~っっ!!」と苦しげに叫ぶ姿は心が締め付けられた。どうか!までは強い声で歌っているのが、グィネの辺りが絞り出すような声になって、こちらも胸が痛かった。私は何度も言っているが、抑えようとしても抑えられない感情にめっぽう弱いため、この場面のアーサーに思い切り心を持っていかれた。
 その狂おしい思いを抱えながらアーサーが王妃の元に駆けつけた時には、ランスロットがメレアガンに切りつけられて瀕死の怪我を負っているところだった。登場した瞬間、アーサーの血の温度が下がるのが見えた。メレアガンに対する怒りはもちろんだが、アーサーは信頼するランスロットに聖杯を探す命を下したはずで、そのランスロットが聖杯よりグィネヴィアの救出を優先させてその場にいることが全てを物語っている。もちろん王妃を守ることも自分への忠誠の一つではあるが、それ以上の関係を二人の間に読み取ったに違いない。アーサーは厳しくもゆっくりした口調でランスロットに告げる。「王妃の拘束を…解いてやれ。」ランスロットは絞り出すような声で返事をし、よろめきながら王妃の縄を解く。もう動くことすらままならないランスロットになんちゅう無茶をさせるんだ、罰でも与えてるのか、という感じではある。しかし、一連の戦いが終わった後、アーサーはグィネヴィアとランスロットを置いてその場を立ち去る。ここで拘束を解く場面がフラッシュバックするのだが、あぁ、アーサーは王妃を守るために全力で駆けつけたが、その役目を果たすべきは自分ではなく、ランスロットだと瞬時に確信してしまったんだなと。そして、ランスロットに残された最後の時間をグィネヴィアと過ごさせて立ち去ったのかと。さながら、バージンロードを共に歩いてきた娘を新郎に引き渡す父親のような哀愁があった。「どうか!グィネヴィア~…っっ!」の絶叫がリフレインして息苦しくなる。
 グィネヴィアとの夫婦関係、ランスロットとの信頼関係の崩壊を考えると哀しくなるが、ともすると不甲斐ない優柔不断な王と映りがちなこの役を、これほどまでに魅力的に演じた浦井健治さんに改めて脱帽した。

アーサー×王

 妻に家臣に愛に裏切られ、マーリンに救いを求めて声なき慟哭を見せるアーサー。アーサーが幼子のように大きな口を開けて泣く姿は辛いが、全てを感情におもねることはなく、最後には理性でもって立て直していた。俯いた顔を上げ、口を閉じてゆっくりと立ち上がる。目は光を失ったようでもあり、光を宿したようでもあった。あの瞬間に個人アーサーは消え、新たに王としてのアーサーが立ち上がったのだろう。
 騎士たちがグィネヴィアを非難する中、「口を慎め」と諫めた上で、「全ては運命の仕業 誰も悪くない」「私にも罪はある 繋ぎとめられなかった」と歌うアーサー。これはいかん、これはいかんよ!切なすぎる。妻の心変わりと家臣の略奪愛を聞いて、あれほどまでに狂おしく愛を叫んでいたのに、そのことで本人たちを責めるのではなく、妻からの愛を保ちきれなかった自分自身のせいにする…だと?いやいやいや。アーサーは悪くない!と叫びたくなるし、やっぱりグィネヴィアは火あぶりだ~と言いたくもなるが、それでもアーサーは許すのだろうな。なんという器の大きさ。
 前半に「憎しみは次の憎しみを生むだけ」というマーリンの台詞があったが、後半にアーサーが全ての憎しみを赦しで解放させている。そんなに全てのことがうまくいくわけでもないだろうが、憎しみの連鎖を断ち切るために必要なのは、苦しみもがいた末に赦す勇気なのだと気付かされた。それは弱いことでも情けないことでも不甲斐ないことでもなく、何よりも誰よりも強さがないとできないことなのだと。
 最後の渾身の演説には心が震えた。毎回一言も漏らすまいと聞き入っていたが、私の記憶力では5回の公演でも全てを覚えきることはできず、曖昧かつ断片的な内容となっていることをご了承いただきたい。

 運命は天が決める
 だが選択するのは人間だ
 その選択の結果起きたことを誰も裁くことはできない

 人間は結果を知らずに多くの選択をする
 それは人間に与えられた罰であり権利だ

 そしてこの国の民のために生きると宣言する王。冒頭の無邪気な青年だったころを思うと、最後には見違えるほど立派な王として成長するアーサー。もしかすると、それは成長というよりも、無邪気さと引き換えに国王としての責任を受け入れるしかない重い十字架なのかもしれない。だがしかし、運命に導かれた人生を全うし、自分のやるべきことを受け入れ、国と民と家臣たちを思う心は海よりも広く、その後のブリテン王国に幸あらんことを願わずにいられなかった。
 全てをかなぐり捨てて愛や夢や希望の感情に委ねる選択に心揺さぶられることもあるが、現実ではそうはいかないことも多い訳で、愛や夢を断ち切って自分のやるべき任務のために自らを律する姿も実に高潔で神々しい。ラストシーンで騎士たちの真ん中で堂々と立つアーサー王の姿には後光が差して見えた。愛に生きた男ではなかったかもしれないが、国と民のために生きた男――。この国の民のために!と力いっぱい両手を広げる姿を見ると、観客もブリテン王国の民となったような気持ちになり、我らのために全てを捧げて王となったアーサーにひれ伏したくなった。ビベレ ロイ アーサー!

 

(次回に続きます。)

 

<関連レポ>

キングアーサー② メレアガン×モルガン×ダンダリ - えとりんご

キングアーサー③ ランスロット×グィネヴィア×ガウェイン - えとりんご

エリザベート ②トート

 前回に続き、「エリザベート」を考察していきたい。サブテーマは「難易度別 エリザベートの世界!」。自分の中での解釈の難易度(独断度とも言う)を★で表している。今回は最難関のトートに迫ってみたい。(※ネタバレご注意ください。)

 

トート

トート=死 (難易度:★★)

 

 トートは一体何者なのか―――この作品の難解さはやはりこれに尽きる。「エリザベート」は、黄泉の帝王トートが人間であるエリザベートに愛を抱く物語。「黄泉の帝王」という響きからは、人の生死を操り、その指先一つで人を死の世界に追いやることができる存在といったイメージを受ける。その目線でずっと「エリザベート」を見てきた結果、今ひとつ理解しきれない感覚があった。

 今期の「エリザベート」を見ていて、ふと「トート=死」、即ち帝王というより死を擬人化した存在ということがストンと腑に落ちた瞬間があった。事故に遭えば死がよぎるし、もうこんな人生は嫌だ!と叫べば、死への扉をたぐり寄せてしまう。死の世界は暗く不気味で、でもどこか耽美で吸い込まれそうな魔の魅力もある。自分の心が強ければ拒絶もできるが、逃れられないほど絡め取られてしまう時もある。死が自分を絡め取りにきているのか、自分がそういう妄想を生み出すことで死から逃れられない言い訳を作り出しているのか。

 

 「トート=死」と考えると、脆く崩れそうになるシシィの元にたびたびトートがすり寄ってくるのも理解できるし、シシィの自我が覚醒したあとは辛い場面に出くわしてもトートを一蹴して追い払うのも理解できる。いや、むしろトートを呼び出しているのはシシィなのではないかと思えた。

 トートがシシィの作り出したイマジナリーフレンドかと言うと少し違う気もするが、トートは自身の意思を持った存在として人間の目に見えない世界に生きている人物という側面もあれば、誰しもが持っている精神世界の中で作り出されている存在という側面もあると捉えた方が、私にはしっくりときた。

 シシィは最後の最後にはトートの元へ向かうことを理解はしていながらも、トートを逃げ場にしてはいけないことに気づいている。ルドルフを亡くした後、トートに拒まれる場面が印象的だ。シシィは息子を死に追いやってしまった自責の念に駆られて押しつぶされそうになっているわけだが、それでも死に逃げるなと、生の世界に追い返したのは他でもないシシィ自身の魂だったのではないかと思えた。

 

ラストシーン(難易度:★★★)※特にネタバレ注意

 

 「エリザベート」を難解にしている最大の原因はラストシーンだろう。宝塚版と東宝版とではラストシーンの描き方が全く違っている。ルキーニに暗殺された後にシシィとトートが黄泉の世界の入口のような場で邂逅することには変わりないが、東宝版ではシシィが少女期のように天真爛漫に晴れやかな表情で歌い上げ、トートはどこか戸惑いの表情を見せ続ける。それまでずっとトートがシシィに執着していて、シシィがそれを拒んできていた関係性であったのが、どちらかというとシシィが嬉々として飛びついてくるのを受け身で呆然と抱きとめるようなトート。愛の口づけ、つまりは死の口づけを交わしたことでシシィの命が果てると、トートは大切なものを抱えるようにして棺の板にもたれかけさせる。そこで振り返ったトートの表情には、シシィを黄泉の世界に迎えた喜びや満足感ではなく、戸惑いの色が浮かぶ。観客は、え、トートが望んでいた結末ではないの…と困惑するうちに暗転し、そのままカーテンコールへと流れる。え、え、どういうこと?という観客の問いには誰も答えてくれない。

 宝塚版では、トートとシシィが結ばれて微笑みながら天に召されていくような演出だったので、それはそれでファンタジーとして成り立つと感じるが、東宝版では死が愛の結末でもなく、逃げ場でもなく、未来でもなく、一つの終わりであることを描いていて、多様な解釈の余地を観客に残してくれる気がしている。

 初回の観劇から20年を経て、今期の私は以下のような解釈に辿り着いた。

 

 先に書いた通り、シシィの人生は不自由で、常に死への不安、覚悟、時には一種の憧れを抱いていて、でもむしろ死なずに生き抜くしかないと思い留まるために、トートが存在していたのだろう。もっと言うと、シシィがそういうトートを作り出していたのだと思えた。

 これまではもっとファンタジー的なストーリーと理解しており、目に見えない黄泉の世界から人間界にやってきたトートがシシィに一目ぼれする話としてそのまま受け止めていた。しかし、シシィが精神世界で抱く死の概念がトートとして表出したものと捉えると、いざとなれば甘美な死の世界が自分を待っていると思っていたことも窺えるし、また、その死の求愛から逃れるため生に縋りつくことで自分の精神を保っていたのだとも思えた。と同時に、トートにも意思があるとすれば、手中に収めたいと迫りながらも、本心では人間として生き続けるシシィを愛しく思っている構図が思い浮かぶ。トートはシシィを死へいざなっているように見えて、実は死の世界にやってくることを避けていたのではないか。

