えとりんご

観劇の記録。ネタバレご注意を。この橋の向こうにジャコブ通り。

笑う男 ② フェドロとウルシュス

 

ミュージカル「笑う男」の観劇レポ第2弾です。ネタバレご注意ください。

 

フェドロとウルシュス

フェドロ
 最も正体が掴めないのがフェドロ。登場するなり怪しい雰囲気を醸し出していて、腹に一物ありそうなのは一目瞭然なのだが、敵なのか味方なのか、その行動の目的は何なのか。デヴィット卿やジョシアナやアン女王のことも心では蔑んでいそうで、実に謎多き人物だ。そして、こういった役を演らせたら随一の石川禅さん!安定の場面回し、意味ありげな目線、唇の端の動きで見せる感情…禅さんだけを追いかけて見る日を設けたいという感想を見かけたが、なるほどと頷きたいくらい気になる存在だった。ワイプで常に抜いてほしい笑 
 終盤にジョシアナに裏切者呼ばわりされるが、フェドロの裏切りとは何だったのか。個人的にこれが最大の謎と感じた。帝劇の盆やセリ、グウィンプレンのプリンスぶりに心躍らせている間に見落としてしまっているのか、はたまた禅さんは怪しいけど憎めないキャラと思い込んでるせいか、劇中の展開だけで裏切りを理解するのは難しい気もした。フェドロがジョシアナに仕えていながら彼女のことをひどく憎んでいて、ジョシアナやデヴィット、さらにはクランチャリー家を不幸に陥れようと企んでいたということなのだろうな…というのが、色々な情報を補完した上での私の解釈だ。
 フェドロの裏切りが分かりづらいのは、どこまでが偶然でどこまでが必然かが分かりづらい点も作用していると思う。最初から全て計算ずくなのか、たまたま連鎖しているのか、隙あらば人をことごとく不幸に陥れようとしているだけなのか分からない部分がある。
 瓶の開封官を志願した時点で、コンプラチコの罪や懺悔、さらにはそれにまつわるデヴィット卿の企みを知っていたのだろうか。さすがにそこまで最初から知っていた訳ではないだろうと思うので(いや、知っていてもおかしくはないくらいの曲者感を滲ませてはいるのだが)、何か重大な秘密を掴めればしめたものくらいに思って志願したところに、たまたま特ダネが流れ着いたのだろう。その証拠を元にさらにハーパーの口を割らせ、グウィンプレンをクランチャリー卿に据えることで、デヴィットを蹴落とし、ジョシアナには醜い夫をあてがい、ウルシュス一座には更なる不幸を味わわせ、グウィンプレンを影で操ることで、クランチャリー家を陥れようとしているのか。そう考えると、全てがフェドロの手のひらの上で起きており、足音もなく近づいてくるような薄気味悪さを感じる。貴族の闇と貧民の闇があることがフェドロを呼び込んでいるようにも思える。貴族でも貧民でもないフェドロが暗躍することで、闇に巣食う闇を表現しているように感じた。



ウルシュス

 世間嫌いの偏屈じいさん。という設定なのだと思うが、祐様演じるウルシュスは愛と包容力に溢れる人間味ある父さんだった。それが原作のキャラ設定に合っているかどうかは分からないが、グウィンプレンやデアに対する深い愛情が作品全体を包み込み、ラストに向けての悲しさを増幅させている。
 私は基本的にグウィンプレン目線で観劇したのだが、ウルシュス目線で全編を見るときっと違った物語に見えることだろう。不遇ながらも愛情をかけて育てた子供たちが大きくなり、時には反抗もしながら堂々たる大人へと成長し、最後にはその大切な存在を失ってしまう父親…そうやって見ると、心が張り裂けそうになる。でも私は、父は父でも、ちょっとだけ違う父親像が浮かんでいた。ウルシュスはユゴーであり、もっと言うと、人間たちの営みを見つめる創造主のような存在に思えた。世間を信じ続けてきたが裏切られ、貴族が支配する腐った社会に嫌気が差し、すっかり人間不信に陥っているわけだが、それでも新しい命のエネルギーを前に、もう一度その力を信じ、希望の光を見出し、その営みをオロオロハラハラしながら見守り、そして無情にも命が終わっていくのを見つめる。またしても絶望に打ちひしがれることになるが、やがてまた新しい希望の光を見出し、見守り、また無情に散っていく。そうやって、この地球上の営みをじっと見つめる人外の空気を少し感じた。無情を感じながらも人間を信じることは諦めていないのではないかとも感じる。いつの日かこの無情な繰り返しに終わりが来るのだろうか。現代はユゴーの時代よりは光が見い出せる世の中になっているだろうか。残念ながら種類が変わるだけで闇と無情が絶えることはないが、せめて同時に新しい光が途絶えることもないと思いたい。

 

 次回へ続きます。

笑う男 ① デアとジョシアナ

笑う男 2022.2 帝国劇場

 グウィンプレン 浦井健治
 デア 熊谷彩春(真彩希帆)
 ウルシュス 山口祐一郎
 ジョシアナ公爵 大塚千弘
 デヴィット卿 吉野圭吾
 フェドロ 石川禅


 3年前の初演時にも気になっていた「笑う男」。ビクトル・ユゴー原作、フランク・ワイルドホーン楽曲、浦井健治さんに山口祐一郎さん他豪華キャスト。ワイルドホーンが飛行機の中で一気に書き上げたエピソードを熱く語るインタビューを聞いて、これは是非見てみたいと思っていた。が、日程が合わず見送ったのだが、3年を経て帝国劇場で再演されると聞いて、チケットを確保した。公演初日は、ゲネプロを終えてソワレ開場までしたタイミングでまさかの休演が決定された。公演関係者のコロナ感染判明による休演だった。私の観劇予定日ではなかったが、そこに居合わせているキャストや観客の思いを考えると辛くなった。そこからの再開を経て、無事に初めての観劇を果たした。
 初演の感想を見ると、今ひとつストーリーが刺さらなかったという意見も見かけたが、私は大満足だった。ストーリーの前に度肝を抜かれたのは舞台美術!帝国劇場の豪華な舞台装置をふんだんに使い、盆も回り、セリも何度も登場し、大型の装飾が次々に現れ、これぞ帝劇ミュージカル!という感じの演出だった。帝劇での観劇が3年ぶりだったことや、最近見た作品が比較的シンプルな大道具だったので(それも好きだが)、ド派手な機構にとてもテンションが上がった。
 内容はシリアスなものを予想していたが、意外にもファンタジー要素の強い印象ではあったが、おとぎ話では終わらないエンディングを含めて、余韻の残るストーリーで私はとても楽しめた。あと、キャストの歌の強さが大変に心地よかった。浦井健治さんの歌を聴くのは初めてで、イメージより高い声だな~と思いながらも、次々に何曲も歌っても音がぶれず、声もかすれず、感情をしっかり乗せた歌声に酔いしれた。デアの熊谷彩春さんはお初だったが、とんでもなく美しい透明感のある高音で、見た目のお人形のような可憐さと相まって、存在の全てが天使!妖精!という印象だった。ジョシアナ公爵もデヴィット卿もフェドロもアン女王も一座の皆さんも、出る人出る人歌が上手で素晴らしかった。ウルシュスの山口祐一郎さんはさすがの存在感。原作でもあらゆる不思議な術を使う厭世家という設定のようで、私の中では森の奥に住む医学薬学工学哲学に音楽芸術、さらには魔術も使えるレオナルド・ダ・ヴィンチのような人物を思い浮かべたのだが、その雰囲気は祐様にぴったりで、物語のファンタジー部分にぐいぐい引き込んでくれた。