 トートが自分の愛を全うしてエリザベートを死の世界へ招き入れてしまうと、自分の愛した生きたエリザベートはいなくなってしまう。もしかしたら、エリザべートが作り出したトートも同時にいなくなってしまうのかもしれない。トートとシシィの愛は永遠に成就できない定めにあるのだろうか。そう考えると、ラストシーンでのシシィの無邪気さに対して、何とも言えない表情を見せ続けるトートが切なく愛おしくてたまらない。

 

 

誰のトートなのか(難易度:★★★)

 

 そもそもシシィが見ていたトートと、ルドルフが見ていたトートは同じ人物だったのだろうか。ルキーニが見ていたトートや、フランツが悪夢の中で出会ったトートは同じ人物なのだろうか。それぞれの人物が内に創り出す「死」の概念、時に恐怖だったり時に憧れだったりするその感覚、それがトートなのだとすると、一人の人間から見えるトートはその人だけのトートのようにも思う。だから、あのトートはシシィだけのトートなのかもしれない。

 この物語は全てルキーニが創り出したものという捉え方もできると思うが、私はトートを創り出しているのはあくまでもシシィで、ルキーニがそれを想像して語っている構造だと受け止めている。ルドルフにもトートが訪れているが、あれはルドルフのトートであると同時に、シシィのトートでもあって、シシィの目線で見た時に、ルドルフを連れ去ったのはあのトートになるということだと思っている。

 では、フランツの悪夢に登場するトートやルキーニに刃物を渡すトートはどうか。これは難しい。トートがシシィを本当に死なせたいのか、実は生きさせたいのかという観点で考えると、あの場面では本気で死なせる方向に向かっているので、我々が見ているのはフランツのトートであり、ルキーニのトートでもあるようにも思えるし、トートが独立した意思を持っているようにも見える。それとも、あれもシシィ目線で見た時のトートであって、悪夢の時点では既にシシィがもう人生を終える覚悟を持ちつつあったということなのだろうか。

 悪夢の場面については私の中でまだ結論が出ていないが、ラストの白い衣装のトートは紛れもなくシシィのトート。シシィの死後、シシィとトートは同じ世界線に存在するのだろうか。トートの言う永遠に終わらない世界の中で、二人は愛を交わし合うのだろうか。実は、シシィの死とともにトートの存在意義も消え失せてしまうのではないか。あのエンディングの瞬間に、ああ、もう少しこの続きを見せてほしいと手を伸ばしたくなる。この余韻がたまらなく心地よい。

 

 

ウン・グランデ・アモーレ(難易度:★★★)

 

 ルキーニが叫ぶ。

 皇后は死を愛し、死も皇后を愛していた。

 ウン・グランデ・アモーレ!偉大なる愛だ!

 

 死と人間が愛し合う…この意味を理解することは難しいが、人間が死を見つめることはある。日常、何事もなく暮らしていたら死を意識することはないかもしれない。だが、病、天災、事故、悩みに直面した時、人は死を意識する。死がこんなにもすぐ隣にあったのかと思い知らされることもある。死と向き合うこと、それは取りも直さず、生と向き合うことだと私は思っている。自分であれ、近しい人物であれ、生には必ず終わりがある。いつか訪れる死を考える時、今この瞬間の生を見つめるしかない。死を愛することが死を受け入れることだとすれば、それは生から逃げることではなく、生を愛することでもあると感じる。

 シシィは最後まで孤独な人生だったと思うが、生を切り捨てて死に逃げたわけではなかった。「私を帰して!」「いやよ、逃げないわ~」「まだあなたとは踊らない!」「お前はまだ私を愛してはいない!」…死を意識する場面で、トート(=自分)と交わす魂の会話の数々。時に死から逃げ、時に死に拒まれながら、シシィは生き抜く道を必死に選んできた。最後の場面でも、周囲の環境や絶望感に振り回されて死に逃げたのではなく、踊る相手を自分で決め、愛くるしい笑顔でトートに向かっていったわけで、最後の最後には死を愛せた、つまり自分の人生を愛せたということなのかもしれない。シシィの最後の歌声が心に響き渡る。

 泣いた 笑った くじけ 求めた

 虚しい戦い 敗れた日もある

 それでも 私は命ゆだねる 私だけに

 

****

 

 20年経って新たな印象をもたらしてくれる「エリザベート」はやはり不朽の名作なのだろう。トートの新たな解釈が思い浮かんだのも、フランツの印象が大きく変わったのも、自分の視点が変わったことによるものだと思う。まだ私は姑の立場にないが、その立場に立てばゾフィーの気持ちも多少理解が増すのかもしれない。観客もキャストも解釈は一様ではなく、多面的でいいと考えているし、自分がその時その時に舞台から受けた印象を大事にしたい。今の私の精神状態で、今期の「エリザベート」に出会えたのは一つのめぐり合わせだと思う。また次に会う時には新たな発見があるかもしれない。そういう新鮮な期待を持てる演目は少ないので、今後も大切に観劇していきたい。

 今期も素晴らしい「エリザベート」を有難うございました。

エリザベート ①エリザベート×フランツ

エリザベート
2022.10-11 帝国劇場
エリザベート(愛称シシィ) 花總まり、愛希れいか
トート 山崎育三郎、古川雄大、(井上芳雄
フランツ 田代万里生、佐藤隆紀
ルキーニ 黒羽麻璃央上山竜治
ルドルフ 甲斐翔真、立石俊樹
ゾフィー 涼風真世香寿たつき剣幸
少年ルドルフ 井伊巧、三木治人、(西田理人)
※( )内は観劇できていないキャスト


 初めて「エリザベート」を見たのはもう20年以上も昔のことだ。山口祐一郎トートと井上芳雄ルドルフという、今から思えば伝説のキャストだった。家族の影響でミュージカルを見始めた程度の初心者だったが、とにかく祐様の天から粒子が降るような美しすぎる歌声と、後半で突然出てきて驚きの美声を響かせるまだ無名の井上芳雄の鮮烈なデビューが圧巻だった。ストーリーは難解すぎてほぼ理解できなかった気もするが、とにかく強烈な印象を受けて帰ったことだけは覚えている。

 あれから20年。宝塚版も含めて大好きな作品だが、年々チケットが入手しづらくなり、劇場で見る機会が少なくなっていた。今期は久しぶりに気合を入れてチケット争奪戦に乗り出したが、80公演近く申し込んだ抽選が全て落選するなど、「エリザベート」人気の洗礼を浴びた。めげずに公式リセールなどで少しずつチケットを集め、最終的にはありがたいことに5公演ほど観劇できた。
未だに完全にストーリーを理解するには至っていない。というか、永遠に新しい発見がある作品だと思っているが、今期は自分の中でかなり「エリザベート」の理解が深まったので、今の感想を記録に残しておきたい。完全なる独断と偏見となるのでご了承いただきたい。サブテーマは、「難易度別 エリザベートの世界!」。自分の中での解釈の難易度(独断度とも言う)を★で表している。
(この先ネタバレを含みますのでご注意ください。)


エリザベート(シシィ)

 エリザベートの美しさと強さと弱さがこの物語が永遠に愛される理由だろう。令和の時代ではそれほど違和感なく受け入れられるが、初演当時の1990年代はまだまだエリザベートのような妻像は一般的ではなかったと思う。ましてや、彼女達が実際に生きた19世紀においては少数派というかエキセントリックな皇后であったに違いない。しかし、皇后である前に、妻や母である前に、自立した一人の人間として生きたいという根源的な欲求を貫き通す姿に、多くの人が心を寄せるのだと思う。彼女の強さに共感する人もいれば、実現できない自身の希望をシシィに託す人もいるだろう。
 また、皇后という華やかな立場につきまとう逃れられない重荷に同情も感じる。ひとたび皇后の地位が与えられてしまった以上は、鳥かごの中に生きても不幸となり、鳥かごから逃げ出して飛び立とうとしても不幸になってしまうという、運命の哀しさを感じてしまう。私が子供のころはプリンセス(王妃)は憧れであり、幸せの象徴のように思えたが、大人になって某国の元妃や某国で世継ぎの重圧に苦しむ皇太子妃などを見るにつけ、囚われの人生であるようにも思う。彼女達にもそれぞれのトートが訪れていたのかもしれない。むしろトート閣下でもいいから訪れて寄り添っていてほしいとさえ思う。

精神病院 (難易度:★★)

 精神病院での下りは、全体のストーリーから見ると異質というか、サイドストーリーのような印象を受けるが、これは宝塚版においてもカットされていないところを見ると、重要なシーンであることが窺える。このシーンでは、シシィがいかに孤独で、自由を求めていたかが痛いほど伝わってくる。
 特に、花總まりさんシシィの回を舞台間近で見る機会に恵まれたのだが、精神病院の患者を抱きとめながら、「体は束縛されていてもあなたの魂は自由」、「私があなたならよかった」と涙を溜めて歌うシーンは胸にぐっと迫るものがあった。あれほどの美貌と財と地位に恵まれ、夫や子供に囲まれていても、自由のない闇の世界で一人苦しみもがき続けていたのだなと。
 花總さんは、誰もが羨む幸福な立場にあるにもかかわらず、誰にも理解されない孤独を抱えた薄幸な女性を演じさせたら天下一品だと思っている。ともすると、それは非常に我が儘で贅沢な悩みであるが、花總さんが演じると、その嫌味がなくてむしろ境遇に同情したくなってしまうのだ。あれは花總さん自身が持つ美しさ、気品、儚さ、健気さ…そういった天性のものからくる特性なのだろう。
 愛希れいかさんシシィは全体的に強い印象を受ける。トートもフランツも圧倒されているのではないかと思うほどの強さだ。しかし、この精神病院で涙をこぼしながら「私が手に入れたものは孤独だけ」「強い皇后を演じるだけ」と歌う場面があり、愛希シシィの強さは脆さの裏返しでもあったのかという説得力があった。
 いずれのシシィも、この場面で見せる姿がありのままの心を映しているように思えて涙を誘う。(※歌詞はニュアンスです。)

キッチュ? (難易度:★)

 この作品が難解だと感じるのには様々な理由があるが、ひとつは物語全体も一人一人の登場人物も多面的に描かれているからだと思う。実社会では他人の心を完全に理解しきるなんてことは鼻から諦めている。しかし物語となると、何らかのメッセージ性の下で人物の行動や精神状態の理由が明らかになるだろうと予想しながら見ているので、つい理解できる気がしてしまう。だが、多面的な1人の人間なので内面まで分かろうとすることがおこがましいのだと最後に突き付けられるような感覚が「エリザベート」にはある。
 冒頭の天真爛漫な少女姿、神々しいほどの美貌、トートに翻弄されて黄泉の世界に連れ去られてしまいそうな緊張感、ゾフィーとの嫁姑バトル、優柔不断な皇帝フランツへの失望、ハンガリーでの熱狂的な人気ぶりなどなど、冒頭からエリザベートに共感する展開が続くため、観客は基本的にエリザベートの味方となって物語に入り込んで見ている。
 だが、ルキーニが「キッチュ!」(=まがいもの)と叫ぶ場面では、エリザベートの美貌に騙されてはいけないと歌っており、スイス口座に隠し財産を持っていたとか、皇帝夫妻の愛は偽物だとか、ルドルフを亡くした悲しみさえも同情を買うためだとか、エリザベートをおとしめる台詞が続く。観客にとってはあまり耳障りがよくないが、これ以外にもふとエリザベートの我が儘な側面を感じる場面も出てくるわけだ。
 特に、あれだけ皇太后ゾフィーや夫フランツと戦った結果、子供を引き取ることに成功したというのに、子育てを結局人に任せることにする辺りは首をひねる。終盤で、ルドルフが母に縋りついて協力を求める場面では、僕はママの鏡だから僕のことわかるよね、というルドルフに対して、分からないわ久しぶりなのよと冷たい表情で言い放つ。あれは…なぜ? 無力感に打ちのめされているルドルフを絶望に落とすようで、ルドルフが不憫でならなかった。後半、フランツが懸命にシシィとの仲を回復させようと努める場面でも、全くとりつく島もない様子なので、さすがにフランツが哀れに思えたりもする。
 最近流行りの推し活ではないが、エリザベートに憧れや敬意を感じつつも、全肯定派になり切れるかというとそうでもなく、少し理不尽さを感じて共感しきれない場面もある。この辺りが観客にとっては善悪の分類がしづらく、どのような心持ちで見ればいいのか分からなくなるポイントのように思う。結局これは一からの創作物語ではなく、ファンタジー色が強いとは言え、一人の人間の一生を描いた大河ドラマのようなストーリーであるわけだから、人間の多面的な部分を立体的に舞台で見せているのだと思えた。エリザベートの複雑な心のうちを垣間見ることによって、彼女がただ単におとぎ話のヒロインのように生きたのではなく、人間として泥臭くもがきながら生き続けたことが感じられて、一層のリアリティをもたらしているのだと受け止められるようになった。


フランツ

 とにかく今期の「エリザベート」で、これまでのイメージを完全に覆させられたのがフランツ・ヨーゼフだった。以前見た時は、フランツは優柔不断で母の言いなりの印象しかなく、同情する気も起きなかった。今も全体的にはそういった印象が強いのだが、フランツが最後に歌う「一度私の目で見てくれたなら 君の誤解も解けるだろう」、今期はまさにこれを突き付けられた思いだった。
 あれほどシシィに一目ぼれして結婚に漕ぎ着けたのに、のっけからシシィの気持ちよりも母の助言や古いしきたりを優先する点は理解しがたいが、しかしフランツは皇帝に自由がなく、任務を全うする責務があることを幼い頃から受け入れてきた立場だったので、少々の理不尽さはシシィも受け入れてくれると思い込んでいたのだろう。心優しいフランツだからこそ、母の期待も感じ、自分が目指すべき国づくりにも腐心し、シシィへの愛は溢れるほど抱き続け、息子ルドルフへの期待も示し、そのどの関係においても軋轢は避けたいタイプだったのだろう。「エリザベート」の作品においては少々頼りない皇帝に見えるが、実際には激動の19-20世紀において60年以上も統治した皇帝なのだから、政治への責任感は相当大きかったに違いない。それでも時には信念を曲げてでもシシィへの愛は貫きとおす場面もあったわけで、フランツなりに誠意を見せていたのだろうなぁと感じる。初期のボタンの掛け違いが最後まで解消されなかったのが実に切ない。


夜のボート

 今期は5回の観劇機会に恵まれたが、そのうち4回は田代万里生さんフランツだった。舞台間近で見た回もあったのだが、「夜のボート」の後半では万里生フランツは涙を一筋流しながら歌っていて、シシィへの渾身の愛の叫びが感じられて切なさ全開だった。しかし、花總まりさんシシィも愛希れいかさんシシィも、どちらかというと無の表情と感じられるぐらいに全身から拒絶感が滲み出ていた。ろう人形のように冷たい表情がぞっとするほど美しく、何とも悲しい二人の光景だった。皇帝と皇后という関係でなければ、寄り添える未来があったのだろうか…。本当に切ない。


悪夢 (難易度:★★)

 夜のボートでの涙も乾かないうちに、フランツは悪夢にうなされることとなる。シシィの命を奪うと宣言するトートに対して、エリザベートは私の妻だ!と叫ぶフランツ。これまでの冷静で感情を抑えることに努めてきたフランツからすると、最も感情をあらわにする場面と言ってもよい。夢の中では感情を爆発させられるのだろうか。その情熱をもっと早くもっとストレートにシシィにもゾフィーにも出していれば…と思わずにいられない。
 フランツは皇帝の立場を全うし、皇帝としてなすべき責務に人生を捧げてきたのだろうが、シシィへの愛もずっと変わらず持ち続けていたわけで。シシィの抱える闇から救えるものなら救い出したかっただろう。フランツは、シシィが旅をしても孤独を抱えていても心を閉ざしていても、ある意味シシィの全てを究極的に愛していたのだろう。シシィと愛し合えるのが一番の理想だっただろうが、それが叶わずとも、シシィが生きていること、たとえ形だけでも自分の妻として生きていることに満足していただろう。外野が何と言おうと、ありのままのシシィを受け入れる覚悟を持っていて、シシィが自由に旅をすることでさえ、自分が愛を持って認めているからできることなんだと、それが自分の愛の形だと考えていたのではないだろうか。シシィの心に近寄ることはできないが、そっと遠巻きに見守ることで愛を貫いていると自負していたのだと思うし、その距離でも十分に一番シシィに近い存在と思っていたのではないだろうか。その命が暴漢によって奪われるなど、許せたはずもない。トートがナイフを取り出して、ルキーニ!取りに来い!と促す場面では、フランツは半狂乱になっていて、何をする!と叫び、手を伸ばして抗うが、トートダンサーに捕らわれてしまう。ルキーニの凶行の瞬間、うなだれるフランツの姿が哀れだった。
 長年フランツ役を演じておられた石川禅さんが「エリザベートはフランツの成長物語なんだよ」と以前おっしゃっていた。当時はよく分からずにいたが、確かにフランツは最後までエリザベートの愛を求めて彷徨っていたのだろう。フランツはずっと出会った頃のままの気持ちでシシィを思い、二人でまた寄り添える日々が来ることを夢見る哀れなロマンチストだったのだろう。改めて、夜のボートの歌詞を思い出す。

愛はどんな傷をも癒すことができる…

愛にも癒せないことがあるわ 奇跡を待ったけれど起きなかった

愛している
分かって 無理よ 私には

 フランツはシシィが傷を抱えていることを分かってはいた。シシィは愛が多くを癒せることを知っていたけれど、自分の傷や二人の溝は癒せないと諦めている。でもどこかで奇跡は待っていたということだろうか。シシィの望む奇跡とは何だったのか。鳥のように自由に羽ばたき、何のしがらみもない世界で、フランツと愛し合って生きることがシシィにとっての奇跡だったのだろうか。だとすると、フランツへの愛を完全に失ってしまったわけではなかったのだろうか。もし、フランツとシシィが和解する世界線があれば、フランツがどれほどの喜びでもってシシィを抱きしめたかと想像すると、涙を禁じ得ない。

 長くなってきたので、続きは次回に…。次回はトートについて掘り下げてみたい。

バイオーム

※ネタバレ厳禁のストーリーですが、一部ネタバレを含んでいます。未見の方は十分にご注意ください。

2022年6月 配信(東京建物ブリリアホール
ルイ・ケイ 中村勘九郎
フキ・クロマツ 麻実れい
怜子・クロマツの芽 花總まり
学・セコイア 成河(ソンハ)
野口(庭師)・薔薇 古川雄大
克人・盆栽 野添義弘
トモエ・りんどう 安藤聖
脚本 上田久美子

 一言で言うと衝撃作だった。5日間のみの朗読劇。朗読劇と言えば、俳優が椅子に座って台本を読むイメージだが、宣伝動画では台本を持たずに歩き回ったりしていて、どうも通常とは違いそうだ。今年3月に惜しまれつつ宝塚歌劇団を去った上田久美子氏が退団後初の脚本を務めると注目されていたこともあり、配信で観劇した。
 爽やかな読後感ではなさそうな予感はあったが、予想を遥かに超える地獄展開で、重苦しさに耐えられなくなりつつも、途中で抜け出すこともできないほど囚われてしまった。重い。苦しい。えげつない。人間の暗部をこれでもかと抉り出し、人間の業がドロドロと渦巻く世界の話だった。 ※この先、ネタバレ注意です!