 ここからはストーリーに関する感想となります。完全にネタバレとなりますのでご注意ください。

デアとジョシアナ

 ジョシアナはアン女王の腹違いの妹である。見世物小屋で見たグウィンプレンにいたく興味を示し、邸宅に呼びつけるなどする。私は事前の予習を殆どせずに観に行ったので、ジョシアナ公爵ご登場の展開は毎回…新鮮に見させていただきました笑 ジョシアナのターンが1度ならミュージカルあるあるのお戯れタイムかと思うところだったが、あれだけ気合いを入れて見せられると、ん?これはメインストーリーなのか?とならざるを得ない。
 与えられた物には常に満足できず、手に入らない物に執着する悲哀、空虚、屈折がとても良く出ていて、がっつり爪跡を残してくれた。ジョシアナ目線で見ると、最初からグウィンプレンの外見の醜さよりも刺激の欲求が上回ったわけで、それほどまでに無味乾燥な人生を送っているかと思うと、実に狂気じみている。
 濃密に何度も迫るジョシアナに対して、純情にも逃げ続けるグウィンプレンだったが、皮肉な運命によって何と2人が結婚相手であることが告げられる。運命を受け入れるつもりか、片膝をついて頭を下げるグウィンプレン。ジョシアナは歓喜してからめ取るのかと思いきや、フンッ!もうあなたに用はないわとばかりに吐き捨てる。
 一見、手に入らないオモチャだけに執着を見せる我が儘な駄々っ子のように見えるが、彼女の屈折はもう少し深いと感じた。生まれながらにして貴族であるジョシアナは全てを持っているように見えるが、その実態は全てを一方的に押し付けられた人生とも言える。ジョシアナは自分で選んだグウィンプレンの本物の何かが欲しいと願っていたのに、与えられたのはまたしても権力を振りかざして連れてこられた、言わば偽物のグウィンプレン。二度と自分が求めていた形のグウィンプレンは手に入らない。同じグウィンプレンでも、ジョシアナにとっては似て非なるものだったのだろう。渇きからの渇望ではなく、「渇き」への渇望…渇くという状態に置かれたことがない人間の究極の欲望とでも言うのだろうか。凡人がたどり着けない満ち足りた世界の中心に広がるブラックホールのような重い闇を見る思いだった。
 もし彼女が、グウィンプレンの外見の醜さを差し置いても内面の美しさに本気でとらわれたというのなら、それはデアも越えられたかどうか分からない一線とも言える。幸か不幸か、デアにはグウィンプレンの内面の美しさしか見ることができないのだから。ジョシアナがヒロインなら美女と野獣のような展開もありえたわけだ。外見にとらわれることなく、内面の美しい男性を心から求め、求められることが彼女が無意識に欲していた理想だとしたら、それが永遠に叶いそうもないあの環境に置かれた彼女もとらわれの人生だったんだなと哀れに思えた。


 デアは純粋無垢を形にしたような女性。風貌も歌声も天使か妖精のようで、全人類が大切にしたくなるような存在だった。デアは目が見えなくても、グウィンプレンにもウルシュスにも団員にも全力で愛され、心の目で美しいものをしっかり捉えて見ている。2幕後半を見ながら、ふとデアの目が見えるようになるのでは…という考えが頭をよぎった。それはデアに自由を1つ与えることになるけども、デアの目にこの世の穢れたものを映させたくないと思ってしまった。目が見えないからこそ、他人に見えない美しいものが見えて、他人が見えてしまう穢れたものが見えない。見えない方が幸せなのか。純粋無垢な子供のまま何も知らずに人生を送るのが幸せなのか。見えなくても幸せ…を通り越して、見えない方が幸せなのかと思えてしまう世の中とは何たる絶望か。

 ジョシアナとデアには強い対比を感じる。金も名誉も地位も特権もあらゆるものを持っているジョシアナ。両親もなく貧しく目が見えず体も弱いデア。では、デアにあってジョシアナにないものは何か。まず愛と友情が挙げられるだろう。それでは自由と幸せはどうか。確実にジョシアナにはない。デアはどうか。デアは自由と言えるか、幸せと言えるか。そう言いたい気持ちはある。ジョシアナよりは自由で幸せであってほしい。が、完全に肯定しきれない自分もいる。愛があるから幸せ、というほど単純なものではない気もしている。おとぎ話の構造でありながらおとぎ話でないのがユゴーなんだと、日が経つにつれじわじわと感じている。

 