 7人の俳優は実力揃いで、あっという間に世界観に引き込まれた。麻実れいさんの語り口や中村勘九郎さんの8歳を演じる演技力も素晴らしかったが、何と言っても花總まりさんの狂気ぶりが凄まじかった。花總まりさんは、ミュージカル好きであれば、誰もが知っている宝塚出身の女優だ。王妃や王女の役柄のイメージが強く、華やかで気高く、かつ繊細な内面を持つ女性を魅力的に演じてきている。
 その花總さんが気が触れるほどの狂気に陥っていく様が凄絶だった。大物政治家の娘であり妻であり、跡継ぎを生み育てる母であるのだが、その息が詰まりそうな環境の中で自分の人生の意味を見失い、精神を保てなくなってしまっている。美しいまま歪んで壊れていく姿はぞっとするほど怖く悲しく、そしてとてつもなく美しかった。
 登場人物は皆愛に飢えているか、愛をはき違えているか、愛を知らないか、愛を殺しているか、とにかく一般的な愛というものが完全に欠落した家族だった。しかしタチの悪いことに、愛は欠落しているのに、子孫を残すことに対して恐ろしいまでの執着を持っている。政治家の家庭だから、跡取り、血筋、遺伝子が持つ重さが通常の家庭より大きいのかもしれない。通常なら、仮に愛する人に巡り会えなくても、子供に恵まれなくても、それ以外に生きる意味を見出すことはできるはずで、職業も政治家以外にも沢山の選択肢の中から選び取っていけばよい。政治家が見ている世界が、日本であり世界であり未来であるのに対して、その家庭は何と狭苦しい世界に閉じ込められていることだろう。
 また、本来ならば愛があって、その結実として子供が生まれ、その子供を通して未来を見るわけだが、この家にとっては全く逆の構図となっていて、未来を存続させるために子供が必要不可欠という考えなので、子供が道具であり、更にその手段として嫁や婿が存在してしまっている。そこに愛の入る余地などなく、必要とされてもいない。それだけなら時代錯誤とはいえ、古今東西繰り返されてきたことのようにも思えるが、さらにおぞましいのは子供が復讐の道具として使われてしまっていることだ。一度生み出せば、将来を保証する原石ともなるが、そこにいびつなものが混ざると取り除くことのできない刻印ともなる。
 この究極のエゴが渦巻くドロドロした愛憎劇を黙って見ている者がいる。何十年も何百年もこの営みを黙って見ている植物たち。そして、純粋無垢な8歳のルイ。なんという地獄絵図だろう。父親の愛情は偽物で、母親にはそもそも愛などなく、自分はいらない子供で、そして唯一のよりどころと信じてきた友達のケイの真実を知らされる。知りたくもない現実を一晩の間に次々と突き付けられてしまうルイ。辛すぎて直視できない。ルイに聞かせないで…、ケイの存在を否定しないであげて…と祈らずにはいられなかった。

ルイ×怜子×コプト
 ルイはいわゆる障害があるのだろうか。確かに政治家には向いてなさそうだが、ケイとの会話を聞くと、複雑な計算問題をサラッと解いているし(多分正解なんだろう)、理解度に問題があるのかどうか分からなかった。学校がつまらないと言うが、分からなくてつまらないというよりも、自分が面白いと思えるような未知の世界のことを教えてくれる場所ではない、と感じているように思えた。ケイの知識もルイの知識なわけだから、ルイは博学とも言える。それは悲しい性でもあるが、小さい頃から耳年増であるためだろう。恐らくは、小さい頃は純粋に跡取りとして期待され、帝王学として大人の話も聞かされてきたのだろう。期待が失望に変わった後も、あの一家では表向きの難しい政治の話も裏の話も交わされていたはずで、それを始終耳に入れながら、一生懸命に繋ぎ合わせて理解する作業をしてきたに違いない。他の子供が絵本のおとぎ話だけを聞いている時分から、いきなり太宰治ヴィクトル・ユゴーの世界を解説もなく見せられてきたようなものだ。この表と裏、美しいものと汚いものが同時に存在する世界の真実を。さらに学校に通い始めると、外は単純で無邪気な世界であることを知り、自分の家と外の世界とのギャップを受け止めきれなくなっているようにも思えた。小さい心で受け止め、消化するためにはケイの存在が必要だったに違いない。
 ただ私の印象としては、ルイは繊細だけれども意外にも壊れやすいわけではなく、より原始的な力を備えているように思えた。母の怜子や花療法士のトモエが感じようとしているコプト層、つまり人間の煩悩が渦巻くレーテル層を超越したところにある自然界の波長とでも言うのだろうか、そのレイヤーを感じる力をルイはあっさりと身に着けているではないか。気違いだ精神病だと見限られているルイが、実は俗世の煩悩にとらわれずに生きる術を身に着け、母の怜子が望むような心の安寧の境地に辿り着いているとは何たる皮肉か。となると、怜子がコプト層の境地に辿り着いた暁には、ルイのような自由人として生きるということになるのか。それは傍から見ると、気が触れた狂人のように見えるかもしれないが、確かに怜子本人にとってはその方が幸せかもしれないと思えてしまう。あぁ一体何が幸福で何が不幸なのか、頭が混乱して抜け出せなくなってしまう。

フキ×怜子×遺伝子
 2幕は怒涛のような地獄の展開だった。唯一依存していたトモエにも非難され、自分の悩みは誰にも理解されないことを思い知る怜子。自分の人生を縛る父を恨み、夫を憎み、フキを憎み、家を憎み、定めを恨み、家の象徴であるクロマツを切り倒す。怜子の狂気はピークに達していき、この後のフキと怜子の格闘は圧巻だった。聞いていても苦しい台詞が続くが、花總まりさんの狂気の演技が振り切れていて、怜子が内に抱える闇に胸が引き裂かれる思いだった。怜子は真実を知っていたのだろうか。知っていたとすればいつから。
 フキの愛は、というよりフキの行動の原動力は復讐だったのだろうか。女主人であるヒロコから受ける傷をともに舐めあうことで運命に抗ったという、とある過去の告白。愛か逃避かはけ口か定かではないが、その結果として命は生まれた。しかし、愛は封印するしかなく、その代わりに、その命の中に確かに存在する自分由来の生に対する愛着や執着がいびつに増幅し続けていた。

 この物語は自分の血筋、自分の遺伝子を残すことに対する恐ろしいまでの執着を皆が抱えている。現代の日本においては、家制度の在り方が徐々に変化しているが、それでも遺伝子に対する執着というのは残っているのだろうか。子供を生むとは何なのか、さらに大げさに言うと生きるとは何なのか、という哲学を突き付けられる気がした。今は結婚や出産をしない選択も珍しくなくなった。だから、どちらがいいとかいう議論をするつもりはないが、なぜ子供を生むのか、なぜ生みたいのか、なぜ生みたくないのかという話は各自でそれなりに向き合えばいいと思っているし、違う選択をした人に対して別の選択を押し付ける必要もないと思っている。と前置きしたうえで、自分のことを話すと、私には子供がいるが、子供を生んでよかったと思っているし、子供を生まないと気づかなかったことも沢山あると思っている。子供を生み育てることについて今感じることが100あるとすれば、当時は20ほどしか知らずに生んだわけだが、ただ本能的に遺伝子を残したいことは感じていたと思う。自分の遺伝子を残したいというよりも、夫の遺伝子を受け継いでいる子供を見てみたいという気持ちがあった。生まれてみると、もちろん独立した一人の人格なので、自分とも夫とも違う人間だが、身体的にも精神的にも自分や夫の性質を受け継いだ特徴を持っているわけで、事あるごとに血は争えないと思ってしまうし、やっぱり他人とは違う強い結びつきを感じる。たとえ自分たちの命に限りがあっても、この子たちが生きる未来に思いを馳せることはできて、その未来と自分が繋がっている実感を持って、今の時代をより良く生きることに意味を見出せていると思う。センシティブな事項なのでしつこく補足すると、これは子供がいなければ実感できないと言っているわけではない。子供がいない人も何かを通して同じように感じている場面があると思うが、自分は子供の存在を通して未来を感じる時がある、ということだ。
 なので、遺伝子への強い思いがあることは理解できないわけではない。しかし、バイオームでは血に対する執着がとても大きい意味を持っている。ただ単に政治家を継がせる子供が欲しいのではなくて、自分の血を分けた、自分の遺伝子を持った子供にとらわれている。怜子はその遺伝子を毛嫌いしているようだが、それはそれで遺伝子の呪縛にとらわれているのだと感じる。それほどまでに遺伝子を残して家を存続させることにこだわっているので、愛がなくても行為に及べるわけだ。これは劇中で学が言っているが、実におぞましいことだ。怜子にとって苦痛であることは間違いないが、恐らく学にとってもこの上ない苦行なのだろう。愛がなく、自分を求めてもいない相手と、家の存続のために行為を持つことのおぞましさ。学には没頭できる仕事があるが、怜子には何もない。これが人生だとすれば、人生に絶望するのも分かる気がする。生きる意味とは何なのか、子孫を残すだけなのかと。

 あまりにベタすぎるが、国語の授業で習うあの有名な詩を思い出してしまった。
―やっぱり I was born なんだね―
― I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね―  (吉野弘 I was bornより)
英文法の無邪気な発見をする息子に対して父親が静かに話したのはカゲロウの話と産後間もなくこの世を去った息子の母親の話。カゲロウの口は退化しており、生まれてから何も食べることはできず、ただ次の卵を産んで数日の命を終える。卵を産むためだけに生きる。産んで死ぬだけの命を何のために生き、何のために次の世代に繋ぐのか。カゲロウの一生の意味については、きちんとした答えを私も用意できない。人間は違う、と思いたいのだが、怜子にとってはまさにI was bornだったんだろう。生まれさせられた人生。生まされる人生。怜子にとっては、もはや人間の人生も無意味なサイクルに思えたのだろう。何の価値もない人生をただやり過ごすだけのためになぜ生まれてきたのか、そしてそんな人生を与えるために子供を宿すことに何の意味があるのか、その答えが見つからずに彷徨っているのだろう。
 生物学的に見れば、人間は生存競争において成功している。生命も維持できていて、生殖能力もあり、次世代に命をつないでいる。それだけではダメなのか。…そう、ダメなのだ。大抵の人間はそんな製造マシンのような人生では満足できない。じゃあ、生きるって何なんだ。何があれば生きる意味を実感できるのか。何があれば幸せと思えるのか。無防備にこの作品を見てしまったせいで、この命題が真正面から突き刺さって身動きできなくなってしまった。
 そして私は自分の人生を振り返った。もちろん理想を言えばキリがないが、両親に愛され、我が子も愛おしく、愛すべき夫に出会い、夫に心から愛され、家族仲も兄弟仲も良く、これ以上幸せなことなどないではないか。これ以上、何を望むというのか…!と涙ぐんでしまうほど、この作品に情緒が揺さぶられてしまった。