 次回に続きます。

ストーリー・オブ・マイ・ライフ③ 私の物語

 ※本編とは関係ありません。私の随想録です。

 ストーリー・オブ・マイ・ライフの再演にあたり、大人なら誰しも共感できる思い出があるのでは…という紹介を何度も見たけど、他の人はどういうところに共感しているのだろう。私の共感は人と違うかもしれない、同じかもしれない。思い浮かべたのは、知人…というには近すぎる存在のA。
 自分で言うのも何だが、私はごくごく標準的な常識を身につけて育ち、道を外れることもなく、時代の求めに応じて、ある意味全方位優等生を目指すことを受け入れてきた。Aはアルヴィンほどではないが、年頃の若者としてはちょっと変わったところがあった。世間の流行や人からどう見えるかなどには殆ど興味なく、高くても安くても自分が好きなものを着て好きなものを見て好きなものを食べる。感受性が豊かで、楽しい時は大声で笑い、悲しい時はおんおん泣いた。興味のないことは全くやろうとせず、好きなことにとことん没頭する。いわばジェネラリストではなくプロフェッショナル気質だった。
 難しいのは、周りのことに無頓着に見えて、実はとても繊細でもあったこと。誰もが「出る杭」にならないことを目指す空気感の中、そんな性格なのですぐに飛び出てしまうのだけども、打たれると傷ついてしまい、ならば出ないように自分の気持ちと折り合いをつければいいものを、自分の考えが間違っているとは思っていないので、そのまま貫き通してはぶつかってしまう。純粋すぎる心を、無防備なまま常にむき出しにしているようだった。結果、体に不調が出始めた。今から思えば、心のSOSが体の不調となって出てきたのだろう。でもその時代の田舎町ではまだ今のようなメンタルケアが浸透していなかった。しかも、一見悩みなどないような天真爛漫なタイプにも見えたので、周囲も体のことは気遣っても、心を気遣うことはなかなか出来なかった。
 Aは体の療養という形で外との接触を遮断したが、私はAの唯一の理解者だと思って接していた。大好きだったし、辛い思いをして欲しくなかったし、笑っていてほしかった。Aの悩みを聞いてみると、普通の人なら多少理不尽に思っても聞き流すであろうところで、一つ一つ引っ掛かり、立ち止まり、傷ついているようだった。Aの反論は本質を突いていて、正論でもあったが、でもね…と言いたくなるものが多かった。私はなるべく話を聞くことに徹し、時には代弁し、時には裁いた。メンタルケアの何も知らなかったが、理解者だと信じていてほしかった。
 昔見たアニメの映画が妙に頭にこびりついている。女の子が突然友達に「小学校で分数の割算を習った時、すぐに分かった?」と聞く。「3で割るのは分かる。3人で分けたら1人いくつずつになるでしょう、ってことだから。でも2/3を1/4で割るって何?分母と分子をひっくり返してかければいい、って言われて、ああそうなんだって思えた?」と聞くと、友達は「でも、そういう解き方だから」という。「そうだよね。でも私はそう思えなかった。だけど周りはみんなそのままその解き方でやってた。分数の割算がすんなり分かる人は、その後の人生もすんなり進んでいける人なんだと思う。でもダメ。私は立ち止まっちゃった。」(全てニュアンスです。)
 分数の割算に何の疑問も持たなかった私は、このシーンがとても印象に残っている。Aが分数の割算で躓いたかどうかは知らないが、日々出くわす小さな疑問に、簡単に折り合いをつけることができるタイプとそうでないタイプがいる。Aは立ち止まってしまっていた。

 そうして、Aは長く暗いトンネルの中で光を探し続けた。私も探し続けた。けれども私は地元を離れることとなり、Aとも離れることとなった。今のような便利な道具がない時代、なかなか頻繁に連絡が取れなくなったので、途中経過はあまり分からないが、その後1.2年の間に体も心も回復したようだった。Aも地元を出て、家族に反対されながらも、自分のやりたいことを貫き通した。どのように回復したのかは私は知らない。結局環境を変えることでしか逃れられなかったのかもしれない。Aが間違っていたとか周りが間違っていたというのではなく、その環境がAには窮屈すぎたということなのかもしれない。
 それから長〜い年月が流れて今に至り、Aは当時の閉塞感を微塵も感じさせない明るさを取り戻しているし、貫き通した好きなことを仕事にして大きな成功を収めている。結果的に成功したから評価するというのではなく、Aを理解してくれる人に出会い、その才能を発揮できる環境にめぐり逢えて本当に良かったと思う。そして、幼い頃から全方位優等生タイプを目指すよう躾けられ、疑いもなく、立ち止まることもなく受け入れてきた私は、それなりにその路線で成功してきたと思ってはいるものの、Aの人生を心底羨ましく思っている。

 今あの時期を振り返った時、私はAの理解者でありたい、守りたい、救いたい、光を見つけたいと思っていたと思う。これは紛れもない真実。そしてきっとAも、他の人に比べると私には少しだけ心を開いてくれていた。
 でも当時の私に足りなかったもの。それは本当の意味でのAへのリスペクト。守りたい、救いたい、という気持ち自体が傲慢だったと今なら思う。ましてや、代弁したり裁いたりする必要など全くなかった。
 周りと違っていても、人とぶつかることがあっても、AはAのままでいいんだよ、変わらなくてもいい、ゆっくり進めばいい、好きなものを大事にすればいい、お姉ちゃんみたいになろうなんて全く思わなくていい、Aには Aの良さがある、みんな大好きだよ、ただ繰り返しそう伝えれば良かった。

 心から心配していたが、それはいわゆる世間一般的な通常ルートを歩んでいる立場から、立ち止まっている者へ手を差し伸べ、引っ張り上げようとしていた訳で、それはこちら側の世界があるべき世界と考えているがゆえの傲慢だった。世間体や常識を疑いもなく受け入れて、その代わりに何かを捨てて大人になった私たち。Aは、誰もが捨ててしまうその何かこそが、本質的に大切なものだと思って立ち止まっていた。Aの側から見ると、簡単に捨て去って折り合いをつける世間一般の方が悲しい人間に思えたに違いない。でも周りにその価値観を理解してくれる人がいなかった。私でさえも。

 結果、私が何か出来たわけではなく、Aは自力で暗いトンネルから抜け出してきた。その後、今に至るまで、あの頃のお互いの思いを話すこともしていない。ただ、あの頃のAが全身で発したメッセージや、その頃の私が必死に光を見つけようとしたことは、その後の私の人生や価値観、子育ての中で大きな大きな道標となっている。Aの価値観の一部がいつしか私の価値観の一部にもなり、私という人格が形成されてきたことに今さらながら気づく。Aは私にとってのアルヴィンであり、バタフライでもある。

 

***

 ストーリー・オブ・マイライフの真のメッセージとは少し違うかもしれないけれど、アルヴィンの純粋さと苦悩と誰よりも正しく本質を見抜く力、トーマスの優しさと傲慢さと苦悩が、心の奥底にしまっていた古い記憶をたぐり寄せてくれました。心の深い部分までゆっくりと沁みる温かいストーリーを有難うございました。