野口×怜子
 野口と怜子の関係は切なかった。野口が封印してきた感情は、完全にだだ洩れてしまっていたようだ。野口は出生の秘密は知らなかったのだろうというのが私の解釈だが、幼い頃から淡い恋心は抱いていて、しかし抑えなくてはいけないことは知っていて、怜子が幸せであればひっそりと見守るつもりでいたのだろうが、実際には怜子の人生が幸せではないので、自分のような立場であっても怜子をこの地獄の世界から救い出してやりたい、と思ってしまったのだろう。
 観客は、というより少なくとも私は、怜子も野口に対して好意を感じていて、救いを求めていると思えたので、野口が怜子を抱えて去っていく場面や翌日に野口が高揚を隠せずに登場する場面は共感と応援の気持ちしかなかったのだが、果たして怜子はどのような感情を持って受け入れたのだろうか。フキに一部始終を伝える場面では野口への好意はまるで感じられない。全てを知った上で怜子が復讐の道具として野口を利用したとまでは思えない自分がいるのだが、学に対する抵抗や家に対する反発や運命に対する当てつけのような気持ちがあったのだろうか。だとすると、野口が不憫でならない…。真実の愛が存在しないストーリーの中で、唯一本物の愛情だったから。しかし、その愛だけは成就できない結末を用意しているところにウエクミさんのウエクミさんたる所以を見た思いだ。

ケイ
 イマジナリーフレンドを持つ人物を現実に見たことはないが、作品内で登場するものは何作か見たことがある。それはいずれも登場人物の精神の安定のためにその存在が必要とされているものだった。自分の理想を具現化した人物であったり、自分の行動を正当化するための人物だったり。ルイにとってのケイは、自分の理解者でもあり、庭師の子供と対比させることで政治家一家の跡取りである自分の立場を捉え直す存在だったのだろう。
 では、最後に登場するケイは何者なのか。お坊ちゃまのお友達?と聞くフキに対して、ううん、ばあちゃんのケイだよ、と答えるケイ。ばあちゃんのケイとはどのような存在なのか。まず、フキはイマジナリーフレンドを必要としているのか。抑圧された生涯を過ごし、異性への愛も我が子への愛も封印し、それ故に自分と関わりあるこの一家の繁栄に執着し、誰よりも尽力してきたフキ。今、人生を捧げてきた一家も子も孫も失い、息子との縁も切れたフキが願うのは何か。フキが成しえなかったことは二つある。自分が血を分けた人間が未来永劫名を残す偉業に貢献するという夢と、我が子に歪みのない愛情を注いで育てること。私は間違っていた~~~と絶叫するフキの声、最初からやり直そうと怜子の肩を抱きしめる姿を見ると、愛を持って慈しんで子供を育て直したいという深い悔恨の思いが見える。ずっと昔に封印したフキの母性が、ケイという存在を生み出したのか。客観的に見ればボケたお婆ちゃんになるかもしれないが、フキにはどうかどうかケイに愛情を注ぐ時間を持ってほしいし、愛を与えることでフキ自身も愛を受け止め、穏やかな余生を過ごしてほしいと願わずにいられなかった。

殺虫剤
 冒頭に何気なく出てくる、野口が庭木に殺虫剤を散布するシーン。最後の最後にもう一度殺虫剤が登場する。どのように繋がっているのだろうか。あの家の庭の「調和の要」であるクロマツには虫が巣食っていた。それを駆除するために人間が殺虫剤を撒く。これで安心だよ~と野口は声をかけるが、木々は毒を撒かれて苦しい思いをしている。
 ラストの場面で殺虫剤を使用したのが誰かはっきりと分からないのだが(と敢えて言っておく)、怜子の体の中にある虫を駆除したいという気持ちの表れだとしたら、その虫とは何なのか。虫とは遺伝子なのか。学の虫か。野口の虫か。克人の虫か。フキの虫か。代々脈々と受け継がれてきた全ての虫か。犯人は殺虫剤で全ての虫を駆除できたのだろうか。殺虫剤によって本体も毒で苦しみ、息絶えてしまうことを知っていながら、それでもなお体内に巣食う全ての虫を駆除したかったのだろうか。これで安心だよ、という野口の声がよみがえって震える。

植物×人間
 狭い狭い庭で繰り広げられる人間の憎悪。それをただじっと見ている植物たち。事前にあらすじを見ても稽古動画を見ても、植物の役回りが全く予想できなかったが、実際に見ると植物たちがじっと人間の営みを見ていることによる不思議な安堵感があった。盆栽以外は感情を持たず、ただ人間の行為を肯定も否定も応援も邪魔もせずにじっと見続けている。人間が繰り広げる大きなことも小さなことも、自然の前ではちっぽけなことなんだと思える。財を成して繁栄したところで、2代3代経てば凋落することもあり、幸福と不幸は常に背中合わせなのだ。大きい波のうねりの中で高みに上ったりどん底に落ちたり、そのたびに人間は一喜一憂しているが、長い目で見ればプラスもマイナスも相殺されることを植物たちは知っていて、達観して見続けている。時折、この植物たちの目線で物語が語られることで、人間の行為が愚かで狂ったものであることを静かに際立たせている。
 切られてしまったクロマツが形を変えただけだという台詞も、私たちは私たちに還るだけという言葉も、ルイをおかえりと迎え入れる様子も、クロマツの若い芽がルイと一緒に歩みだすところも、朝日を浴びて静かに踊る姿も、人間の営みが自然の懐に抱かれているという普遍的な包容力を感じられて、苦しいストーリーの最後にじんわりと光を感じることができた。


 まだまだ咀嚼しきれていないことだらけだが、この作品をリアルタイムで拝見できたことに喜びを感じている。衝撃作をありがとうございました。

宝塚宙組NEVER SAY GOODBYE ②アギラール×桜木みなと

※NEVER SAY GOODBYE (以下、ネバセイ)の感想第2弾です。ネタバレご注意ください。

アギラール×桜木みなと

 ネバセイには主演の真風涼帆さん演じるジョルジュを初め、魅力的な人物が複数登場する。真風さんの色気については前回散々語り倒したところだが、役でいうと、ジョルジュよりヴィセントより私の心を掴んで離さないのが実はアギラールだった。今回私をネバセイに誘ってくれた知人は、きっとジョルジュ派?ヴィセント派?って感想を求めてくるだろう。まさかのアギラール派…と答えてもいいのかどうか教えてください有識者様。人格疑われたりはしない…よね?笑
 一応これには思い当たる理由がある。過去ブログにも書いているが、私には最推しミュージカル作品がある。『マタ・ハリ』という作品なのだが、その中に出てくるラドゥー大佐という人物が大好きで、その沼にどっぷり浸かって生きている。アギラールがこのラドゥー大佐を彷彿とさせるものがあって、もう最初から目が離せなかった。実生活でこの手のタイプの男性が好きな自覚はないんだけども、いやぁとても愛おしい役だった。注目したとっかかりがラドゥーだとしても、元カレを引きずって投影しては失礼なので、アギラールをリスペクトして彼自身について考察していきたい。

アギラールの正義

 私はネバセイの良さは、登場人物がそれぞれに自分の理想を強く持っていて、それに向かって迷いなく進んでいるところだと思う。人生の真実を写真に収めたいジョルジュ、愛するバルセロナを守りたいヴィセント、戯曲やラジオを通して真実を世の中に伝えたいキャサリン、そして愛する祖国をファシストから何としても守り抜きたいアギラール。それぞれの思いが重なったりぶつかったりするのがとても良い。

 アギラールは登場するなり悪役のオーラ全開ではあるが、元々は真っ向から対立していたわけではないはずなのに、どうしてああなってしまったのだろう。スペインを守りたい、ファシストには負けないという愛国心が人より少し強いばかりに、それだけしか見えなくなって、ほんの少しのずれも許せなくなってしまった。1幕でフランコ将軍の反乱の報が届いた時には、市民一丸となってスペインを守ろうと拳を振り上げているのはアギラールだった。市民一人一人と熱く握手を交わしたり、腕を振り上げたりしている姿は、市民を率いる救世主のようでもあった。冷徹さも見せてはいるけれど、孤高の指導者として、それなりに人望を集められそうな雰囲気もある。

 それが、PSUCやPOUMといった政党が複数立ち上がり、政局に発展していく中で、純粋に祖国を守りたいだけの市民との間に溝が生まれてきてしまう。祖国を守るというゴールに直線的に向かっている市民と、そのゴールを確実に達成するための手段として、まずは統一した民兵を組織することやソビエトの後ろ盾を得ることを前面に打ち出すアギラール。間違ってない、間違ってないよ、アギラール君。事実、若者の愛国心だけを搾取してほぼ丸腰で戦地に送り、国のために散ることを美徳とした指導者はどの時代にもどの国にもいたわけだけど、何が正しいかはのちの歴史が裁くことだから。限られた時間と限られた情報の中で最適の戦術を考えるのは、誰よりも国を愛している指導者で、そして時にそれは誰よりも疎まれる孤独な定めにある。

 そういう意味で、アギラールの思考のスタートは間違っていないと思うけれども、自分の策が最善だと信じすぎるあまりに、それを妨げるものをことごとく排除してしまった。「我々が法律だ!」「偉大な目的のためならば全ての手段が許され~る~!」その極端さゆえに、祖国を思えば思うほど、市民を思えば思うほど、市民の心が離れる悪循環に陥っていく悲しさよ。そして、祖国を守るという崇高な理念がいつしか自分がスペインを支配するという個人の欲望にすり替わってしまう。この過程がとても丁寧に描かれていて、醸し出す悲哀が非常に良かった。

愛すべきアギラール

 アギラールも元はもう少し人間味のある愛嬌ある人物なんだろう。2回目のサンジョルディの祭りがめちゃめちゃツボだった。いつも通りコワモテな感じで登場したアギラールだったが、祭りの途中で踊りに参加するよう促される。は?なんで俺が?!みたいな表情で面倒くさそうな素振りを見せるのだが、即座にノリノリの表情で剣を振りかざして、娘を襲ったドラゴンを退治する騎士役をこなす。最後に赤い薔薇の扇子を持たされて、娘を救った英雄と崇められるシーンでは、自尊心をくすぐられまくってドヤ顔が抑えられないご様子。特に少し目を細めて顔を斜めに傾ける感じが、全面的にドヤ~っていう圧を押してきていて、もうこちらもマスクの中でニマニマが止まらなかった。か、可愛すぎか…!血も涙もない独裁者のようなアギラールが、突然男子小学生のような単細胞さを見せるあのギャップがたまらん可愛かったですね。きっとキャサリンの前でいいカッコ見せたかったんだろね~。残念ながら全然見てなかったけどもね!いや、キャサリンに見せたいだけではなくて、あれこそ本当にアギラールの夢だったんだろうな。スペインのピンチを救って皆に慕われる正義のヒーローになりたかったんだろうね。あのシーンを見ると、普段冷徹な鎧をまとっているけれども、もっと素の自分を出して相手の懐に飛び込んでいけば、きっと人心も掌握できて、スペインの窮地を救う指導者になれただろうにと思ってしまった。