ストーリー・オブ・マイ・ライフ② アルヴィンとトーマスの物語

ストーリー・オブ・マイ・ライフの感想その2です。ネタバレご注意ください。

そこにない物語

 「そこにない物語を探さないで」。この作品が示す最も重要なメッセージのようにも思えるアルヴィンの台詞。一見冷たい拒絶のようにも聞こえる言葉ではあるが、忘れてはいけないのは、これはトーマスが自力で辿り着いた答えだということ。トーマスの胸にちくっとした痛みは残るかもしれないが、本質的に大事なのは生きていたアルヴィンで、なぜ死んだのかを追及する必要はない。アルヴィンならきっとそう言うに違いない。ましてや、自分がその死の原因に関わりがあったのではないかとか、防ぐことができたのではないかなどといった自責の念にさいなまれる必要はないのだと。
 トーマスがアルヴィンの死を受容し、アルヴィンの心と一体化できるところまで向き合うことができたなら、もはや「そこにない物語」を探すことはしないと思う。二人の間にあった物語で十分に満たされ、生涯アルヴィンを誇らしい親友として思い続け、自分の心の中に生き続けるアルヴィンを大切にし続けることだろう。
 もう一つ、この作品から示唆を得るならば、日常的によくやりがちな、本人が語ってもいないことを憶測で作り上げるような行為への痛烈な批判でもあると感じた。やや幼くも見える無邪気なアルヴィンが、誰よりも本質を突いた発言をすることで、トーマスも観客も劇場の空気もしんと張り詰めるこの場面がとても好きだった。

バタフライ

 トーマスが歌うバタフライはストーリー・オブ・マイ・ライフの中でも名曲だと思う。前途洋々、自由な空へと飛び立っていこうとするトーマスに対して、途中からみるみる表情を曇らせてしまうアルヴィンに、私は釘付けになってしまった。なぜ?アルヴィン、どうして…?
 小さな羽ばたきが大きなものを動かし、滝を越えて海に辿り着く…トーマスが言葉にしたのは、トーマス自身のことではなくアルヴィンのことだと私は思えたから、逆に感動して聴いていたぐらいだった。アルヴィンの感性が、トーマスに大きな影響を与えていて、さらに世間にうねりのように伝わっていく。アルヴィンの感性に対するトーマスのリスペクト、もっというと羨望の表れでもあると思った。トーマスにとって、アルヴィンこそが、滝を越えずに留まっていても、自分を動かし、世界を動かすバタフライなのだと。
 けれども、この時点ではトーマス自身もアルヴィンもそうは受け止めていなかった。アルヴィンの表情はどんどん翳ってゆく。自分の目前に広がる明るい未来だけを見ているトーマスと、トーマスを失うことと変わりようもない自分の世界に失望するアルヴィン。そうじゃない、それだけじゃない、二人の間にある素敵な関係に気づいてほしいと思ったが、そこから二人のすれ違いはどんどん大きくなってしまった。
 今なら、トーマスはアルヴィンの目を見ながら万感の思いを込めてバタフライを歌い、アルヴィンはそれをにこにこと天使の微笑みを浮かべながら聞いてくれるのではないか。

「素晴らしき哉、人生」

(※映画のネタバレ注意です)
 公式サイトにも再三、映画「素晴らしき哉、人生」を予習すべきと書かれていたので、事前に鑑賞した。モノクロの古い映画だったが、普通にとても心温まる良い話だった。ストーリー・オブ・マイ・ライフを見終えて、両者の通じるところを端的に言うと、「人は人との関わりなくして生きられない」ということだと思う。
 「素晴らしき哉、人生」では、終盤に主人公が自分の存在しない世界を見ることになる。自分は何の役も立っていないと思っていたが、自分の存在しない世界では、あるはずの町がなく、いるはずの人物がおらず、幸せなはずの世界は幸せでなくなっていた。自分がいなくなることで、様々なものが変わり果てていて、ちっぽけだと思っていた自分の存在が、他人の人生にも影響を与える力を持っていたことを気づかされる。ストーリー・オブ・マイ・ライフではどうだろう。一人の力で生きてきたと思った自分の人生が、実は他人との関わりで大きく影響を受けていたことを思い知る。トーマスの人格形成において、アルヴィンがいかに大きな影響を与えてきたことか。
 これは何もトーマスとアルヴィンに限った話ではない。トーマスが作家なので、著書の中にアルヴィンの発想を元にした逸話が描かれているため、顕著にその影響が見て取れるだけだ。通常はそこまで明らかではないものの、自分を形成している人格や価値観は、自分だけが作り上げてきたものではなく、他人の考えに影響を受けているものであり、他人の考えを一度自分の中に吸収し、咀嚼し、その他の考えとも統合しながら、自分の考えとして確立させている。あたかも自分が一から作り上げたかのように存在しているが、元を辿れば誰かの考えであったり、誰かと一緒に経験したことであったり、誰かとの関わりを通して学んだことだったりする。その誰かというのは、常に一緒にいる親しい人の場合もあれば、一瞬で過ぎ去る人物の場合もあれば、テレビや映画、本などの創作世界の登場人物の場合もある。そういった何千何万もの出会いを通して、大小の化学反応を起こしながら、今の自分が形成されていることに奇跡を感じるし、自分も同様に他人に影響を与えているかもしれないことに感動もする。人との出会いを大切にしたい。自分のことも大切にしたい。改めて、周りのものを愛おしく思える作品だった。

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 次回は「ストーリー・オブ・マイ・ライフ~私の物語」です。本作品とは関係ありませんが、ご興味ある方はどうぞ。

ストーリー・オブ・マイ・ライフ① アルヴィンとトーマスの物語

2021年12月 大手町よみうりホール
アルヴィン 田代万里生
トーマス  平方元基

 2021年は、「マタ・ハリ」「ジャック・ザ・リッパー」と、田代万里生さんの出演作品を立て続けに観劇しました。私は万里生さんの作品を見るのは初めてだったのですが、「マタ・ハリ」のラドゥーも「ジャック・ザ・リッパー」のモンローも、どうやらご本人のいつもの役柄とは違うらしいと漏れ聞こえてきました。そこで、冬に上演される「ストーリー・オブ・マイ・ライフ」で違う万里生さんを見てみたいと思い、かつ、この作品の初演の評判の高さを聞き、争奪戦の末にチケットを入手しました(発売と同時に即完売!)。同じキャストで2回観劇しました。