 そしてアギラールの最大の見せ場はやっぱりキャサリンに迫るとこですよね。え、アンタ女に興味あったんかい?と思わせる突然の豹変ぶり。う~ん、ジョルジュの女性遍歴は色々想像できる気がするが、アギラールには遍歴あるんだろうか??ちょっと想像できない…。お相手もなれそめも想像できない…。そもそもあれはキャサリンを愛しているのか?それともいけ好かないジョルジュへの当てつけに、その女であるキャサリンに手を出そうとしているのか。無理やり羽交い絞めにして「俺はこの女が欲しいんだ!」と叫んでいるけど、女の気持ちは全く無視だし、愛されたいとか分かり合いたいとか言うより、支配欲の塊なんだよね。全く愛し方を知らん奴だと思うわけだけど、それにしては意外にも女の扱いに慣れていそうで突然フェロモンだだ漏れにしてくるのでマジかー!となりましたね。おもむろにネクタイを緩めたかと思いきや、突然のあごクイからの髪をゆ~っくり撫でたりするのが最高に気持ち悪いんだけど、めちゃめちゃ色気だだ漏れでしたねぇ。キャサリンの反撃を受けても、ニヤ~と唇の片端で笑いを浮かべながらジャケットの襟をピッと合わせながらドヤ顔で去っていくの、実に悪い奴だった。

 でも終始わ~るい顔してキャサリンを上から見下ろしてるんだけど、キャサリンがジョルジュの名前を出すとピクリと反応し、「あんな男のことは忘れさせてやる」とか言い出してムキになるのがいい。ここでちょっとだけ立場逆転し、キャサリンが「どうやって?あなたには無理よ」と鼻で笑うと、「できる!」というアギラール。出た!ここでも登場、アギラール少年!笑 できる!って最高すぎませんか!? シリアスすぎるキャサリンの危機を忘れて両目まんまるになっちまったよ。坊やできるんだ~そうかいそうかい、みたいな感じで。。

 というかよく考えると、ここでアギラールを煽るキャサリンもキャサリンだよねぇ。気が強くて向こう見ずとも言えるし、男の本性を知らない幼い女性とも言えるけど、あそこで男に火をつけるのは強すぎるし、あれが無自覚だとすると魔性の女すぎる。まぁそれによって、できる子アギラール爆誕してしまうわけなんだが、もうあの瞬間には祖国を守る崇高な理想はどこへ行ったやら、権力を振りかざして国をコントロールし、キャサリンを何としても自分のものにしたい欲望に支配されているようだった(いいんです、それもいいんです)。

 アギラールは基本的に冷徹孤高の独裁者風情を貫いているんだけど、そこから少年みたいな隙を見せたり、とんでもないフェロモン振り撒いたりするので、この振り幅がジョルジュよりヴィセントよりめちゃめちゃ格段に大きくて愛おしかった。志半ばで消えてしまったけれど、悪役だけにしておくのは勿体ないと思ったし、心理構造が多重で、ある意味では最も人間臭い人物だったので、もっともっと色々な葛藤や欲望に振り回される姿を見たいと思わせてくれた。悪役には悪役の正義があって、本人は盲目にそれを貫いているだけというのが悪役の放つ美しさだと思うし、彼にはその複雑な心理をもっと知りたいと思わせる妖しい魅力が満載だった。これだけの爪痕を残してくれたアギラールと桜木みなとさんに全力で拍手を送りたい。

※余談ですが、アギラールの魅力に取りつかれてしまった方は多分こちらも楽しめる方だと思います。→ミュージカル『マタ・ハリ』 | 東宝 モール アギラールにどこかよく似たフランス軍事諜報部のラドゥー大佐が女スパイマタ・ハリに狂っていく歪んだ愛を堪能できます。ちなみに、マタ・ハリ役は宝塚OGの柚希礼音さんと愛希れいかさんがWキャストで演じており、音楽はネバセイと同じフランク・ワイルドホーン作曲です!


宝塚セカンドデビューを終えて

 個人的な好みにより、フォーカスはジョルジュとアギラールに留めておくが、他の役もとても素敵だった。娘を嫁に出すなら危なげな色男ジョルジュやエキセントリックなアギラールより断然ヴィセントだろうと思うぐらいにヴィセントは全方位理想の男だった。あと、私は常日頃思っているのだが、恋愛要素が絡む作品については、登場する男性達に心奪われることが多くなるわけだけど、舞台として満足できるかどうかは、その男性達が命を懸けて愛するに値するほどヒロインが素敵な女性かどうかが重要だと思う。その意味で、キャサリンは美しいだけでなく自立した強い女性であり、離婚経験があっても自分のキャリアに向かってたくましく生きている現代的な女性として描かれていて、今の時代の観客から見ても自分を投影しやすい非常に魅力的な女性だったと思う。娘役トップの潤花さんはため息が出るほど美しく、歌声も素晴らしく、真風ジョルジュに愛されるにふさわしいヒロインだった。

 あとはとにかくコーラスが圧巻過ぎる!「コーラスの宙組」と呼ばれていることを後から知ったのだが、確かにとてつもなく厚みのある歌声と美しいハーモニーで圧倒された。大人数のコーラスが随所にあるのだが、特に市民が反乱軍に立ち向かう場面ではまさに宝塚のスケールメリットを存分に生かした迫力あるコーラスが響き渡り、歌声が敵軍を撃退させる威力となっているような感覚になった。観客は歌の終わりに拍手をするわけだが、戦いの歌の時には、歌に対して拍手を送っているのか、戦いの勝利を称えて拍手しているのか分からなくなるぐらい、歌と戦いが一体になっていると感じた。

 さらには、知人に布教されるままにプログラムもル・サンクなる舞台写真集も購入したのだが、舞台写真が惜しみなく沢山掲載されていて、インタビュー記事も豊富で、何と言ってもル・サンクの巻末に脚本(台本)が台詞とト書き入りで掲載されているのには心底驚いた。歌詞だけでもありがたいのに台詞まで!!道理で宝塚は二世代、三世代にわたって根強いファンがいるはずだ。ちゃくちゃくと沼を製造するシステムになっている…笑

 これまで何となく縁遠かった宝塚だったが、今後も自分の好みの作品があればまた是非劇場に足を運んで宝塚ワールドに浸りたい、そんな風に思えた宙組ネバセイだった。圧巻の舞台をありがとうございました。

宝塚宙組NEVER SAY GOODBYE ①ジョルジュ×真風涼帆

NEVER SAY GOODBYE ーある愛の軌跡ー

2022.4
東京宝塚劇場 宙組
ジョルジュ 真風涼帆
ヴィセント 芹香斗亜
アギラール 桜木みなと
キャサリン 潤花  ほか

 宝塚の作品を劇場で見たのは何年ぶりだろう。どちらかというと、東宝系のグランドミュージカルが好きなので、宝塚を積極的に見る機会は普段あまりないのだが、少し前に配信で見た宝塚作品がとても印象に残り、また、知人に猛烈にNEVER SAY GOODBYE(以下、ネバセイ)を勧められたこともあり、初めて自分でチケットを買って劇場で見ることにした。

 そもそもネバセイを見ようかなと思ったのは、この動画がきっかけでもある。→特別映像「One Heart PROJECT」 - YouTube

新型コロナという得体のしれない感染症が世界中に蔓延し、劇場が閉鎖を余儀なくされた2020年、当時の宝塚各組の男役トップスターが揃って歌を届けている特別企画だ。しかも、15年ほど前に宙組を退団した元男役トップで、今はアメリカに住む和央ようかさんとオンラインで結んで一緒に歌うというもの。その歌こそがネバセイ最大のビッグナンバーである“One Heart”だった。しかも、ピアノ伴奏はOne Heartを含むネバセイの音楽を担当し、今は和央ようかさんの夫でもあるフランク・ワイルドホーン氏が自ら弾いている。コロナ初期のあの頃、劇場を含む様々な日常が突然遮断されるという未曽有の事態に直面し、宝塚のジェンヌの皆さんもファンの皆さんも思いを届ける方法を必死に探したのだろう。思いを伝え合いたいという原始的な欲求を我々人間はこんなにも強く持っているんだという事実と、One Heart(一つの心)という歌詞のメッセージ性と、歌の持つ強い力を改めて感じ、宝塚ファンでなくとも涙が止まらない動画となっている。和央ようかさんは昔何度か見たことがあったので懐かしくもあり、そしてワイルドホーンと言えば、言わずと知れた大作曲家で、マタ・ハリ、笑う男、ひかりふる路など、最近私が見てドはまりした演目の音楽を世に送り出している巨匠である。作品のストーリーを知らなくてもワイルドホーンの楽曲なら見てみようかなと思うぐらいには、私の中では重要な位置を占めていた。私にとってはかすかにつながる程度の宝塚との縁ではあったが、知人の布教も強くなる中(笑)、宝塚セカンドデビューを果たすならネバセイは悪くないかなと思うようになっていた。
 そんな色々な布石を経て、チケット争奪戦も無事にかいくぐり、宝塚ワールドに足を踏み入れたのだった。以下、ネバセイの感想となるが、毎度のことながら多分にネタバレを含むので未見の方はどうぞご注意を。

 

ジョルジュ×真風涼帆

宙組トップ真風涼帆さん

 宝塚に詳しくなくても真風さんの名前は知っている、というほどのスーパースターである。私もナマ真風さんを見れるのを楽しみにしていた。宝塚の男役トップスターと聞いて思い浮かべるものは、容姿に歌に演技にダンスにと何拍子も揃った才能と醸し出す圧倒的オーラ…といったものだろう。真風さんにももちろん全てあった。だが、それ以上に私が破壊力を感じたのは身にまとう色気と哀愁だった。
 特にポケットに両手を突っ込んで目を伏し目がちにした時の色気と、その状態から天を仰いだ時の色気がすごい。後半のウインクや投げキッスよりも、私はあの伏し目がちな視線の色気を強烈に感じた。目元に加えて口元からこぼれる色気も半端ない。熱い思いがこみ上げる時に息苦しくなるような時があると思うのだが、少し半開き気味の唇がそんな切なげな表情を作り出していた。もっと伝えたい言葉やこみ上げる衝動がありそうなところをぐっとこらえているんだけど、こらえきれずに決壊しそうな感じというか…。
 特に、エレンを振る時の表情がとんでもなく良かった。なんであんなに哀愁漂わせて振るんだろうか。この後にキャサリンを追いかけるところが一番好きなシーンではあるけども、表情で言うとエレンを振る時の「僕は出会ってしまった」辺りの表情が一番どストライクだった。私がエレンなら、顔が良すぎて言葉が耳に入ってこなくて振られてることに気づかないかもしれない(いらん心配)。
 その次は、2幕でキャサリンアギラールの下でラジオの仕事を続けると言った時に、本当は止めたいけど止めるのはプライドが許さないという葛藤にもがく場面があるが、その後の「彼女のどこに恋したのだろう」が絶品だったな。歌い始める前に一瞬宙を見て軽く頭を振り払ったような気がした。アギラールへの嫉妬心はないと思うし(ジョルジュにしてみれば恋愛の敵じゃなさそう)、自分が写真を出せないのにキャサリンがラジオで自分の役目を全うできることに対する嫉妬、というのも少し違うと思った。でもアギラールが「彼は嫉妬しているんだ」と言ったことによって、キャサリンにそう思われるのは嫌だという抑制は働いていると思うので、あのアギラールの心理作戦は巧妙だったと言える。ジョルジュの一番の気持ちは、アギラールの息がかかった仕事をすることに対する不安というか、モヤモヤした思いだと思うし、でも一方で、キャサリンが希望の仕事をするためにはアギラールに預けるしかないというジレンマに陥っていたのだろう。迷いを完全には断ち切れずに歌うあの表情が実によかった。その後アジトで皆とラジオ放送を聞くときも、ジョルジュは一人複雑な表情をしていた気がする。横を向いたり後ろ向いたりしていたような。あれはキャサリンアギラールの仕事をすることにまだ素直に向き合えない心情を表しているのだろうか。柱にもたれる背中からにじみ出る哀愁が切なかった。
 というわけで、私はヒーローのようにキャサリンをかっさらっていく場面や教会で愛を誓いあう場面とかオリーブの木の前で歌う場面とかよりも、迷いと葛藤の中で色気をだだ漏れにしてくる真風さんが大好物だった。あと、「エ~レ~ン」「パオロ」と名前を呼ぶやつ、あのたしなめる口調を時々急にぶっこんでくるのもダメすぎましたね。角度も間合いも全て計算されているのか、それとも全てがナチュラルに身についているのか分からないが、いや~、女心を死ぬほど知りすぎている男(役)の仕草は本気でやばいなと思いましたですね。



主役ジョルジュ・マルロー

 真風さん演じる写真家ジョルジュ・マルローは、写真を通して人生の真実を捉えたいという使命感に満ちている人物なのだが、この役柄を主役に据えるところが実に渋いと感じた。市民が祖国のために反乱軍と戦うストーリーが主軸と考えれば、普通ならヴィセント辺りが主役でも良さそうなところだが、なぜジョルジュが主役なのだろう。その分、宝塚作品としてはやや重く暗い印象につながっていると思う。私は元々硬派で重厚な話が好きなのでかなりドンピシャだったのだが、これの初演が16年前のしかもトップコンビ退団公演だったというのは少し驚く部分もある。小池先生、渋すぎませんか?
 だが、ヴィセントが主役のストーリー展開を想像した上で改めて本作を思い返すと、ナチスドイツをバックに戦う反乱軍、それに対抗して祖国を守りたい市民達、祖国を守りたい意志は同じだがソビエトをバックにつけて国の統一を図りたいPSUC、ソビエトにも政府にも頼らず自分たちの理想の国を作りたいPOUM…、その後の歴史も踏まえたうえで当時の人々の主張を追いかけると、何が真実で、何が正しいか、本当に正解など分からないという思いが胸を刺す。彼らにはそれぞれに崇高な理想があって、大切なものを守ろうとしているのだが、その結果本当に何かを守れたのか、多くの犠牲の上に得たものは何だったのかと考えると胸が痛い。ともすると、戦いに散る勇士は美化されがちだが、主役が第三者の外国人で、歴史が動く真実の瞬間を追い求める写真家であることによって、観客は犠牲者を美化しすぎずに客観的に当時の人間たちの行動や心の動きを追いかけることができた気がする。もちろん、ジョルジュやヴィセントや市民達に感情移入する場面が多いのだが、そちら側に寄り過ぎていない自分を発見した時に、ジョルジュを主役に据えた意義を垣間見た気がした(全く見当違いかもしれません。個人の感想です。)



ジョルジュのこと

 というクソ真面目な感想を書いた上で、男性としてのジョルジュ評に再度戻りたい。ジョルジュの写真に捧げる情熱やOne Heartで見せる正義感溢れるリーダーシップ、真風さんの破壊力抜群の色気にガッツリ持っていかれてつい騙されそうになるけど、よくよく考えると、女性関係に関してはジョルジュは実は結構クズ要素強めですよね?(嫌いじゃないです。むしろ好き。)「(フィルムは)キスしてくれたら返してあげよう」とか、聞いてもないのに「金と女には不自由しない」とか言っていて、エレンを振る時にも「忘れられはしない。マリブの夕日に黄金に染まる君はヴィーナス」とか言っている。冷静に聞くと、舞い上がるか警戒するか紙一重な言葉ではある。女性に関してもデラシネ(根無し草)だというか、縛られたりせずに自由に生きてきたのかもしれないと思わせる部分もある。
 私がジョルジュシーンで一番好きなのはエレンを振ってキャサリンを選ぶ一連の場面で、振られるならエレンのように振られたいと思ってしまうくらいには最高オブ最高だったが、よく考えるとやっぱり危険な香りがプンプンしてるよね。「世界中の男が君にひれ伏す」とか何とか言った後、「僕は出会ってしまった、運命の人に。めぐりあうために世界さすらった。」オイオイ、それを今カノに言うか?しかもそんなにフェロモン投げ散らかしながら言う台詞ではない!「あの人のどこが私よりいいの!」ええっとジョルジュさん、相当修羅場になってきていますが…。「君を傷つけたなら殴られてもいい。でもこの胸の思い消せはしない。」映画やドラマなら頬を引っぱたいてもいい場面だが、真風さん相手にそんな展開は起きない。ジョルジュも相手が自分を殴るはずがないと分かって言っている台詞なので、これだから色男には適わないし、こんなイイ男に惚れてしまった女の負けであることを最後の最後まで痛感させられるわけで、地団駄踏むほどカッコよかった。あぁ私も真風さんに振られたい(違う)。
 そんでもって、次の瞬間には光の速さでキャサリンの手首を掴んで流れるようにキス。あれは本当に男性にしか見えなくて、キスの最中にもう一段階気持ちが盛り上がってぐっと腕をつかみ直す感じというか、離れがたい感じでもう一度ぐっといったりするのでもう悶絶しましたです。その上、「やっと分かった。君に会うために生まれてきた」「(こんなことを言ったのは)信じないだろうが初めてだ」とか言い出すわけで、自分の需要を分かりすぎている男子で、そりゃあこれまでも不自由する暇なかっただろう。それでも、これまで何人の女がいたとしても、これまで何人の女を泣かせてきたとしても、キャサリンこそは本物の愛に違いなくて、身も心も溶けるほど愛してくれるんだろう。もはやこの時点ではキャサリンもそう信じてるし、観客も全員そう信じている。それだけの有無を言わさぬ力を持っているので本当に恐れ入る。アギラールが横で見ていたら、腕組みしながら白い眼でケッと毒を吐いていただろうよ。そんなわけで、もしかしたらジョルジュはクズかもしれないし、騙されるな危険!っていう信号が脳内でピカピカ点滅したりもするけども、そんな警戒信号はそっと止められ、誰もを信じて惚れさせてしまう真風さんの色気は正義!



人生の真実

 真風さんの色気について語りだすと止まらないので、最後はもう一度真面目バージョンで。
 ジョルジュは人生の真実を見つけることができたのだろうか。デラシネとして世界中をさすらって生きてきたジョルジュだが、運命の女性と出会い、また、スペインの内戦を通して人々が立ち上がっていく瞬間をカメラに捉える中で、自分も人生の真実のときを生きてみたいと思うようになる。「もうデラシネじゃない」という台詞は、自分はどこかに根を張って生きる人間になるという決意であり、アイデンティティの確立でもあった。ジョルジュが根を張って生きると決意した場所はどこなのか。バルセロナかスペインか民主主義か。いやもっと身近にカマラーダだったのかもしれない。
 今世界で起きている紛争や歴史上の民族戦争も、言ってみればアイデンティティの戦いで、自分達のルーツである土地と民族を守りたいという根源的な欲求でもある。日本では理解しづらい部分もあり、これだけグローバル化が進むと、似たような民族なら仲良くやっていけないのかと思う向きもあると思うが、では近くの惑星から来た宇宙人に地球が侵略されるという時に無抵抗で意に従うかというと恐らくはそうはならないだろう。歴史上の戦いは、その時代にそこに生きる人にとってはその地が世界の全てとも言えるので、地球が宇宙人に侵略されるほどの許しがたい侵害だったはずだ。
 デラシネのジョルジュは、しがらみのない自由な人生である一方で、どこにも属さない宙ぶらりんな感覚も持っていたのだろう。デラシネとして生きる人間は、祖国の戦いに命を懸ける感覚を持てないように思う。ジョルジュが戦いに参加すると決意したということは、最後の最後に自分がいるべき場所を見つけたということで、ある意味でジョルジュは生涯諦めていた境地に辿り着いたのかもしれない。生きるべき場所、生きる意味、それが人生の真実ということか。
 そして自分の命であるフィルムはキャサリンに託し、実際の命も孫の代までつなぐことができた。ジョルジュの命は絶えても「僕は生きてる、君の中で」…キャサリンの中でずっと生きていける、あの時そう確信を持てたからこそ戦地に向かっていけたのだと思う。それも、女性に関してもデラシネだったジョルジュが最後に見つけた居場所、根を張って花を咲かせていける場所…つまり、もう一つの人生の真実だったのだろう。