 初回見終わった時の率直な感想は、「この作品が初日完売になるって…どういうこと?」という驚きでした。決してネガティブな意味ではありません。むしろ真逆です。とても心に沁みる作品だったのですが、ストーリーが想像とかなり違っていたので、そんなにも多くの人がアルヴィン又はトーマスに感情移入して涙を流すような何かを内に抱えているというのか…という衝撃を受けたのです。私は、自分の中のアルヴィンとして思い浮かべる知人がいました。でもそれは、他人に話したこともないような、長い間自分だけの中にひっそりと抱きしめてきた過去であり、ある種特別な経験とも思っていました。もちろん全ての人が役に何かを投影して見るのではなく、客観的に物語を見ることも多いと思いますが、もし、観客がトーマスもしくはアルヴィンの目線で物語を追いかけ、自分の中にある何かと向き合い、郷愁とともに過去を思い出し、取り戻せない何かを受け入れ、今できることと向き合って再び前を向くプロセスをなぞりながら、この作品を愛しているのだとしたら…、現代人はまだまだ捨てたもんじゃない、とさえ思いました。語られる事実が少ない部分もあり、その余白は想像力で埋められていき、見ている最中にはおぼろげだったものが、時間を置いてゆっくりと形づくられていく…そんな作品でした。
 もしかすると、私の感じ方は人とは違うかもしれません。でもそれは、観る側の年齢や過去の体験等によって様々なストーリーが生まれるものだと思います。その中のひとつとして、私が受け止めたストーリーを書いておきたいと思います。※ネタバレ注意です。

受容の物語

 見ている時は忘れがちで、見た後に思い出してはぐっさりと胸に迫るのは、この物語がトーマスの記憶の物語であること。郷愁と後悔と懺悔、そして受容と回復の物語。トーマスがどれだけ強く念じても、もうアルヴィンに直接伝えることはできない。その事実が胸を刺す。
 弔うという行為…お葬式や埋葬、四十九日、一周忌など、故人を弔う儀式は色々あるが、これは故人のための儀式ではなく、全て残された者のために必要な儀式であるといつも思う。近しい人であればあるほど、死を受け入れるのは難しく、悲しみ、絶望、喪失感、時には怒り、自責など、あらゆる負の感情に襲われる。しかし、永遠に死を認めずに過ごすことはできないわけで、いつかどこかの時点で死を受容し、生前の故人を敬い、その魂の安寧を祈る境地へと移行していかねばならない。一連の儀式の中で、故人に語りかけ、問いかけ、感謝し、謝罪し、祈りを捧げ、約束を交わしながら、一つずつ心に区切りをつけていくことが、残された者にとって非常に大切なプロセスなのだと感じる。
 そして、この故人に向き合う行為は、取りも直さず自分の内面と向き合うことでもある。非常に大きなパラダイムシフトだと思うのだが、人が亡くなると、故人と直接話すことができなくなる代わりに、その人に隠しだてをすることもできなくなる。話しかけても答えはないが、話さずとも聞かれているし、姿が見えなくとも見られている。したがって、自分の気持ちを正直に全てさらけ出すこととなる。本人から直接の答えがない中で、故人ならこう言ったのではないか、こうしたら喜んでくれるのではないかと必死に想像しながら、故人の心に寄り添おうとする行為は、実は、絶対に嘘のつけない相手、つまり自分自身の内面奥深くと向き合い、自力で答えを導き出す行為なのである。
 私たちが見ているのは、トーマスが必死にアルヴィンと向き合おうとすることによって、トーマス自身の心と向き合おうとする受容の過程だったのだ。

アルヴィンとトーマスの物語、いやトーマスの物語

 トーマスは、アルヴィンのことを「変わっていた。いや、個性的だった。いや、変わっていた。」と書きとめている。確かに、不思議ちゃんのような雰囲気を持つアルヴィン。この二人が友人だったことが興味深い。大人になって出会ったなら親しくなったかどうか微妙な気もするが、幼い頃は、お互いに足りない何かを埋め合えることを本能的に感じ取っていたのではないかと思わせた。普通に大人になっていくトーマスと、純粋無垢過ぎる感性を持ち続けるアルヴィン。そして、都会へと出ていくトーマスと、古い町に留まり続けるアルヴィン。有名作家として成功するトーマスと、父の跡を継いで小さな本屋を営むアルヴィン。トーマスは自分の胸の奥で、自分のルーツと一体化する場所にいるアルヴィンが、懐かしくもあり、愛おしくもあり、こそばゆくもあり、時に疎んじたくもなっただろう。それはまるで、愛情と期待を寄せ続ける田舎の母親への感情に似ている。少しずつ思いがすれ違う場面が増えてしまうが、アルヴィンはトーマスへの友情、時には依存と言えるほどの感情を持ち続けている。トーマスは、アルヴィンと完全に距離を置いても不思議ではないように思うが、何やかんや言いながら心のどこかにアルヴィンの居場所を作り続け、アルヴィンが遠くから寄せる思いに向き合っているのが誠実だと思う。

 ただ、アルヴィンが本当にどう思っていたかは、トーマスにも観客にも分からない。この物語は良い意味でも悪い意味でも、アルヴィンがトーマスのことをこう思っていただろうというトーマス目線での想像でしかない。もしかしたら、アルヴィンはもっと恨んだり妬んだりしていたかもしれないし、逆にそんな気持ちは全くなく、友人として誇らしく愛を持って応援し続けていたかもしれないし、全く違う次元でアルヴィンらしく自己実現を追求していたのかもしれない。
 トーマスはトーマスの枠の中で必死に思い出すことしかできないわけだが、そうやって記憶を辿ると、アルヴィンの自分への依存、強い友情や信頼(もしかしたらそれ以上の何か)に気づいており、それを知りながらも自分が正面から向き合わなかったことでアルヴィンを傷つけたかもしれないことを後悔している。いやしかし…、とトーマスは思う。人並みに成功を目指す中で、都会に出て仕事に追われ、時には恋人に絡む人生の決断を迫られ、自分は自分の人生を生きるのに精一杯で、アルヴィンの無邪気な思いに100%答えられなくても致し方ないじゃないか。自分は大人として男として、社会に恥じないスマートな生き方を身に着け、それなりに地位も名声も得た。それが普通の生き方じゃないか。アルヴィンの父の葬儀の時だって…。ここがトーマスにとって大きなしこり、もっと言えば罪悪感の根源になっているので、心の中で何度も向き合おうとしては目を背け、やり直してはまた挫折してしまう。そうなのだ。なぜなら、このアルヴィン父への弔辞への向き合い方こそが、トーマスとアルヴィンの決定的な違いなのだから。世の中の大多数はトーマスのような人間であり、アルヴィンは色々な意味で少数派に違いない。トーマスは大人になり、というよりも、うまく大人になる処世術を身に着け、富や名声など、外形的な評価を手にした。アルヴィンは鼻からそういった外形的なものを追いかけておらず、本質的に大切なものだけを追いかけていた。トーマスの価値観で見ると、アルヴィン父が残した業績として、富や名声につながるものを挙げることができなかった。だから、偉大なる作家が残した文章を引用することが、町商人への最大の賛辞だと考えていた。けれどもアルヴィンは、一人の人間として父が大事にしたものを評価し、父が愛された理由、父だけが成しえた仕事に光を当てて、その人生を素朴に語った。そこに富や名声はないかもしれない。けれども、父がその場所に生きたことによって、多くの人に喜びを与えたことを自分の言葉で語った。

弔辞

 トーマスは冒頭から弔辞を書けずに悩んでいる。「人が死んだらその人のいいことを話すんだよね!」…幼い頃の自分たちが言う「いいこと」とは。トーマスはまだ呪縛に囚われていて、「いいこと」というのは、世間一般の評価に耐えうるような、客観的に輝かしい業績だと思い込んでいる。だから、何を書けばいいのか分からない。思い出すことと言えば、アルヴィンの突拍子もない奇抜な行動ばかり…。そこにアルヴィンの死に対する自責の念ものしかかり、筆が一向に進まない。
 しかし、アルヴィン父への弔辞のやり取りを何度も何度も反芻することで、自分が物事を一つの側面からしか見ていないことに気づいていく。外形的な業績がなくても、愛すべきアルヴィン父の人生を飾らない言葉で話すアルヴィンの弔辞は、最高につまらなく、それでいて最高に美しかった。表面的な余計なものには目もくれず、物事の本質だけを大切にするアルヴィンらしい表現だったのだ。
 そう考えた時、アルヴィンが幼いころから大人になるまで一貫して持っていたあの感性…、個性的で変わり者と評されがちなあの感性…、誰もが大人になる過程で忘れてしまうあの感性…、それがたまらなく貴重なものであり、しかも誰よりも常に本質を追求したブレない感性だったことに気づく。
 それだけではなく、自分が作家人生を歩み始めたのも、元を辿ればアルヴィンとの逸話であり、作品の多くはアルヴィンの突飛な発想から生まれたものだった。自分のインスピレーションと思っていたものは、アルヴィンのインスピレーションでもあった。ちっぽけな町の本屋のちょっと変わった店主であるアルヴィン、それが自分に大きな影響を与えていた。そう、まるで力強い風を作り出すバタフライのように。
 多忙な毎日を生きていた頃のトーマスは、それに気づかず過ごしていたかもしれない。気づいたとしても認めたくない事実だったかもしれない。だがしかし、アルヴィンの死と向き合い、自分の内面と向き合った今のトーマスがそれに気づいた時、トーマスは幸せを感じたに違いないと思う。アルヴィンは死んでしまった。トーマスの中に少し痛みを残して。しかし、アルヴィンのインスピレーションはトーマスのインスピレーションにもなる。知らず知らずのうちにアルヴィンから教えてもらった様々な新しい発見、それは既に自分の思考に息づいているし、今新たにアルヴィンとの思い出に素直に向き合うことで、アルヴィンの目に見えていた世界がまざまざと見えてくるはず。アルヴィンが生きていた頃よりずっと鮮やかに、アルヴィンが大事にしていたもの、求めていたもの、見たいもの、聞きたいものが理解できる。なぜなら、アルヴィンの心がトーマスの心の中で生きているから。大人の分別が邪魔して見えていなかったもの、聞こえていなかったもの、それが急に鮮やかな色や音とともにトーマスに降ってきたことだろう。
 トーマスは、在りし日のアルヴィンのワクワク感に当時以上に共感しながら、ためらいなく楽しかった思い出を弔辞にすることができるだろう。非凡な発想力を持った友人を心から誇らしく思いながら話すことができるだろう。書き途中のまま終わっている「雪の中の天使(仮)」も書きあげることができるだろう。さらにこの後も、アルヴィンとの他の逸話を思い出しながら、わだかまりなく素敵な物語をいくつも書くことができることだろう。


長くなってきましたので、次回へ続きます。

マタ・ハリ⑥ ラドゥー3 ~あの眼差しにとらわれて

 ラドゥー編だけとんでもなく長編になっていますが、今回は闇の世界へ沈んでいくラドゥーへの想いをぶちまけたいと思います。ネタバレでしかありません。

闇の世界へ
 ラドゥーの色気に全身全霊持っていかれた後に、ラストシーンが待っています。マタへの熱くて歪んだ愛に狂いながらも、自分のなすべき任務に立ち戻り、その手でマタを裁く決意をするラドゥー。法廷では聴衆を煽りながら、嘘と真実を織り交ぜてマタを追い詰めます。そこに想定外に飛び込んでくる恋敵アルマン。ラドゥーからすると、アルマンは愛に狂ったただの男にしか見えていなくて、ラドゥーが重きを置いている任務やこの国の未来という大義名分からすると極めて邪魔者だったことでしょう。ただ、信頼してきた部下でもあったアルマンを殺すほど憎んでいたわけでもなく、愛に狂うな、目を覚ませ、自分だって任務のために断ち切ったんだぐらいに思っていたのではないかな。その意味では銃の暴発は不幸な事件と言えるでしょう。
 マタの運命は、ラドゥーが首相の提案を呑んだ時点で決まってしまっていて、そこに時計の針を動かす役目をラドゥー自ら担うことになってしまったわけです。ラドゥーは心を殺して、国家の正義を優先するための冷酷な決断を下しているわけですが、もう一つ、マタの命を自分が預かっていることで、マタを自分の支配下におく倒錯した愛もあったのではないかと私は思っています。誰かに取られるくらいなら強く抱いて君を壊したい…これは「最後の雨」(中西保志)ですが、みすみす誰かに取られるくらいなら、またはビッシングドイツの手で処刑されるくらいなら、自分の手で葬り去ることによって、精神を保つ光を見出そうとしていたのではないでしょうか。しかし、覚悟していたマタの制裁の前に、不幸にもアルマンを自分の手で亡き者にしてしまう。これがラドゥーには重苦しい事実としてのしかかり、戦争で狂いきった自分の理性がすっとリセットされたのでしょう。愛してると言って抱き合う二人を苦渋の表情で見つめるラドゥー。どう考えてもマタの愛は自分には向いていなかった。その厳然たる事実を目の前に突きつけられる。敵は戦争の相手国であったはずなのに、愛すべきマタを切り捨て、信頼していたはずの部下アルマンの命まで奪い、二人の愛も奪い、そうまでして守ろうとした自分の任務とは、自分の正義とは、国家の未来とは…、自分が信じてきたものが根底からぐらぐらと崩れ堕ちてしまうラドゥー。
 そして、自分がいかにマタを求めていたかも改めて知ってしまうんですよね。おうちラドゥーの場面では、愛などなくていいと言っていましたが、めちゃめちゃ愛を欲しがっていますよね。でもラドゥーのマタへの思いは、愛と呼べるのか。ただ単に、手に入らないおもちゃを欲しがる子供のような独りよがりの我が儘ではなかったか。歪んだ愛、支配欲に満ちた愛…、そんな愛情をいくら注いでも返してもらえることはないでしょう。不器用なラドゥーはその愛し方しか知らなかったんでしょうね。