………
勢いに任せて書いてしまいました。何か失礼がありましたらご容赦ください。次回はアギラールについて書いてみたいと思います。
 

笑う男 ③ グウィンプレンと笑う男

「笑う男」観劇レポ第3弾です。ネタバレでしかありませんので、未見の方はご注意下さい。

 

ウィンプレン

 グウィンプレンの運命は非情なもので、実際の場面を想像すると身の毛がよだつ恐怖を覚える。コンプラチコというのがビクトル・ユゴーの創造であると知って心底安堵した。と同時に、そんなファンタジーを作り出せる巨匠の発想力に今さらながらひれ伏した。
 ただ、舞台上のグウィンプレンは、予想よりも明るいキャラクターだった。悲惨な星の下に生まれて人生に絶望しながら生きているかと思いきや、ウルシュスやデアや一座の愛を受けながら、自分の人生を受け入れているようだった。陽の成分が強めだったので、もう少し陰のキャラでもいいのではと思ったが、それだと後半の対決やラストシーンで悲愴感が強くなりすぎる気もするので、あの陽ぐあいが絶妙に良いのかもしれない。
 ちょっとやんちゃな少年っぽさを残しながら、デアを大切に思い、ウルシュスを父と慕い、一座の団員と打ち解けながら成長するグウィンプレン。一方で、外見のコンプレックスから、デアを愛する資格などないと自制している面もあるのだが、そのたびにデアが内面の美しさを認めて愛を向けてくれるので、自己肯定感をきちんと持っているのだなと感じた。
 普通の青年のように、未来に対して希望も持っているが、その気持ちをウルシュスが戒める。厭世家のウルシュスは貴族が支配する腐った世の中を嫌というほど知っていて、グウィンプレンが身の程をわきまえずに外の世界に飛び出すことを許さない。
 二人がぶつかり合うところは、どちらの目線で見るかによって違って見える場面だと思う。グウィンプレンはいかにも世間知らずで危なげな感じがするが、ウルシュスの説教は真理ではあっても若者には響かないだろうなとも思う。グウィンプレンがアイデンティティに目覚めて、自分も幸せになる権利がある、自分は何ができるのか、などといった哲学的なことに向き合い始めるのを見ると、どんなに虐げられても厳しい境遇にあっても人間がアイデンティティに目覚めるという事実にどうしようもなく胸が熱くなった。世界がたとえグウィンプレンの理想とかけ離れていたとしても、挑戦し、壁にぶつかり、自分の思う道へと歩み出す瞬間が必要だと思った。
 進んだ道の先に待っているのがジョシアナの誘惑とは思わなかったが笑笑 しかも、え?ジョシアナに少しなびいている?!デアへの純粋な愛はどうした?と盛大に突っ込みたくはなったが、この化け物のような醜い顔から眼を背けず自分を求めてくれたと歌うグウィンプレンを見ると、彼の抱えているコンプレックスや、素の自分をそのまま認めてもらいたい欲求が切なかった。そうだよね、自分の顔を含めてもなお求められるということは期待すらしていなかったのかもしれない。愛はデアだけと思いながらも、初めて素の自分を求められた高揚を消化しきれず、夜空を見上げて寝転ぶシーン、それまでと違って低く切ない声で歌うこともあって不用意に撃ち抜かれる。

 運命のいたずらか、突然グウィンプレンの人生が大きく転換する。突然の煌びやかな宮廷生活、これまで自分を虐げてきた周囲が自分に跪く世界に驚きながらも、どこか夢見心地で浮かれてる様子。僕はグウィンプレンだ!と叫んでいた割に受け入れるんかーい!と思ってしまうが、生まれた時から運命に翻弄されてきた彼は、運命をまずは受け入れる柔軟性を誰よりも高く持っているのだろう。
 さらにその後、アン女王から結婚を命ぜられた時、片膝をついて頭を下げていたので、それも受け入れるつもりか?となったし、ジョシアナからもう要らないわと切り捨てられたところでは、オイオイそれでいいんかい!となった。あまりに素直に運命を受け入れすぎだろうと。まぁ運命が畳み掛けてやってきすぎなんだけども笑
 そんなグウィンプレンだったが、宮廷で実の両親の絵と対面し、そこから過去を回想する。泣かないで、僕は幸せだったよという言葉とともに、舞台中央にはウルシュスと幼いグウィンプレンが登場する。それを上手で見つめるグウィンプレン。在りし日のウルシュス達の歌声に合わせて口ずさんでみたり、ぎゅっと唇を噛んでみたり。その後には美しく成長したデアを回想して、時と距離を超えたハーモニーを聴かせてくれる。ここでグウィンプレンは誓う。貴族として生きることで、デアやウルシュスが幸せに生きる世界を作り出して見せると。1幕の幸せになる権利の熱さと比べると、極めて静かな場面だが、運命に身を委ねてきたグウィンプレンが、はっきりと自分の意志を見せる重要な転換シーンだと思う。

笑う男

 2幕はカッコいい浦井健治さんを崇める会みたいになっていて、ここまででもうっとりする歌声やらプリンス姿やらジョシアナに濃密に迫られるいたいけな浦井さん(どっからどう見ても40歳には見えない)を繰り出してる訳だが、ここからバッチバチの殺陣を披露するわ、一番のクライマックスである貴族院での熱唱はあるわ、ラストシーン来るわで、観客も息つく暇がない。ファンの方は心臓が持たないのではと思ってしまった。私は浦井さんを見るのは初めてだったが、カッコいい浦井さん全部乗せを見れた気になったし、初浦井さんがこの作品になったのは幸運だったんじゃないかと思えた。

 少し話がそれてしまったが、圧巻の貴族院シーン。貧民から搾取するだけで、何も生み出さない貴族達。大げさな演技で滑稽な場面に仕上がっているが、くそ真面目な顔で馬鹿馬鹿しい議論をしていることの風刺だと思うと、現代に通じるものを感じて笑えない。そこに世紀の大演説をぶつグウィンプレン。観客は、生い立ちから知っているグウィンプレンの魂の叫びに保護者目線で応援してしまう。あの「目を開いて」は今まで(リアルで)聞いたどの選挙演説より心揺さぶられた。私が見た回は2回とも拍手が鳴り止まないショーストップ状態で、スタンディングオベーションが起きてもおかしくないくらいの熱量だった。ところが、グウィンプレンの全身全霊の訴えは聞き入れられず、貴族達の一笑に付されてしまう。そこで打ちのめされてからの「笑う男」も圧巻だった。グウィンプレンの巨大な影が後方のスクリーンに映し出され、目が据わった狂気の混じる表情で歌い上げる様子には鬼気迫るものがあった。
 「目を開いて」と「笑う男」が劇中一番のクライマックスだと思っているが、本当に秀逸だと思うのは、むしろ観劇後にこのシーンを反芻すればするほど、グウィンプレンの訴えが観客自身にも突き刺さってくることだ。見ている時は当然グウィンプレンに感情移入して、自分達も99%側の人間として応援している。しかし、だんだん自分達も1%側としてやるべきことがあるんじゃないかと責められているようにも思えてくる。今この瞬間にも日本中世界中で溢れている格差や不条理から目を背けているのではないか、と言われるとグウィンプレンを直視できない。

 心が痛まないのですか
 地獄への扉開けないで

 屍の上にあなたは立っている

 笑いたけりゃ笑うがいい 俺を
 その前に鏡を覗き込めよ
 何よりも醜いものが見つかるぞ

ウィンプレンの訴えが、貴族や当時の社会だけでなく、今の社会や観客自身に向けられたもののように感じられた。

ラストシーン

 これは持てる者と持たざる者の話。持っているのはどちらなのか。そもそも持てる者が持っているものは何だと言うのか。本当に持ちたいものは何なのか。

 結末は好みが分かれるところだと思うが、もし違う結末になっていれば、この命題に何らかの答が提示されただろう。例えば、全てを持っている貴族よりも何も持たない醜い貧民でも清く美しく幸せだといったように。それはそれで悪くないが、ある意味では童話的寓話的な話で終わってしまうかもしれない。一方が善で一方が悪、一方が幸福で一方が不幸と結論を出すのでなく、あの結末を迎えるからこそ答が見えない。
 観客は気持ちの持っていき方に悩み、何度も何度も登場人物の感情を反芻することになる。グウィンプレンの心情は各人の想像に任される部分もあるが、ただ、その目に強い覚悟の色が浮かんでいたことだけは心に刻み込まれている。
 そして私の目には、そこにはいないビクトル・ユゴーの姿がありありと指揮者のように浮かんできた。ユゴーはこの物語を通して、当時の世界の何を見せようとしたのか。貧民と貴族が生まれながらに持つ不条理な格差、美しさと醜さ、幸せと不幸、真実の愛と偽りの愛、意志と傀儡…あらゆるものを対比させて見せながらも、醜く不幸で不自由な偽りの特権の上に立つ貴族が力を持ち続ける不条理を最後まで描いている。では、貧民は貴族の前に屈するしかないのか。貴族の幸せは貧民の地獄の上に成り立っている…それが現実なのか。そうかもしれないが、一方で、ささやかでも美しい愛と幸せを手に、自らの意志で人生を選ぶことは、実は貴族には許されないことでもある。ジョシアナやデヴィットがどんなに無理やり刺激を作り出したところで、惰性で過ぎる人生から抜け出すことはできない。愛も幸せも自由も意志もない人生…貴族が貴族であり続けるために自らに課した地獄とも言える。地獄の上に成り立つ地獄。ユゴーは、この話をおとぎ話では終わらせず、この救いのない世界を映し出したかったのだと思った。救いのない闇だけれども、その中で儚く光る美しさ、救いを信じ続ける強さも描いているのだと感じた。
 現代の世界はどうだろうか。身分の格差はほぼなくなり、愛も幸せも意志も自由もそれなりに持てる時代にはなった。だが、根本的な社会の構造はユゴーの時代に通じるものがあり、違う形の閉塞感も漂っている。時代は変わっても、持てる者にも持たざる者にも地獄はある。その中で目指すべき光とは何か、憎むべき闇は何か。そんなことを考えさせられた笑う男だった。