 欲しがる 愛を知らぬまま
 もぎ取りたくて 届かずに

 女性には困っていなさそうな雰囲気も持っているんですが、こと本物の愛となると、恐らく誰からも愛されたことはなかったんでしょうね。だからどうやって愛すればいいかも分からない。綺麗な花があれば摘んで枯らしてしまう、美しい蝶がいれば手元に置きたくて標本にしてしまう、シャボン玉があれば掴もうとして弾けさせてしまう…そんな痛々しい一方通行の愛が垣間見えるんですよね。ラドゥーにとっては本物の愛だったかもしれないけれど、その愛し方では求めれば求めるほど、思いが深ければ深いほどに壊してしまいそうな。そうではない、そうではないのよ、ラドゥー。
 マタもアルマンも失い、自分の正義も見失い、命は落とさないにしても自分を責めて廃人のように生きていくであろうラドゥー。泣くことすらも自ら許さず、涙を流さないまま哀しみの淵を彷徨いそうな絶望。あぁ~そんなに自分を責めなくていい。誰か、誰かラドゥーを聖母のように抱きしめてあげてほしい。そのまま眠るまでそばにいてあげてほしい。誰もいないなら、私が抱きしめてあげたい。目を覚ましたら、もう鉄の仮面は取り外して、生まれ変わって心穏やかに生きてほしい。私の中で、とてつもなく狂った庇護欲が掻き立てられたラドゥー大佐でした。死んではいないけど、あの後生き続けるからこそ、その後のラドゥーの人生に光あれと願わずにいられないし、まさに、目を閉じ妄想に耽っては鏡の中にラドゥーを見る狂った日々が今なお続いています。

***

 図らずも3回にわたってお届けしてきたラドゥー大佐編。長文にお付き合いいただき、有難うございました。「正義と愛に挟まれる苦悩」、「どストライクすぎる色気」、そして「闇落ちへの庇護欲」…こうやって振り返ると、私にとっては全方位ツボだらけで、堕ちるべくして堕ちたラドゥー沼だったなと感じます。当初は抜け出そうと必死にもがいていましたが、もう抗うことはせず、今後も身を委ねてまいりたいと思います(宣言?)。

 

 マタ・ハリ初演での衝撃的な出会いからもうすぐ4年。その当時からの悲願だったDVDがとうとう我が家にやってきました。早速マタ・ハリワールドに浸っています。本当に大好きな作品。加藤和樹さんラドゥーがイチオシですが、田代万里生さんラドゥーも大好きだし、アルマンもマタもピエールもアンナも美しいアンサンブルも、ストーリーも世界観ももう全てが大好きです。

 最高だったね 決して忘れない…

ありがとう、マタ・ハリ!再再演で会える日を心から楽しみにしています。

 

マタハリ考察一覧はこちら

マタ・ハリ① ~鏡の中にあなたを見るまで - えとりんご

マタ・ハリ② マタ 〜見れば魂奪われ - えとりんご

マタ・ハリ③ アルマン 〜連行してくれるの? - えとりんご

マタ・ハリ④ ラドゥー ~なぜ心きしむのか - えとりんご

マタ・ハリ⑤ ラドゥー2 ~あなたがいるから眠りを忘れた - えとりんご

マタ・ハリ⑥ ラドゥー3 ~あの眼差しにとらわれて - えとりんご

マタ・ハリ⑤ ラドゥー2 ~あなたがいるから眠りを忘れた

 マタ・ハリ考察のラドゥー編、まだまだ熱く続きます。毎回のことながら、ネタバレでしかありませんのでご注意ください。

色気
 正義と愛の板挟みに苦悩する男が好みと言いましたが、すみません、嘘をついていました。正義と愛の板挟みに苦悩するイイ男が好みでした…笑 何やかんや言って、ラドゥーが心を捉えて離さないのは、圧倒的な色気なんですよね…。
 私は大昔から可愛いとかかっこいいよりも、色気を重視してきたんだなと最近実感しているんですが、加藤和樹さんラドゥーの色気がツボに刺さりまくりってしまいました。軍服がいいとかおうちガウンがいいとかではないんですよね(いや、それも否定しませんが)。中の人が元々フェロモン全開なのもあるんですが、ラドゥーはまず立ち居振る舞いがいいんです。大佐まで昇り詰めた自負や首相の娘婿というステータスからくる自信が、表情や姿勢、仕草や目線に滲み出ていますよね。心の内では色々迷いもあるんですが、立っていても歩いていても堂々たる威厳がある。色気って外見だけじゃなくて、内面が充実して初めて備わるものだよなと全世界の男どもに言いたい。また、ともすると、そういった自信は高圧的で周囲を見下す印象にもなりがちですし、そのように感じる場面も多少あるようには思いますが(キャサリン相手の会話など)、絶妙にそのラインを行きすぎず、近寄りがたい孤高のリーダーが醸し出す色気をまとっていたと思います(もう既に大好物)。あと、私がキラキラプリンスが苦手なのは、歯が浮くような甘い台詞が苦手で、キュンとする前にうさん臭いわ~っと思ってしまうからなんですが、ラドゥーはマタへの思いをずっと抑え込んでいて、何なら自分でもその気持ちを認めていないんですよね。それが抑えても抑えても溢れてしまって、徐々にコントロールできずにだだ漏れてきてしまうわけですよ。抑えているのに溢れてくる感情は紛れもなく本物なわけで、そのむき出しの感情をぶつけられると、すみません、こっちも制御不能です!!ってなりますね笑 特に「なぜ心きしむのか」が絶品で、ぎゅ~~っと心掴まれます。そこからの「二人の男」!沼落ちの軌跡でも書きましたが、私はこの歌が真正面から突き刺さり幕間で立ち上がれなくなりました。

 想像できる君の心

 夢中なんだろあの香りに

とまぁ何ともねちっこく、アルマンの気持ちに探りを入れていくラドゥー。…だったはずなんですが、

 全てが色めく彼女といると
 お前も同じはずだろ

アルマンじゃなく、自分のことかーーい!!ってなりますね笑笑 そして、目を閉じ妄想に耽る大佐が爆誕するわけです。もうこうなると大佐も止まりません。見ているこちらも、劇場にいるから辛うじて我慢していますが、家で見ていたらふぇふぇふぇふぇ…と変な声を出して、膝を思いきり叩きまくるだろうなというぐらいにはテンションマックスになってきます。
 白を切り続けていたアルマンも、宿泊リストを突き付けられた途端に反撃に出ます。マタの愛を手にしている男の余裕なのか、リストを握りつぶしたり、破り捨てたり、大佐の肩をポンポン叩いたりと、上司をとんでもなく煽る煽る。ラドゥー推しですが、ここはアルマン行け~!ってなりますね笑 パッシェンデール送りを告げた後には、もはや二人とも隠すつもりなど一切なく、自分の熱い思いをぶちまけます。これはラドゥーだけでなくアルマンにも言えることなんですが、「二人の男」の最大の魅力は、最初は二人ともしれっとマタへの気持ちを隠しているのに、煽り煽られしているうちに、どうしようもなく沸騰して溢れ出てきてしまって爆発させるところだと思うんです。大事なところなのでもう一度言いますが、隠しているのに我慢できずに溢れてくるってところが最大のツボなんです。最後にはもう上司とか部下とか関係なく、ただの男としてなりふり構わず自分の思いを全力で殴りつけあって、ついでに二人がかりで色気もフェロモンもボコスコ投げ散らかしてくるので、当然我々は思いきり被弾し、再起不能になるというわけです。

 そこで終わるわけではなく、2幕にはさらなる難所(?)おうちラドゥーが待ち構えています。誰がおうちラドゥーって命名したのか知りませんが、キャストの方々もおうちラドゥーって呼んでるようで嬉しくなりますよね。あんなガウン着ておうちでウロウロしてるだけで罪ですよね。その上、デキャンタでウイスキーとか、緑のウニャっとしたソファーとか、小道具が効きすぎててアカンやつです。
 ラドゥーは夜分に自宅を訪ねるマタに驚きつつも、「あなたの力が今すぐ必要なの!」なんて言われて思い切り自尊心をくすぐられてしまいます。まぁ~、あの時の顔はホントに絶品ですよね。「いいだろう、来てくれて嬉しいよ」…その声!その目!!(byアンナ) バンバンバンバン!もう膝もひじ掛けも叩き割りたい(劇場です)。飛び上がるほど嬉しいくせに、がっついたりはしないで、ゆっくりと腰を取ってソファーにエスコート。ガウンをファサーってなびかせてひざまずいたり、ソファーに膝をついて抱きしめたりとか、ありゃ~何ですかね?!もう自分の手の中にあることを確信して、あとはゆっくりじっくり自分のものにしてやろうっていうドS魂胆ですかね。あの~ラドゥーさん、マタは手玉にとりにきてますよ~。マタの頼みは、アルマンの消息を知りたいという、ラドゥーの夢を打ち砕く内容だったんですが大丈夫ですか~?アルマンの居場所を教えるのと引き換えに、先に取引してもよかったのに、何でラドゥーは先にカード切っちゃったんですかねぇ。舞い上がっちゃって余裕がなかったのか、それともここで俺の魅力に落ちないはずがないという勝算でもあったのか。余計なことはさっさと済ませて、ゆっくり本題に移りたかったんですかね。その余計なことがマタにとっては本題で、あなたの本題はマタにとっては余計なことなんですがね。とにかく、以前のマタならいざ知らず、アルマンとの本物の愛に生きる今のマタはたとえかりそめでもラドゥーを受け入れるつもりはなかったわけです。その強い拒絶にあって、ラドゥーはビーストモードへメタモルフォーゼ。先ほどの余裕はどこへやら、完全に力づくでマタを押さえにかかります。「選べばいいんだ、目の前の男を!」選ばれてない立場、選んで欲しい側の立場なのに、選べばいい!と言える俺様メンタル、最強すぎませんか?!(すみません大好きです) ここはマタをソファーに投げ倒した上、シャツのボタンを開けるという暴挙に出るわけですが、東京前楽ではガウンが落ちるというちょっとしたハプニングがあった結果、サスペンダーまで外してガウンを投げ捨てるというとんでもない大量殺戮作戦に瞬時に切り替え!この日はリアルタイムで配信もされていましたので、全国あちこちで悲鳴が響き渡るサスペンダーテロ事件として名を刻みました(刻んでません)。私は劇場で見ていましたが、オペラグラスを握る手がガクガク震え、マスクの中でうそっ、ちょっ、ひぃ~~~っと声なき声を上げ、天井を仰いで昇天しました。次のマタの歌は完全に聞き逃しましたね。真後ろのお客さんにも、こいつ大佐にやられたなと思われていたことでしょう。


 はい、ではここで本日の復習。もうさすがに優秀な皆さんはラドゥーの定理を覚えてくれたと思いますが、最初は余裕たっぷりドSオラオラ路線全開なのに、途中から溢れ出る感情を制御できなくなって、余裕なくして狂うのがドツボofドツボなんですよ。最初っから余裕なく迫られても気持ち悪いだけだし、最後までドS突き抜けられても勘違い野郎だし、最初から甘々に愛を囁き出すのはうさん臭いし、意外に自分のストライクゾーンは狭い気もするのですが、ラドゥーはその絶妙なラインをど真ん中どストレートに剛速球で突いてきたので、刺さりまくって悶絶しました。

 …1の苦悩編より更に長編スペクタクルとなってしまいました笑 闇落ち編については更に次回へ続きます。

 

マタハリ考察一覧はこちら

マタ・ハリ① ~鏡の中にあなたを見るまで - えとりんご

マタ・ハリ② マタ 〜見れば魂奪われ - えとりんご

マタ・ハリ③ アルマン 〜連行してくれるの? - えとりんご

マタ・ハリ④ ラドゥー ~なぜ心きしむのか - えとりんご

マタ・ハリ⑤ ラドゥー2 ~あなたがいるから眠りを忘れた - えとりんご

マタ・ハリ⑥ ラドゥー3 ~あの眼差しにとらわれて - えとりんご